~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

【前編はコチラ】

4.ムラヴィヨフの要求ー1859年秋

§1.オールコックの函館行

ロシアが樺太を占領した場合、イギリスが蝦夷を占領して対抗するという可能性は否定できない。

§2.ムラヴィヨフの脅迫と内乱の恐怖

ロシアの樺太領有へはアメリカも反対があったと思われる(※1)。国内においては最も強力な武力を持つ水戸藩に長州藩、および尾張、越前(※2)、薩摩(※3)の過激派が手を結んだら大規模な内乱(※4)に発展する恐れがあった。

水戸藩の挑発によりロシアが日本と戦争になれば、各国はこうした攘夷派とも大規模な戦争になる恐れがあった。

(※1)アメリカとロシアにはアラスカ問題があった。アラスカから北海道にかけては鯨の好漁場であり、この海域を重要視していた。アメリカがロシアからアラスカを購入するのはのちの1867年。のちの1861年のハリスの通訳ヒュースケン殺害事件で各国は怒りをあらわにしていたが、当のアメリカだけが穏便な処置を求めた。

(※2)橋本左内は倒幕の意図がなかったが、吉田松蔭と同じく死刑にされたのは井伊直弼が恐れていたからであろう。

(※3)このタイミングでの斉彬の死に西郷などは毒殺されたのだと信じていた。

(※4)アロー戦争前後の清国がこれ。太平天国の乱の最中にアロー戦争が勃発したものだから清国も譲歩に継ぐ譲歩を重ねた。

§3.なぜ遣米「大」使節団か

1860年、日米修好通商条約批准書交換のため、遣米使節団が総勢150人で出発した(※5)。米からは武器が贈られた(※6)。イギリスは大沽砲台の件で主力がいなく、ロシアはムラヴィヨフによる恫喝外交で関係が悪化していた(※7)。

(※5)幕府の財政も苦しいというのに、かなりの大人数である。ちなみにこの2年後、イギリスはオールコックの便宜のもと、開港延期交渉のための使節団がイギリスへ。

(※6)曲射砲と弾丸百発、野砲車、火器製造機器、銃およびピストル、騎兵刀およびその使い方を教える士官。イギリスが贈った快速艇よりも破壊的。これはムラヴィヨフのロシアに対抗するほか、水戸や薩長はじめとする雄藩への威圧も含まれる

(※7)1858年の時点ではおそらく米英露に3分の1ずつくらいが適当であったであろう。とにかく井伊直弼はロシアがかなり食い込み、イギリスが追い付こうとしている状況において、大きくアメリカ寄りに舵を切った。ロシア海軍水兵殺害事件の際に、ハリスが相当解決に寄与してくれたことも大きいであろう。翌年、アスコルド号と同じくらいの大型軍艦ポーハタン号も送ってくれた。

§4.勝海舟は何をしていたか

安政6年(1859年)は内政外交とも恐るべき年であった。この年の勝海舟の行動(※8)はあまり知られていないが、修理した「アスコルド号」が戦争に使われそうで戦々恐々としていたであろう(※9)。

また、下田に残されたディアナ号の大砲(※10)をロシアとの戦争に備えて江戸に輸送する任務を行っている(※11)。

(※8)1月に長崎海軍伝習を終え、軍艦朝陽丸の艦長として江戸へ。その後、神奈川台場の築造指導。8月24日、ムラヴィヨフとの樺太領土交渉決裂、翌日のロシア水兵殺害事件を経て、海舟の直したアスコルド号が江戸湾にて威圧。

(※9)この前年、島津斉彬と会見。斉彬はまだ海舟が蘭学者の頃から援助を行っていたし、アスコルド号修理に際しても斉彬の支持があったからこそである。しかし、この2か月後、上京して慶喜を擁立するための薩摩藩兵を練兵している最中に急死した。毒殺と信じたものもいるようで、桜田門外の変に薩摩藩士有村次左衛門が加わっていることもこの影響と思われる。いずれにしても井伊直弼にとって一橋派は全員敵であり、斉彬と海舟の関係を問題にしていたら事は重大であった。同じく9月、海軍伝習所の産みの親、海舟の上司でアスコルド号修理においても海舟の進言を取り入れた永井尚志も罷免されてしまった。遣米使節団とともに出発する幕府軍艦に海舟を加えた人物でもある。

(※10)修理の際に、下田に大砲52門置いて戸田に行った。稼働に必要な工具は海に落ちたが、ロシア兵はそれを作成して、日本が自由に大砲を使えるようにした。のちにプチャーチンは後にそれを置き土産とできるよう許可を得た。

(※11)海舟自らの提案では?とも思う。

§5.生麦事件との類推

一度は江戸総攻撃を考えたムラヴィヨフであったが、そうしなかったのはそう「できなかった」のであろう(※12)。1862年の生麦事件の際の顛末(※13)を考えてもそう思う。しょうがないので謝罪と処罰の要求だけにしたのであろう(※14)。

安政の大獄が極めて苛酷な形で行われたのは井伊直弼がロシアの報復を恐れたからであろう。

(※12)ロシア水兵を上陸させたとしてその数600人程度。米英の軍艦はなく、大沽の例を見ても旧式の砲台でもそれなりの威力があるということがわかったので、迂闊に手を出せない。水戸藩はおそらく戦う気満々であったであろう。

(※13)外国人の間では島津久光を捕縛しようという意見が多かったが、イギリス代理公使ニール大佐およびフランス公使は、そんなことをすればすぐに長崎の外国人が虐殺され、戦争になり、幕府は雄藩連合が成立しないうちに瓦解、無政府状態、テロが跋扈する状態となり多くの血が流されたであろうというのがアーネスト・サトウの見解。

(※14)一橋派は軒並み罷免。川路聖獏、永井尚志も含む。鵜飼幸吉は単に親の言いつけで戊午の密勅を受け取っただけで打ち首獄門。結局、井伊直弼は阿部正弘と異なり実力がなかったのであろうが、意味のない強硬な攘夷論を押し出し、家臣を暴走に追い込み、幕末をテロ社会にした徳川斉昭の罪も重いと考える。もっとも井伊にしても、上の者には処分が軽く、下の者には処分が軽い。

5.ポサドニック号事件の勃発ー1861年冬~春

§1.海舟の渡米

1860年1月、遣米使節団77名出発。咸臨丸には勝海舟(※15)、アメリカ海軍士官ブルック(※16)、小野友五郎(※17)、中浜万次郎(※18)らが乗る。ブルックの力を借りながら、結果、無事に太平洋横断(※19)。1860年3月、桜田門外の変(※20)。

(※15)福沢諭吉は「船酔い」と言うが、生死をさまようような状態であったとのこと。ブルックに要請され指揮を譲る場面も。

(※16)アメリカ海軍の中でも有数の経験を積んだ優れた海軍士官。当時は金銀比価の違いでドル銀貨を日本に持ち込めば倍の利益が得られたためアメリカ軍艦も日中の間を行き来していたが、こうした行動に対して批判的であった。創設期の日本海軍の批判もしているが、それは「産みの苦しみ」として、その公表を50年間封印した。後半生はヴァージニア陸軍大学物理学教授として過ごす。

(※17)常陸国笠間の出身で数学の専門家。ブルックが絶賛。のちに幕僚に取りたてられ、帰国後は小笠原諸島を調査、測量し、小笠原諸島を日本の領土とすることなどにも功績があった。南北戦争後のアメリカと交渉して甲鉄艦購入をまとめ上げたのも小野であり、明治維新後も技術官僚として優れた業績を上げた。

(※18)冬の太平洋の荒天できちんとした操船の技術を身につけていたのは彼だけと評される。もともと漁師で、経験と言う点では比較にならない。

(※19)アメリカのポーハタン号は故障でハワイに寄港したため、結果的に咸臨丸の方が先にサンフランシスコに到着した。

(※20)このため海舟も敵なのではないかと疑われるなど。「提督」木村喜毅の前でも「幕府はダメだ」という発言を繰り返していたのも原因か、帰国後の海舟の昇進はなし。以後、ふてくされてろくに仕事をせず、処罰を覚悟しなくてはいけないほどに。

§2.イギリス軍艦の対馬測量事件

アロー戦争中の最中、1859年5月19日、イギリス軍艦アクティオン号による「対馬測量事件(※21)」がおきる。1860年2月(※22)の時点でオールコックは対馬占領を本国に上申。幕府にも秘密裏に租借を申し込んだとは思われるが、フランスも11月には租借を申し込んでいる(※23)。

そんな最中、1860年3月7日、ロシア領事ゴシケーヴィチ、許可を得て外国人初の国内旅行を行う(※24)。オールコックも対抗して国内旅行(※25)。9月には富士山登頂。

(※21)突然、対馬西岸に現れる。日本海から東シナ海を絞扼するのに理想的な軍港であった。湾内を測量しただけではなく、上陸して村の中を歩き回り、20日ほど滞在。11月にもう1度来航。その後、函館によりその成果をロシアに誇っていたという。ロシア領事ゴシケーヴィチはイギリスが領土保全を明目として自発的に譲り受けようとしているか、大名を独立させ保護下に置こうとするかを考えていると本国に通達。幕府に対してはロシアが砲台を築くと言うが、攘夷派が黙っていないであろうことから拒否(当時は安藤信正)。

(※22)遣米使節団が出発した直後。外交的敗北の挽回策。1859年の大沽での敗北がこの外交的敗北を招いたと考えられる。

(※23)横井小楠が記す。幕府は大いに困窮したとのこと。2月のイギリスの時点でも困窮したと思われるが、この時点ではまだアロー戦争の決着がついていなかった。8月に決着がついた後の、10月の租借要求と言う点で、困窮度は高い。

(※24)アメリカ一辺倒からの変化、という点で重要。幕府の変化の理由としてイギリスの脅威を考える。

(※25)ロシアが対馬を占領している1861年6月の時点において、長崎から陸路で江戸まで向うことを強硬に主張(なんで?)。この時と、富士山登頂の話は「大君の都」にも精密に記されており、当時の状況を知る史料として価値のあるものとなっており、この点ではゴシケーヴィチには勝っている。

§3.フランスの「朝鮮征伐」

前年は苦杯をなめたが、1860年8月21日、英仏連合軍は逆襲(※26)。これにより朝鮮はパニックに(※27)。当時、朝鮮はキリスト教を邪教と扱っており(※28)、フランスが攻撃する理由(※29)は存分にあった(※30)。幕府には大量の馬を要求している(※31)。

(※26)大沽砲台を占領、天津、北京と進軍し、カンポウテイは熱河に避難。10月8日~9日には円明園を略奪、18日には破壊。

(※27)列強から清国が守ってくれると考えていた。

(※28)フランス人から学んだ司祭とその信者の大量虐殺など起きていた。

(※29)金鉱も原因の1つであろう。当時のフランスはナポレオン三世。

(※30)1866年、大院君によるカトリック教徒大弾圧事件に対する報復としてフランス艦隊が来襲するという事件(丙寅教案)が起こるが、1860年秋の時点ですでに火種はあったのだ。

(※31)大沽での雪辱のために2000頭の馬を要求しているが、日本も困るのと、そもそも英仏連合軍が勝ってしまうと困るので、1000頭に限ってしぶしぶ輸出。この態度もフランスはイライラしている。フランス領事ド・ベルクールは他国と異なり、外国人殺傷事件に対して激高している。1859年11月5日にフランス副領事の従僕の清国人が殺害された件や、1860年10月30日にはフランス領事官の下働きのイタリア人ナタールが武士2人にケンカを売られて右腕を負傷した事件があり、幕府が責任を取ろうとしない態度に激怒していた。

§4.ムラヴィヨフ、リハチョフとシーボルト

ロシア極東艦隊司令官リハチョフはサハリン・アニワ湾、函館、対馬を重視しており、ここが敵国に落ちることを恐れていた(※32)。1861年1月~2月、長崎にてムラヴィヨフ、ポサドニック号艦長ビリリョフ、リハチョフはシーボルト(※33)と会談。

(※32)1860年2月の時点でイギリスが対馬租借を要求していたことと、1859年10月の函館でのパレードにてイギリスが大沽での雪辱に並々ならぬ決意を抱いることを感じたため、おそらくイギリスが勝利するであろうということ、その後は、日本海を目指すであろうことを推測していた。

(※33)1829年、伊能忠敬の地図を持ち出したというシーボルト事件で国外追放となっていたが、30年ぶりの1859年10月、彼は再び日本(長崎)に来ていた。シーボルトはロシア皇帝に対日国交について献策した人物であり、おそらくこの時も、ロシアの今後の在り方について助言を求めたのであろう。シーボルトのこの時の身分はオランダ東インド会社社員であったが、この直後、幕府の外交顧問に招聘される。これはシーボルトのロシア人脈を期待しての事であろう。もっとも幕府は長崎から江戸へ向かうのにロシア軍艦を貸してくれと要求しているが、断られている。この案を出したのは長崎奉行支配組頭永持亨次郎、その実兄で江戸外国奉行支配組頭柴田剛中(忍者の出身)、その上司に当たる外国奉行小栗上野介のラインであろう。小栗は親露というか、反英

§5.ポサドニック号の対馬占拠

ロシア外務省はイギリスとの直接対決を避けるよう指示していたが、「海軍総裁」コンスタンチン公はリハチョフの「対馬占領案」に興味を示す(※34)。これが1860年8月。対馬の調査の最中に起きたのが、1861年1月15日アメリカ外交官ヒュースケン殺害事件

これにより英仏が戦争をしかける、あるいは対馬租借を要求する動きが見られたが、英仏による主導権を嫌ったハリスが穏便な処置で解決している。もしも対馬が占領されるとすれば、問題が解決して英仏公使が江戸に戻る1861年3月31日までの間であった。

(※34)コンスタンチン公は皇帝アレクサンドル2世の弟。敗戦までの大日本帝国もそうであったが、ロシアには専制帝国の常として二重外交が存在した。

6.勝海舟による交渉ー1861年夏

§1.イギリス東洋艦隊の出動

英仏による対馬占領が現実味を帯びたことでロシアは先手を打って1861年3月13日、対馬占領実行開始(※35)。これには親露派日本人(※36)の手引きもあったのではないかと推測される。

5月24日、オールコック(※37)が日本に戻り、アクティオン号を対馬に派遣(※38)。自身は陸路、江戸へ(※39)。

(※35)当初、ポサドニック号は船体修理を名目に浅茅湾碇泊を求めた。この時、対馬藩はそれを許可したが藩内の攘夷派の反対を受けて長崎に行ってもらうよう伝える。しかし、ポサドニック号のビリリョフは居座りを決め込み、小屋を建設したり畑を作ったり、永住の構えを見せた。

(※36)永持亨次郎や、通訳などはだいぶロシアと関係が深かった。

(※37)この時期、オールコックは日本にいない。イギリス人が日本役人を傷つけた事件(1860年11月27日)の領事裁判の判決を不服とした当のイギリス人から訴訟を受け、香港に行って、しかも敗訴しており、自分のことで精一杯であった。そして日本に帰ってからかねてより要求していた国内旅行(なんで?)で示威を示す。

(※38)この時期、長州藩は対馬の問題に非常に関心を寄せている。それは長州藩が対馬を介して密貿易を行っていたからであり、対馬が外国のものとなったらそれができなくなるからであろう。イギリス軍艦アクティオン号もなるべく下関には近づかないようにした。

(※39)1861年7月5日、「第1次東禅寺事件」があり、浪人と幕府護衛による斬り合いがおこる。オールコックは無傷であったが、書記官のオリファントは手首を斬られる重傷を負う。オリファントは優秀な外交官で密使としてヨーロッパ各地にも派遣。当時の首相パーマストンとは友人のような付き合い。水野忠徳のことを評価。東禅寺事件もあったが親日派で日本文化にも理解。薩摩の留学生の世話もする。オールコック(その後も四国艦隊砲撃事件などに関わる)の方針とは異なるため、もし彼が駐日全権大使になっていたら幕末の歴史も随分変わっていたであろう。

§2.親露派と親英派

長州藩の「対藩関係始末」に長州藩の「ある人」に蘭人シーボルトからの書簡が書かれている。この「ある人」は村田蔵六と思われる(※40)。小栗上野介(※41)は「日露同盟論」を掲げるが安藤信正は拒絶。その後、上知とする案(※42)なども出されたが、攘夷派およびオールコックの反対もあり、二転三転。最終的にゴシケーヴィチと幕府の指名した「秘密の交渉相手(※43)」との会談が持たれる。

(※40)村田蔵六こと大村益次郎はシーボルトの娘の教育を頼まれており、シーボルトにとっては優秀な蘭学者という以上に、「親戚」に近いくらいの間柄。また当時、江戸で出仕していた。そんなことから長州藩から対馬情勢についてシーボルトから情報を得るように依頼があったのではないか。

(※41)ビリリョフに対馬藩主との面会を約束するが、対馬藩の拒絶にあい、板挟みとなり江戸に戻る。その後もロシア艦の退去交渉のため函館行きを命じられるが、小栗はこれを拒絶し、家に引きこもったまま罷免。親露派(というか反英派)の小栗と協調派の安藤信正の対立があった。勝海舟の小栗評としては「優秀だけど度量が狭い」とし、頑なにイギリスを敵と決めつけたところを指していると思われる。アメリカからは評価されていたが、南北戦争に突入してしまったのは仕方がない。

(※42)幕府が対馬を天領としたうえで、ロシアに供与する。

(※43)小栗のあとの外国奉行、水野忠徳との関係から勝海舟ではないかと考えられる。水野忠徳は金銀比価の問題等で米英を打ち負かすところで、彼らから警戒されていた。ロシア海軍兵士殺害事件で神奈川奉行であった彼を失脚させたのはそういう意味も含まれる。横井小楠の可能性もあり。

§3.親露、親英の対立

7月5日の東禅寺事件の後の8月14日、オールコックは安藤信正に対馬への軍艦派遣を認めさせる(※44)。ロシアは退去要請には承諾せず、蝦夷制覇が現実味を帯びてくる。イギリスがそのまま対馬に居座る可能性もある。小栗上野介と水野忠徳(※45)が大激論。ここで、横井小楠(※46)と勝海舟の出番(※47)。

(※44)襲撃したのは対馬藩藩士というニセ情報を流す。

(※45)親英派といえば、水野忠徳と永井尚志であろう。この2人のコンビにより、長崎海軍伝習所、長崎製鉄所、咸臨丸のアメリカ派遣、日本の海軍士官の教育などが実現した。日英和親条約を取り仕切ったのも彼らである。日本の近代化に関する彼らの功績は大きい。

(※46)日本は道義の国家として世界平和を実現するのだ、と説く。

(※47)対馬は島民全てを失うことになっても守り抜く覚悟であることを示すとともに、イギリスには対馬を占領したらロシアと全面戦争になることを伝える一方、歓心を買うために日本沿岸の測量に協力。結果的に伊能地図の優秀さが認められ、軍事的実力がないながらも、イギリスと親交しながら対馬を譲らないことに成功した。ロシアに関しては長崎での経験から領土的野心がより強いのはロシアとし、親ロシアかで揺れていた幕府の方針を変更させ、イギリスからロシアに退去するように向けた。「外交の極意は誠意にあり」と語る勝海舟が「自分のやったことに比べれば三国干渉なんて朝飯前だ」と言ったのはホラではない

§4.勝海舟と「長崎」のオールコック

海舟は外交手腕を発揮し、ロシアを撤去させた(※48)。

江戸城無血開城で幕臣(※49)、長州藩士から疑惑の目が向けられていたため、薩摩藩士との交流は明治に入っても伏せていた。領土保全のため、奄美大島(※50)へ測量に向かった可能性もある。いずれにしても、このポサドニック号事件にしてもその後の日英同盟においても外交機密と考えられ、史料があえて伏せられている。

8月28日、イギリス艦隊対馬到着、9月19日、ポサドニック号対馬退去(※51)。

(※48)おそらく日本単独ではダメだったであろう。オールコックに話をし、頼み込み、かけあい成立。

(※49)西南戦争のように蜂起する可能性もあったが、それだけは避けたがった。

(※50)測量は領有権の主張の根拠の一部であった。明治7年、日本海軍が日本近海の測量を開始した時は真っ先に奄美大島の測量を行っている。太平洋戦争では特攻隊の基地となった。

(※51)相手の非を一方的に責めるのではなく、世界平和のために友好しましょう、という姿勢。のちの明治9年、ゴルチャコフは日露の友好に功績があったとして、旭日大勲章が贈られている。

【終わり】

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