~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

☞【1864年、下関戦争】『幕末日本と対外戦争の危機』(保谷徹、2010年、吉川弘文館)

端的に言えば、下関戦争は「横浜鎖港要求」を封じるためのものであった。

以下、読書メモと雑感。日本の外交政策史は実に興味深い。

<プロローグ>

当時、日本から英本国に書簡が届くには1ヶ月半から2ヶ月。

海軍本部委員グレイは外務大臣ラッセルに下関戦争自重の訓令を送り、その結果をひたすら待っていた。

もし、下関戦争で日本国内の大名たちと全面戦争となった場合、横浜に居留する多くの外国人および日本海域に現存する英国艦隊が大打撃を受ける

と考えた。

<外圧の構造>

1-1.幕末の外圧問題

昭和26年、遠山茂樹と井上清の間で論争があった。

遠山は天保期(1830-1844)から話を起こし、維新変革を支配階級内部の抗争ととらえたのに対し、井上は植民地化される危険性を指摘し、民衆の民族的覚醒と下級武士層の結びつきを重視して論陣を張った。

この論争の流れは次の世代でも続く。

♨近年では、江戸と明治の「連続性」がクローズアップされている。すなわち、支配階級内部の抗争ととらえる見方。

1-2.東アジア情勢と自由貿易帝国主義

「可能なら非公式に、必要ならば公式的に支配を拡大」とするのが自由貿易帝国主義の考え。

1846年穀物法撤廃、1860年英仏通商条約締結を皮切りして、1860年代に全盛となっていた。

初代駐日公使であるオールコックは、武力なしに新しい市場を獲得することが通商を拡張することが理想であるとする一方、

そのために軍事力による圧力は必要

と述べている。

<攘夷主義と対外戦争の危機>

2-1.開国・開港と攘夷主義

ハリス(アメリカ)とオールコック(イギリス)はことごとく意見が対立していたが、アメリカが南北戦争で撤退したため対日外交の主導はオールコックになった。

第2次東禅寺事件(1862年6月)くらいから疑念は幕府にも向けられる。

武力が必要か調査中に、生麦事件(1862年9月14日)が勃発。これにより海上封鎖作戦を本格的に検討した。

2-2.幕府の鎖港方針

1862年秋には日本は各国の予想を超えた事態になっていた。

1862年秋、松平春嶽が「破約攘夷」を唱える。三条実美は江戸へ出向し、幕府に攘夷の誓約を要求した。(※こうなったのは、公武合体の代償。)

生麦事件の賠償支払いをめぐって戦争危機となっていたが、水野忠徳、小笠原長行らにより賠償金支払い断行

一方で幕府は開いた港を閉鎖したい、という旨を伝える。

列強はこの背後に朝廷があることを理解。

※攘夷で中国の二の舞になると危機感を抱いていた幕府は「公武一体」を図ることで難局を乗り切ろうとするが、この見返りの条件が、攘夷の実行期限の決定であった。小笠原長行は精兵を率いて入京して将軍家茂を江戸へ連れ帰る計画を立てて淀まで到達するが、在京幕臣によって阻止された。この「卒兵入京」が実現していたらその後の歴史も大きく変わっていたであろう。

※「なぜ」日本が植民地を逃れることができたのか

と言えば、

  • アメリカは南北戦争でそれどころではなかった。
  • オランダはそもそもそれだけの兵力がなかった。
  • フランスはナポレオン3世のもと基本的にイギリスに追従していた。

  • ロシアはイギリスの牽制にあった。
    (1861年対馬事件など、実効支配を憂慮していた。なぜ北海道は攻め込まれることがなかったのかも考察が必要。)
  • イギリスはアロー戦争で清を統治することになったが、その後も太平天国の乱を受けるなど莫大な出費がかさむことがわかり、間接統治を目標とした

などが挙げられる。

さらに生麦事件で、小笠原長行によって

  • 賠償金がちゃんと支払われた

ことも挙げられる。

また、

  • 日本にそれほど魅力を感じなかった
  • 日本人の文化度(民度)が高かったために占領は難しいと考えられた

ことも、可能性としてあげられる。(いずれにしても、1つの要因ではない。)

さらに家茂により、

「30日以内の外国人追放令」が出されたが、これは宣戦布告しているようなもの。

小笠原らは慶喜に先回りして外国との交渉を行った。(※江戸と京都の方針が違っている)

2-3.武力衝突

幕府は八月十八日の政変後も、当時、貿易の8割を占めていた横浜を鎖港する方針でいた。

鎖港の理由として幕府は、「国民の反対」をあげたが、各国は、「和親」と「通商」はセットだとして、「このような会談には応じない」とした。

幕府は戦争を回避したいが、各国は横浜鎖港を断行したら戦争になると言い、幕府と各国のせめぎ合いが続く。

※キューパー(英)は幕府自身も疑う。さまざまな大名と結託して外国人排斥に向かっているのでは?と考える。開戦した場合はそれなりの陸軍が必要となること、鹿児島戦争から相手も力をつけていることなどから警戒。

1863年末には日本情勢悪化の情報はヨーロッパにも伝わった。

<イギリスの対日戦争準備>

3-1.対日戦争シミュレーションの策定

ミシェルにより対日戦争シミュレーションが策定された。大名のほとんど敵対、商人は有効利用できると考えた。「街を滅ぼさず」に行うことも目標である。

また、

①特定の大名との戦い、
②ミカドと大名の一部との戦い、
③日本政府との戦い

の3パターンも考えた。

パターン①。

海沿いの大名は砲撃できるが、内陸はゲリラ戦に向いており困難と考えた。

パターン②。

上陸するなら兵庫とし、ここを基地にすると考えた。ただ、最も困難なことは糧食と輸送。全て中国経由で行わないとダメで、現地調達は望めない。

※中国のようにライスクリスチャン(生活のために改宗)が派生しなかったのが効いている。)

京都を長期間占領することは難しいと判断。

パターン③。

海上封鎖し、江戸攻略。神奈川付近を基地にすれば江戸攻略は容易と考えた。

(※現在も横須賀に米軍基地があるのは当然、東京への「睨み」もあるんだろうな)。

結論としては江戸、大阪攻略は容易。
京都、内陸は困難。
経費は莫大。上陸は否定。

本国ではグラッドストン蔵相により軍事費削減が行われていた。

また、鹿児島戦争で街を焼いたことは国際法にも背くとしてコブデン(マンチェスター学派、自由貿易主義者)の非難を受けていた。

3-2.対日戦争のための情報収集

八月十八日の政変後、「参与会議」で国政が行われる流れとなっていたが、慶喜が天皇の信頼を勝ち得るために破約攘夷を訴え、久光らを奸物呼ばわりして空中分解した。この後、池田屋事件(6月)、蛤御門の変(7月)へと続く。

(植民地を逃れたことを慶喜の功績とする人たちはいるが、この参与会議で破約攘夷を唱えた姿勢をどう評価するのか?)

そのためイギリス軍は上海から陸軍工兵隊が呼び出されて横浜・長崎の防衛計画が綿密に行われた。

結論として戦争になった場合、「長崎居留地の防衛は無理」と判断。

一方、江戸、大阪は容易。

また、函館を抑えることでロシアへの牽制になるとこともレポート。

キューパーの意見としては

①横浜はほとんど丘で囲まれており大砲は常に悩まされる。敏活な敵軍ならここを見下ろすあらゆる地点から砲撃してくるので小戦力で維持することは不可能

②長崎も入江が狭すぎて防衛不可能

③函館は英国の権益が小さいので「考察外」

④国家的なプライドと偏見が高い、ので仮に戦争で勝利したとしても商業の撤退と貿易停止となる

とのこと。

また、日本の政権が崩壊する可能性も大で、少なくとも全面戦争は英国の利益にもならず、なるべく回避したい、という結論であった。

(※のちの下関戦争においても最初から全面戦争にしない予定だったのだろう。このあたりが「うまい」。)

<下関戦争とその舞台裏>

4-1.下関戦争への途

1864年、事態がいよいよ煮詰まってくる。

オールコックは武力による示威も辞さないとの構えであるが、ラッセル外相は基本的には貿易重視。

しかし、ややあいまいな訓令によりオールコックは砲台破壊の権限を得た。

オールコックは帰任後、日本の情勢が貿易縮小に向かっていることを確認。生糸の取引量が減少しているとし、これは幕府が邪魔していると考えた。

また、幕府が長州藩を処罰する意思のないことも確認

折よく太平天国の乱も終結しており、

長州藩攻撃して各藩がどう出るかを見るべく(全面戦争にならないという保証はないものの)、「賭け」に出ることに。

オールコックは下関攻撃が「鎖港は不可能」と悟らせるための戦略的好機になる、と考えた

ニューヨークタイムズは、戦争目的は横浜を貿易港として永久に抑えておく権利を確保するためのものだと喝破。

(※実際の貿易は、日本の生糸が優秀であったにせよ、日本が得をすることは1つもなく、ただただ物価が上がった。)

本国にとってオールコックは自国民の生命と財産の保護、既得権の防衛の範囲を逸脱し、かえって居留民を危険にさらすものと思われ、8/25説明責任を問い強制送還が決定した。

4-2.条約各国の思惑と対応

フランスは砲撃への仕返しで十分と考えていたが、オールコック帰任後は事態が急変。

フランス海軍による日本の軍事力レポートでは、

  • ①海軍はほぼ無力
  • ②日本人は遮蔽物の利用等に無頓着
  • ③施条銃を装備しているのは大君と薩摩だけ。しかし、戦争となれば、全階層との戦争になるので、「アロー戦争時並みの兵力が必要」と判断。また、ロッシュが着任することでオールコックと足並みをそろえて戦争に向かうことを懸念。(※のちに分かれるが)

一方、オランダは下関戦争介入に積極的。東インドの主力艦を投入。

4-3.下関戦争と国内政局の転回

そもそもなぜ開国したくないのか?

①国民感情。生糸の値段が上がって和装産業が衰退。
②孝明天皇はじめ、異人への気持ち。

薩長は現実的には密貿易商売で利益を収めていたので、開国したらそのうまみがなくなる、という思いもあったであろう。

ついに開戦。

オールコックはもっと攻め込むつもりだったが、キューパーは却下。

下関戦争の結果を受けて、「横浜鎖港要求」は撤回。

さらに、オールコックはミカドにも責任を求める。オールコックの次なる目標は兵庫沖進出と慶喜らへの工作である。

オールコックの後任がパークス。

1865年11月、阿部正外、松前崇弘は勅許なしの兵庫開港を承認しようとするが、禁裏守衛総督徳川慶喜の猛反対にあい、官位剥脱、謹慎に。

その後、朝議が行われ、徳川慶喜らは勅許を訴えようやく勅許を得るが結局、兵庫開港はせず。松平宗秀は関税軽減を提議。

勅許以降、条約に異議を唱える者はいなくなった。課題も外国人排斥ではなく、万国対峙の世界に耐えうる政治体制への構築へと変化した。

(※このあたりはなぜそういう発想になったのか、もうちょっと詳しく説明して欲しかった…)

<エピローグ>

パーマストン「力強い突きは立派な受けである」
(A vigorous Thrust is a good Party)

<あとがき>

清国が列強と戦ってことごとく敗れたのに対して、日本はことごとく戦争を避けた。ここに幕府のリアリズムを評価する面もある。

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