~只今、全面改訂中~

6.勝海舟による交渉ー1861年夏

§1.イギリス東洋艦隊の出動

英仏による対馬占領が現実味を帯びたことでロシアは先手を打って1861年3月13日、対馬占領実行開始(※35)。これには親露派日本人(※36)の手引きもあったのではないかと推測される。

5月24日、オールコック(※37)が日本に戻り、アクティオン号を対馬に派遣(※38)。自身は陸路、江戸へ(※39)。

(※35)当初、ポサドニック号は船体修理を名目に浅茅湾碇泊を求めた。この時、対馬藩はそれを許可したが藩内の攘夷派の反対を受けて長崎に行ってもらうよう伝える。しかし、ポサドニック号のビリリョフは居座りを決め込み、小屋を建設したり畑を作ったり、永住の構えを見せた。

(※36)永持亨次郎や、通訳などはだいぶロシアと関係が深かった。

(※37)この時期、オールコックは日本にいない。イギリス人が日本役人を傷つけた事件(1860年11月27日)の領事裁判の判決を不服とした当のイギリス人から訴訟を受け、香港に行っていた。しかも敗訴しており、自分のことで精一杯であった。

(※38)この時期、長州藩は対馬の問題に非常に関心を寄せている。それは長州藩が対馬を介して密貿易を行っていたからであり、対馬が外国のものとなったらできなくなるからであろう。イギリス軍艦アクティオン号もなるべく下関には近づかないようにした。

(※39)1861年7月5日、「第1次東禅寺事件」があり、浪人と幕府護衛による斬り合いがおこる。オールコックは無傷であったが、書記官のオリファントは手首を斬られる。オリファントは優秀な外交官で、当時の首相パーマストンとは友人のような付き合いであった。(東禅寺事件もあったが親日派で日本文化にも理解。薩摩の留学生の世話もする。)オールコック(その後も四国艦隊砲撃事件などに関わる)ではなく彼が駐日全権大使になっていたら幕末の歴史も随分変わっていたであろう。

§2.親露派と親英派

長州藩の「対藩関係始末」に長州藩の「ある人」に蘭人シーボルトからの書簡が書かれている。この「ある人」は村田蔵六と思われる(※40)。

小栗上野介(※41)は「日露同盟論」を掲げるが安藤信正は拒絶。その後、上知とする案(※42)なども出されたが、攘夷派およびオールコックの反対もあり、二転三転。

最終的にゴシケーヴィチと幕府の指名した「秘密の交渉相手(※43)」との会談が持たれる。

(※40)村田蔵六こと大村益次郎はシーボルトの娘の教育を頼まれており、シーボルトにとっては優秀な蘭学者という以上に、「親戚」に近い間柄。当時、江戸で出仕おり、長州藩から対馬情勢についてシーボルトから情報を得るように依頼があったのではないか。

(※41)ビリリョフに対馬藩主との面会を約束するが、対馬藩の拒絶にあい、板挟みとなり江戸に戻る。その後もロシア艦の退去交渉のため函館行きを命じられるが、小栗は拒絶し、家に引きこもったまま罷免。親露派(というか反英派)の小栗と協調派の安藤信正の対立があった。勝海舟の小栗評としては「優秀だけど度量が狭い」とし、頑なにイギリスを敵と決めつけたところを指していると思われる。

(※42)幕府が対馬を天領としたうえで、ロシアに供与する。

(※43)小栗のあとの外国奉行、水野忠徳との関係から勝海舟ではないかと考えられる。水野忠徳は金銀比価の問題等で米英を打ち負かすところで、彼らから警戒されており、ロシア海軍兵士殺害事件で神奈川奉行であった彼を失脚させたのはそういう意味も含まれる。

§3.親露、親英の対立

東禅寺事件後の8月14日、オールコックは安藤信正に対馬への軍艦派遣を認めさせる(※44)。

ロシアは退去要請には承諾せず、蝦夷制覇が現実味を帯びてくる。

イギリスがそのまま対馬に居座る可能性もある。

小栗上野介と水野忠徳(※45)が大激論。横井小楠(※46)と勝海舟の出番(※47)。

(※44)襲撃したのは対馬藩藩士というニセ情報を流す。

(※45)親英派といえば、水野忠徳と永井尚志。この2人のコンビにより、長崎海軍伝習所、長崎製鉄所、咸臨丸のアメリカ派遣、日本の海軍士官の教育などが実現した。日英和親条約を取り仕切ったのも彼らである。日本の近代化に関する彼らの功績は大きい。

(※46)日本は道義の国家として世界平和を実現するのだ、と説く。

(※47)対馬は島民全てを失うことになっても守り抜く覚悟であることを示すとともに、イギリスには対馬を占領したらロシアと全面戦争になることを伝える一方、歓心を買うために日本沿岸の測量に協力。結果的に伊能地図の優秀さが認められ、軍事的実力がないながらも、イギリスと親交しながら対馬を譲らないことに成功した。ロシアに関しては長崎での経験から領土的野心がより強いのはロシアとし、親ロシアかで揺れていた幕府の方針を変更させ、イギリスからロシアに退去するように向けた。「外交の極意は誠意にあり」と語る勝海舟が「自分のやったことに比べれば三国干渉なんて朝飯前だ」と言ったのはホラではない

§4.勝海舟と「長崎」のオールコック

海舟は外交手腕を発揮し、ロシアを撤去させた(※48)。

江戸城無血開城で幕臣(※49)、長州藩士から疑惑の目が向けられていたため、薩摩藩士との交流は明治に入っても伏せていた。

領土保全のため、奄美大島(※50)へ測量に向かった可能性もある。

ポサドニック号事件は外交機密と考えられ、史料があえて伏せられている。

8月28日、イギリス艦隊対馬到着、9月19日、ポサドニック号対馬退去(※51)。

(※48)おそらく日本単独ではダメだったであろう。オールコックに話をし、頼み込み、かけあい成立。

(※49)西南戦争のように蜂起する可能性もあったが、それだけは避けたがった。

(※50)測量は領有権の主張の根拠の一部であった。明治7年、日本海軍が日本近海の測量を開始した時は真っ先に奄美大島の測量を行っている。太平洋戦争では特攻隊の基地となった。

(※51)相手の非を一方的に責めるのではなく、世界平和のために友好しましょう、という姿勢。のちの明治9年、ゴルチャコフは日露の友好に功績があったとして、旭日大勲章が贈られている。

【終わり】

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