~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

☞【明治時代は順風満帆ではないっ!】『明治維新の大誤解』(夏池優一、2017年、彩図社)

明治は試行錯誤の連続。
順風満帆なスタートとは程遠かった。

以下、読書メモと雑感。

目次

§1.大義なき倒幕 新政府の横暴

1.攘夷はどこへ?大義なき倒幕運動

元々、開国路線をとる幕府に対する批判から尊王攘夷運動が生じた。

しかし、薩長は政権奪取後、積極的に欧米の制度や文化を取り入れた。

元々、薩長は攘夷など行う気はなかったのだ。

(以下、イメージ)

岩倉具視「この戦い(戊辰戦争)が終わったら攘夷をせねばならぬが」

桐野利秋「攘夷なんて言ってはいけませぬ。あんなのは倒幕のための口実です。」

有馬藤太「!」(→西郷に真意を聞くと…)

西郷隆盛「お前には言ってなかったが、ただの口実じゃ。士気を鼓舞するだけじゃ。」

♨下関戦争、薩英戦争時の主軸は本気で攘夷を考えていたであろう。
下関戦争は「攘夷派」の久坂玄瑞が主軸。
桂小五郎、高杉晋作は「慎重論」、伊藤博文は長州ファイブとして渡英していた。

日米和親条約は林大学頭がリードした。
日米修好通商条約は、「弱腰」ではなく、「許勅」が得られなかったことが問題とされている。
関税自主権なし、治外法権などは不平等条約であるが、商業活動地域を限定するなど岩瀬忠震がリードした部分もある。

♨頑固すぎる孝明天皇と、その取り巻きたちが問題と思う・・・。

2.死者の埋葬も許さない戊辰戦争の悲劇

戊辰戦争については星亮一先生の【コチラ】も。

大政奉還で政権を返上した徳川家を攻撃する必要はなかったはずだ。
相楽総三らを使って火の粉を立たせて起こしたものである。

♨この時の薩長は、略奪・強姦+「埋葬も許さない」など。
明治維新が「無血革命」だなんておかしい

「戊辰戦争」は新しい時代についていけなかった旧幕府軍の抵抗ではない。
降伏を受け入れず、平和裏な解決を許さなかった薩長による非道な攻撃である。
「敬天愛人」なんて口だけ

3.赤報隊を切り捨てた西郷隆盛の非情

現在の西郷隆盛のイメージが「虚像」と言われるのは理由がある。
相楽総三に「年貢半減」を叫ばせながら、用が済むと「それは相楽が勝手に嘘をついた」として処刑した。

→【西郷隆盛論に関しては田中聡先生の著書が秀逸!!

♨江戸城無血開城にしても、パークスから戦争はするなと脅されていたからである。ちなみに赤報隊の犠牲者である相楽総三は江戸出身。

4.五箇条の誓文の建前と五榜の高札の本音

「五箇条の御誓文」は国民に向けられたものではなく、公卿や諸侯に向けられたものである。
戊辰戦争で慶喜追討協力体制を作るためという狙いもある。

この発令の翌日が江戸城総攻撃の予定日であった。

※ほぼ同時期に出された「五榜の高札」は庶民向けであり、非常に封建的な内容。これが明治維新の実態。

5.伝統を壊した「仏教弾圧」と「神道の国教化」

史上最大の愚策は「廃仏毀釈」を含めた宗教クーデター。
この裏には岩倉具視の右腕として働いていた玉松操の存在がある。
彼は平田篤胤を源とする国学者であり、神道国教化政策を進めていた。
結局、「欧化政策」に押されて有名無実化したが、ここにも明治維新の迷走が見られる。

壊された仏像は哀れ。キリシタンも当初は弾圧されたが、諸外国のクレームを受け宥和へ。
明治22年(1889年)の大日本帝国憲法でようやく信教の自由が認められた。

§2.混乱だらけの内政改革

6.だまし討ちに近かった版籍奉還と廃藩置県

「版籍奉還」と「廃藩置県」は奇跡的と言われているが、実態は「そうせざるを得なかった」のと、「あまり理解していなかった」。

藩主たちは版籍奉還後、土地や人民が再交付されると考えていたものもいた。
薩長土肥が最初に行ったこと、藩主は「知藩事」となることが決まっていたこともスムーズに進んだ原因であろう。

また、各藩の財政難は、廃藩置県をスムーズにさせた。戊辰戦争の戦費の負担に加え、軍事費の負担が大きく、自ら廃藩を申し込んだ藩もあるほどである。問題は薩摩藩であったが、最終的に西郷隆盛も認めた。

※「版」=領地、「籍」=領民。

7.明治維新を裏で支えた幕臣たち

維新当初、一般行政から財政まで、ほとんどが旧幕臣が行った。

岩倉使節団は多くの旧幕臣を書記官としてを連れて行った。

司法大輔佐々木高行「書記官には旧幕臣が多数いたので、使節や理事官などは、維新の仇を返されたるような有様だ」。

維新の三傑すら所詮は藩レベルの統治経験しかない。いくら地位が高くても実務面で劣っていればイニシアチブがとれない。

勝海舟、榎本武揚、渋沢栄一(徳川慶喜とパリ万博を視察。のち大蔵省へ。)、西周(→文部省)、津田真道(→法律整備に尽力)らは旧幕臣。

徳川家達(とくがわいえさと:1863~1940)は徳川慶喜の養子で、慶喜隠居後の徳川家を継いだ。1921年ワシントン軍縮会議の全権委員も務めた。

8.建前だらけで負担大 地租改正の偽り

1873年(明治6年)、地租改正。
生活は楽にならず、各地で暴動。
(茨城県の真壁騒動、伊勢地方の伊勢暴動など。)

9.徴兵制は貧苦な農民がターゲットであった

1872年(明治5年)、徴兵告諭。
これにより「安く」軍隊が作られるようになった。
特権のあった武士は不満。

※桐野利秋「山縣は土百姓を集めて人形を作る、はたして何の益あらんや」

※条文に書かれた「血税」の文字を見てで本当に血液がとられると勘違いした民衆の暴動も起きている。岡山県。

10.教育改革の土台は江戸時代の寺子屋制度

1872年、「学制」が発布。
各地の藩校や寺子屋が学校になった。教師も然り。
江戸時代に築かれた教育制度がなければ明治以降の教育整備は不可能であった。

義務教育が規定されるのは1886年(明治19年)で、8年制。
ただ、貴重な働き手を奪われること授業料の負担などから、反対一揆(筑前竹槍一揆など)もおきた。

11.沖縄の近代化を遅らせたリンチ事件

沖縄は鹿児島県の管轄である一方、中国とも冊封体制を敷いており、問題は棚上げされていた。
1871年(明治4年)の宮古島住人殺戮事件と、1874年(明治7年)の台湾出兵後、日本の帰属を認める発言を受けたことで、1875年(明治8年)、琉球併合を目指す。

→コチラにも【日清・日露戦争はこうして起こった

しかし、琉球は清国との関係から琉球処分官松田道之の要求を拒否。そこで1879年(明治12年)、警察と軍隊が首里城へ入り、琉球王・尚泰は華族として東京へ連れられた。琉球藩は沖縄県へ。

沖縄ではかつての支配族を中心に「政府への非協力血判署名」が出回り、派出所へ就職した下級士族の下地仁屋利社が撲殺される(サンシー事件)事件も起きた。

政府は支配族への配慮をみせることで解決しようとするが、これは沖縄の近代化を遅らせることにもつながり、普通選挙が行われるようになったのも本土より20年以上遅れた1912年である。

§3.かたちばかりの欧化政策

12.季節が急に変わった!明治改暦の真相

1872年(明治5年)、太陰太陽暦から太陽暦に変更された。
これには「閏月の分の給与を減らす」という目的があった。

大隈重信「この閏月を除いて財政の困難を救うには、断然、暦の制度を変えるしかない」

13.酷評された鹿鳴館の舞踏会

不平等条約撤廃と欧米の仲間入りを目指し、巨額を投じて鹿鳴館が作られた。
しかし、目的は果たせないまま「鹿鳴館外交」は井上馨辞任とともに4年で幕を閉じた。

パークスは条約改正交渉には難色を示すなど、新政府の味方ではなかった。

1883年(明治16年)、現在の紙幣価値において5億6000万で鹿鳴館が造られる。

ピエール・ロチ(フランスの海軍士官・作家)
「燕尾服と言うものはすでにわれわれにとってもあんなに醜悪であるのに、何と彼らは奇妙な恰好にそれを着ていることだろう!・・・わたしには彼らがみな、いつも、何だか猿によく似ているように思える。」

伊藤博文はダンスこそ踊らねど、岩倉具視三女の戸田極子とスキャンダルを巻き起こす。

14.ちょんまげ禁止と洋服着用のドタバタ

1871年(明治4年)、「散髪脱刀令」。
しかし、おかしな髪型が続出。そのおかしさに、「半髪者」には税金をかけようとする案も出た。

この法令には、欧米へのアピールと共に見た目で身分がわからなくすることで、士族を廃滅する狙いがあった。

1872年(明治2年)、島津久光は明治天皇西国行幸に際して、「14カ条の意見書」を提出。
「散髪脱刀」は美風良俗を破壊する、と進言。

1875年(明治8年)、山縣有朋から「廃刀建言書」が三条実美に提出され、翌年に「帯刀禁止例」が出された。
それを受け、熊本で「神風連の乱」、福岡で「秋月の乱」、山口で「萩の乱」がおき、1877年(明治10年)の西南戦争へつながっていく。

15.欧化政策の悲劇 森有礼の暗殺事件

初代文部大臣森有礼は欧化政策の中心人物として標的に。
伊勢神宮参内の際、泥靴のまま神殿にあがり、ステッキで御簾をあげた、礼拝もしなかった、という風評を受けて暗殺された。
これはでっちあげ説がある。

ただ、当時の報道としては森暗殺が称賛されるような風潮であった。

§4.悲惨すぎる庶民の生活

16.名ばかりの娼妓解放令と事実上の一夫多妻制

明治5年「娼妓解放令」。
借金帳消しの理由が「身を売る女性は既に牛馬と同じで人権を失っているのだから借金を返す必要もない」であり、
「本人の意思で希望したければ公娼として続けることができる、

としたところ、結果的に公娼が増えた。

明治3年の「新律綱領」で妾が公認。一夫多妻制に。
様々な議論を経て、明治13年にようやく妾は戸籍から削除。
ただ、妾がなくなったわけではない。

明治5年、ペルーの中国人奴隷が日本で逃げ、奴隷制度を問題として裁判でペルーへの引き渡し拒否を勝ち得た件があった。
しかし、ペルーも「日本にも遊女・娼婦がおり人権が侵害されている」とクローズアップさせられてしまったので、「娼妓解放令」を出した、というのが真相。

17.大騒ぎになった「明治ミスコン事件」

1908年(明治41年)、欧米の影響で世界美人コンテスト日本予選が行われた。
しかしグランプリの末弘ヒロ子は女子学習院中等科。当時の院長は乃木希典で放校処分をくらう。

18.コレラ大騒動!民衆が大反発したワケ

外国から輸入された厄介なものの代表例が「コレラ」。
政府は検疫強化を訴えるも、パークスは聞き入れず。
明治期にコレラで死亡した人数は37万にも達し、日清・日露戦争による死者数を上回った

「コレラ一揆」も各地でおこったが、これはコレラ対策の不備ではなく、コレラ対策として隔離する病院があまりに粗悪で、また隔離を行う警察、治療(といっても大した治療はできない)を行う医師の態度があまりに強硬であったために生じた。

19.寮の食事に異議あり!「賄征伐」という退学騒動

師範学校の寄宿舎生活は多くの生徒にとってストレスであった。
森鷗外は常に護身用短刀を持ち歩いていた。
ストレスの理由の1つは「賄が貧弱すぎる」こと。

「机を叩く」、「茶碗を投げる」、「7,8人前食べる」、などの抗議が行われ、数百人が退学に。

この中には後に大物になるものも多く、原敬は生徒代表として司法卿に陳情を行った。

「出入り業者のピンハネ」、「校長へのキックバック」が原因であった。

20.空前のウサギブーム 間抜けな士族の商法

1876年(明治9年)に「秩禄処分」が発布され棒給が得られなくなったことで商売を始めた士族もいたが、失敗も多かった。

おかしなのは「ウサギブーム」。
「皇室では1日2回牛乳を飲む」ことから牧牛が流行ったが、土地のない士族の間ではウサギが流行った。

ウサギブームは明治4年くらいから始まるが、明治6年、「ウサギ税」導入により大暴落し、いつしか収束。

21.ニセ金だらけで大混乱した貨幣制度

戊辰戦争に勝利できたのは三井、小野、島田などの大両替商のバックアップがあったからこそ。
赤報隊の年貢半減令が通らなかったのは豪商たちの大反発があった。

新政府は旧貨幣の鋳造を行ったが、粗製濫造したために通貨の価値が暴落。
幕末にも諸藩が戦費調達のために質の低い貨幣を鋳造したが、これらが市場に出回ったことで、1869年(明治2年)、外国公使から問題視された。

そこで、外国人には偽物を本物と取り換え、日本人には太政官札と取り換えるという方策をとったところ、日本人商人と外国人商人が結託して偽物を集めるという事態が生じた。
さらに太政官札は全く流通しなかった。
その後も、混乱は続くが、1871年(明治4年)、ようやく「円」が誕生。         

22.欧米追従による失策で高利貸しが横行した

明治30年~35年にかけて新聞に連載され、爆発的な人気となったのが尾崎紅葉『金色夜叉』。主人公は貫一、ヒロインはお宮、舞台は熱海。世に復讐を誓った貫一が選んだ仕事が高利貸し。

日本では奈良時代から利息が存在し、徐々に緩和され、1842年の天保の改革でようやく利息制限が加わったものの、明治政府は1871年、制限を撤廃してしまった。

これにより深刻な経済危機を迎え、

ようやく1877年(明治10年)、利息制限法が定められる。

23.経済に打撃!大隈の誤算と松方のやり過ぎ

新政府では贋金問題が横行。
さらに、1877年(明治10年)の西南戦争の戦費のために兌換紙幣なども発行せねばならず、貨幣制度は大混乱。紙幣価値は下がり、インフレに。

ここで登場した松方正義であるが、

緊縮財政を行ったところ今度はデフレ。

農産物価格は大暴落、工業賃金は低下。自殺者も多く出た。

地租改正に続き、またも松方正義は平民を苦しめることに。

§5.明治政府の裏の顔

24.政敵を非民主的に処刑した大久保利通

司法卿となった江藤新平は、フランスの法律を参考に人権擁護の点から裁判制度の組織化と近代化に尽力。復讐制度の廃止も行った。

欧米視察から帰った大久保利通はドイツ式を目指しており、両者は対立

1873年「明治6年の政変」で西郷隆盛の朝鮮派遣をめぐり、西郷隆盛、副島種臣(佐賀藩)、板垣退助、後藤象二郎らとともに江藤も辞職。

江藤の帰郷で勢いづいた士族集団が決起。江藤は指導者に祭り上げられ、これを大久保利通が捕獲。ろくに審議もせずに斬首のうえ、さらし首に。

かつて言いくるめられた経験があって根に持っていたのか、大久保は「江藤、醜体、笑止なり」と日記に書いている。

こんなことを政府中枢の人物が行っているから欧米からの評価が下がった。

25.維新の三傑死す!俗物だらけの後継者

西郷自害の8か月後の1878年(明治11年)、「紀尾井坂の変」で大久保利通暗殺。
前年には木戸孝允も死んでいるため、維新の三傑はほぼ同時期に死亡。

後継者には大久保の右腕であった大隈重信のほか、伊藤博文、井上馨、黒田清隆。

本命は大隈重信であったが、王侯貴族のように贅沢をしていたり、専制的な振る舞いなどから嫌われた。特に私腹を肥やさなかった西郷隆盛は眉をひそめていた。結局、国会開設をめぐっておきた「明治14年の政変」で失脚。しばらく下野。

伊藤博文は天皇にたしなめられるほどの女好き。偉人として語られないのはしょうがない。

井上馨は条約改正には失敗、財閥との癒着が顕著で、実際に三井物産に関わっている。岩倉使節団を見送ったときの宴では西郷から「三井の番頭さん、一杯」とバカにされている。

元薩摩藩士の黒田清隆は戊辰戦争、西南戦争で活躍したものの、とんでもない酒乱。
酔っぱらって大砲を撃って人に命中させ殺している
第2代首相となったが、条約改正に失敗し退陣した後、酔っぱらって井上馨の家に押し入り、「殺しに来た」と暴れて騒ぎを起こしている。

(追記)山縣有朋も。「伊藤の女、山縣の金、井上の両方」。

26.酒と西洋文化を愛した明治天皇の素顔

急速な西欧化に抵抗を持つ人も多かったが、明治天皇が率先して西洋化することで影響を与えた。大久保利通のアイデアでもあるが、酒飲みでもあり、割と気さくな人であった。

27.福沢諭吉と並ぶ人気 福地源一郎が見た維新

元幕臣で明治時代になってからは平民として塾講師などをしていたが、持ち前の語学力が買われて岩倉使節団にも名を連ねる。

その後、東京日日新聞を創刊。

官報となるのを期待したが、官報は福沢諭吉の「時事新報」になり、その後、次第に忘れ去られていく。

28.恐露病による大津事件のドタバタ

1891年(明治24年)、皇太子ニコライ(のちのニコライ2世)が来日。滋賀で警備していた津田三蔵が突然、斬りかかる。

当時、朝鮮半島をめぐって日露は微妙な関係にあり、肝を冷やした。

津田を死刑にしようとする動きもあったが、司法官児島惟謙は松方首相との戦いに勝ち、「司法権の独立」を勝ち取る。

29.「憲法発布」と作られた「国民のから騒ぎ」

1889年(明治22年)、大日本帝国憲法が発布。

明治維新最初の頃は士族の反乱などでそれどころではなく、民間から立憲主義を求める声が高まったためにようやく制定を目指すことになり、1882年、伊藤は欧州へ渡る。

教科書には伊藤博文がドイツの憲法学者グナイストから憲法理論を学んだ、とあるが、そんな代物ではなかった

グナイストの講義の夏休みに渡ったウィーン大学法学部でシュタインの4か月の講義を通じて、ようやく着手を得る

1885年(明治18年)、ようやく近代的な内閣制度導入。
1889年(明治22年)、憲法発布。

しかし、憲法発布前の皇居での式典当日、伊藤は憲法を官邸に忘れるわ、井上馨は天皇が読み上げる日付を誤記するわ、森有礼は式典に出ないわ(暗殺されていた)、とごたごたであった。

国民は人為的に狂喜乱舞とも言える騒ぎとなったが、憲法の中身を知る人はほとんどいなかった。

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