~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

レビューを見ると、勝海舟の性格からか、「ホラ」も含まれて空想が多いのでは?という指摘もあるが、想像ゼロの歴史書などないであろう。事実は事実としてopinionとは峻別して把握したい。

「クリミア戦争が極東でも行われていた」など、世界史を勉強したにも関わらず知らないことだらけで実に勉強になった。

いずれにしても、

対馬がロシア、あるいはイギリスに占領される可能性があった

ことは頭に入れておきたいし、よくこれを回避できたな、と思う。

…まず、1861年の「対馬事件ポサドニック号事件)」を語る前に当時の世界史的状況を考えなくてはならない。

この時期、英仏vs露の「クリミア戦争」(1853-56)、英仏vs清の「アロー戦争」(1858-60)、そしてアメリカ「南北戦争」(1861-65)がおきている。

クリミア戦争で英仏と露はカムチャッカ半島の軍港ペトロパブロフスクをめぐって極東でも戦争しており、この際はロシアが防御した。

アロー戦争では英仏vs清で、最終的に英仏が勝利したが、大沽砲台による砲撃で一時、英仏が劣勢にまわった時があり、この時期に日本国内では「反英」を明確に。しかし、ムラヴィヨフの恫喝外交により「反露」となり、最終的に「親米」を目指して遣米「大」使節団が送られた。

ロシアはクリミア戦争の直後とのことで潜在的には清の味方になる可能性はあったが、戦わずして北緯43度以北、沿海州など広大な領土を得た。日本に対しては樺太要求などプレッシャーをかける。

1861年1月15日のヒュースケン殺害事件で英仏は江戸湾攻撃、対馬占領などを実行する可能性があった

が、事件の当事国であるアメリカのハリスの穏便な処置などにより回避

この間、

ロシアが先手を打って対馬を占領したのが3月13日「ポサドニック号事件」である。

ロシアにとってアニワ湾、函館、対馬は極東の軍事上の要衝であり、ここが他国に渡るのはどうしても避けたかったのだ。イギリスの対馬占領もあり得る中で、日本(勝海舟ら)はイギリスの歓心を買いつつ、徹底抗戦も表明し、なんとか対馬からロシアもイギリスも撤退させたのだ。

アメリカは英露のどちらにもくみしないという点でパートナーとして有力であったが、1861年4月からの南北戦争勃発により日本の政治台から消えた8月28日、イギリス艦隊対馬到着、9月19日、ポサドニック号対馬退去。

以下、読書メモと雑感。

§0.はじめに

幕末、日本近海では英露が激突していた。クリミア戦争ではカムチャッカ半島も戦場になり、アロー戦争では清国と英仏の講和に介入した露が広大な領土を清国から得た。

「日本の味方はどの国か」を巡って幕府内では親英・親米・親露の各派が対立。そして、ついに露は日本に触手を伸ばし、対馬を占領、軍事基地を築き始める。植民地化の危機が迫るなか、独自の知見と人脈を持つ勝海舟が動く。

秘密外交の時代で資料は乏しい、この「ポサドニック号事件」で勝海舟が露と決定的な対立や断絶をせずにロシア・カードを生かしていたと思われることを考えると(英による対馬植民地化を防ぐために)、戊辰戦争に際してロシア公使が「いくらでも金を貸すから、戦争の始末をつけなさい」と海舟にうるさく言ってきた意味がわかる。

西郷隆盛が江戸城総攻撃にあたって最も恐れていたのはロシア・カードであると思うし、榎本武揚が一番当てにしていたのもこれだと思う。

1.勝海舟の外交事始め

§1.ディアナ号事件とアスコルド号事件

勝海舟は1855年、長崎海軍伝習所の一期生となる。この地で、1858年、暴風による大きな損傷を受け援助を求めたロシア軍艦アスコルド号をオランダ人技術者(※1)と共に修理するという「アスコルド号事件」というのがあった。

しかし、当時、クリミア戦争(※2)の直後であり、中立国である日本はどちらの軍艦にも援助をしてはいけないことになっていた。よって外交問題となる恐れがあった。

1854年にも、和親条約の交渉をしていたロシア軍艦ディアナ号(※3)が安政東海大地震の影響で損傷を受けるという事件があった。この時は、クリミア戦争の最中であり、川路聖獏(※4)らは同情的であったが、下田で修理することでイギリスからのクレームが来ることを恐れ、伊豆半島西岸の戸田までわざわざ多くの和船で引いて行った。しかし、この時は、途中で沈没してしまうとういう「ディアナ号事件」があった。

この後、ロシア人を帰国させるために、幕府はディアナ号に乗り組んでいたロシア海軍造船技術将校の指導のもと、大量の船大工を駆使して西洋式帆船「ヘダ号」の建造を始めた。当初、徳川斉昭(※5)はロシア人を皆殺しにしてしまえと言い、老中阿部正弘を困らせているが、説得し、西洋軍事技術を実地で習うこととなる。

(※1)当時は秘密外交が当たり前の時代である。オランダとしても公にイギリスを敵に回したくないので、あえて史料は少なくしていると見る。長崎で医学伝習にあたっていたポンぺの日記にはかなり詳しく書かれている。

(※2)クリミア戦争(1853-56)その後に第1次世界大戦が起きたためにあまり大きなものとして伝えられていないが、戦争はクリミア半島に限られたわけではなく、カムチャッカ半島にもおよび、軍港ペトロハバロフスクをイギリス艦隊が攻撃(1854)したのが最大の戦闘であった。イギリス艦隊は撤退するも、ロシアものち放棄して撤退。

(※3)プチャーチン提督が乗る。交戦国の軍艦の中立国への入港は認められないが、押し込んできた。

(※4)当時の日本側代表。プチャーチンとの交渉を経てロシアに交感を持つようになる。

(※5)「単純な」攘夷思想の持ち主と形容される。それまでに模索的に洋式帆船「旭日丸」を建造。アヘン戦争を起こしたイギリスを最も恐れるために、その敵対国であるロシアを撃滅させるべきと言うが、当然のことながらロシアの報復も恐れねばなるまい。

§2.勝海舟とディアナ号事件

勝海舟とディアナ号は実は縁が深い。ディアナ号の「大坂来航」事件(※6)を機に、蘭学塾長で海防の専門家として名の知られていた海舟が「摂海巡察隊」(※7)の一員に抜擢されていた。

その後、外務官僚にあたる職にも就いたが、1期生として長崎海軍伝習所へ。長崎奉行では処理できないような用件も阿部正弘らから諮問されるようになる。長崎奉行から泣きつかれたという、1858年の「アスコルド号事件」もその1つ。

(※6)その前年、浦賀にペリー来航(1853年7月)。遅れること1か月半、プチャーチンは開国を求めて長崎に来航した。しかし、翌年からクリミア戦争にイギリスが参戦したため、以後はイギリスを避けるような航海を余儀なくされていた。ところが、1854年11月、イギリス艦隊が現れそうもない大坂湾に突然出現したので日本は騒然とする。実際は函館奉行に伝えてあったのだが、函館奉行は処罰を恐れて幕府へ報告しなかった。大坂へは下関を通るのは危険であるが、紀淡海峡を通ればたやすい。友が島などに砲台を築いていれば防げたかもしれないが、結果として幕府の海防の弱さを知らしめることとなった。ディアナ号はしばらくして去る。

(※7)関西方面の海防の模様を巡察する。同じメンバーに大久保一翁がいて、彼による引き立てが出世の糸口であった。

♨和暦で順を追うと、

嘉永7年(1854年)
9月18日、ディアナ号大坂湾出現事件

安政元年(1854年)
11月4日、安政大地震。
12月2日、回漕中にディアナ号沈没
12月5日、プチャーチンよりヘダ号建造申し入れ。
12月21日、日露和親条約(プチャーチン、川路聖獏)。

安政2年(1855年)
1月23日、視察団江戸出発。
2月6日、伊勢到着。
3月10日、ヘダ号完成。(海舟がヘダ号を作っているところを視察した可能性も考えられる。)
7月29日、勝海舟の長崎海軍伝習所行きが決定。

§3.アスコルド号の修理決定

海舟はディアナ号の沈没の件を「前例」とすれば良いとして、巨大戦艦の修理を尻目に、建造技術習得を目指した。修理には10か月を要し、その間、海舟はオランダ語の通訳として大いに活躍したことであろう。ロシア人から大いに感謝されることとなる。

♨イギリスからの圧力は実際にあったのか??

§4.勝海舟はポシェートと付き合いがあったか

プチャーチンの副官にオランダ語を専門とするポシェートという大佐がいた。彼はのちに軍港に名を残すほどの人物である。このアスコルド号事件の際に、海舟と接点があったのではないか、と思われる(※8)。

ポサドニック号事件(1861年)、函館ロシア公使が「戦争をするならいくらでも金を貸す」と海舟に言ったことは戊辰戦争、函館戦争の見方も変わるのではないか(※9)。

また、1858年3月に、海舟と技術将校ハルデス(※10)は対馬に測量に出ているが、ロシア側もこの時点で対馬の重要な戦略的位置に気づいていたのではないか?

(※8)氷川清話によれば、長崎で出会った軍人は「ロシア派今後、軍港もこしらえる、シベリア鉄道も敷く、東洋にどしどし手を出すつもりだ」と言っていたそうだ。その通り実行している、とも記される。

(※9)一方、西郷隆盛率いる当時の新政府軍は、イギリスの介入を最も恐れていた。

(※10)アスコルド号修理にあたって、もっとも活躍したのは彼。海軍関係のあらゆる技術に精通しており、長崎製鉄所(現在の三菱重工長崎造船所)の事実上の生みの親である。アスコルド号修理によりロシア皇帝から勲章も授与されている。

2.アロー戦争の衝撃ー1858年夏

§1.安政年間の幕府のロシア観

日本の慣例を無視してやってきたペリーと比較して、公式に外国船の入港を認めている長崎にたった1隻で来航したこと(※11)、日本文化、日本語も勉強し、礼節を重んじていたこと(※12)などから、幕府は親露的になる(※13)。

(※11)これらにはシーボルトの助言もあった。当時、彼は日本研究の大家として知られており、ペリー艦隊にも参加希望をしたがペリーはこれを拒絶。一方、ロシア皇帝は好意的。

(※12)日露和親条約締結交渉における川路聖獏、老齢であった筒井政憲へのプチャーチンの対応など。

(※13)アヘン戦争で評判の悪いイギリスなどはもってのほか。

§2.幕府、一般世論のロシアびいき

阿部正弘はペリーの交渉の仕方には辟易しており、ロシアと手を組むことも考えていた(※14)。しかし、徳川斉昭らはアメリカとロシアが結託しているのではないか(※15)と、ロシアにも不信感(※16)があり、これを拒絶。

(※14)これがアスコルド号事件における寛容につながってもいる。

(※15)アメリカが6月12日に退去して、ロシアが7月18日に来るのは、つながっているとしか思えないとしたが、事実はプチャーチンが単にペリーに先を越された。

(※16)当時、ロシアとは樺太領有問題を抱えていた。しかし、当時、清が沿海州をイギリスに与えてしまうとロシア海軍はダメージを受けるという問題を抱えていたので、日本と友好を結ぶことは非常に大事であった。

§3.魯戎を撃て!

当時、徳川斉昭の声望は高かった(※17)が、単純な攘夷論者であった。その影響もあり、福岡藩主黒田長溥(※18)はロシア船焼打ちを川路聖獏(※19)に申し出て断られている。最終的には斉昭もアメリカとまず和親条約を結ぶことはしょうがないと判断(※20)。

(※17)そのため、阿部正弘もその声を無視できず、幕府顧問として一応は奉り、過激な攘夷論は説得していた。阿部も25歳で老中となり後ろ盾が必要だった。

(※18)その後はおそらく阿部正弘や島津斉彬らに説得されて開国派となったのであろう。

(※19)阿部正弘が全権を川路ではなく筒井にしたのは警戒心が先に立つ川路の性格からであろう。他の例として、陸奥宗光は海舟の神戸海軍塾生であったが、海舟は彼を全く評価していない。理由は相手との信頼関係をないがしろにして外交を行うからである。外交において信頼関係の構築は大事であり、日清戦争時の陸奥宗光を評価する声もある一方、衛藤故東大教授などのように「日本のマキャベリズムの極地」と評す声も。

(※20)ロシアとは国境を接しているが、アメリカとはその点、領土的野心がない、と判断。ロシアはクリミア戦争で弱り目なのでアメリカの方が強いだろう、と斉昭は考えた。川路聖獏は断然ロシア派であったが、斉昭のことを考慮して日記には控えめに書いてある。

§4.アロー戦争の推移と日米交渉

1858年、アロー戦争勃発。5月20日、北京防衛の要であった大沽砲台が約2時間で占領されたために6月に結ばれた天津条約では多くの通商上の自由が奪われた(※21)。

日本と通商条約を結びたいハリスはこれを引き合いに、「アロー戦争が終わったらお客(※22)を迎える用意をする、と言う。日本では、井伊直弼(※23)が外交を主宰しており、西暦1858年7月29日(和暦6月19日)、日米修好通商条約締結

(※21)これらのことは逐一日本にも知らされていた。和親はともかく通商となると、多くの外国人が出入りする為、日本にとっては問題ととらえ、通商条約だけはオランダ以外と結ぶな、というのが大勢であった。

(※22)ここでのお客とは英仏。今のうちにアメリカと条約を結ばないと、イギリスがやってきて、もっと悪い条件を課せられると伝える。岩瀬忠震もこの論にまかれており、最強海軍のイギリスと陸軍強国のフランスが組めば、京都も容易に落ちると。

(※23)洋学嫌い、洋式軍事技術嫌い。安政6年には長崎海軍伝習も廃止が決定。

§5.北緯43度の意味

1858年天津条約とは別の取り決めで、ロシアは戦わずして北緯43度以北という広大な領土を得た(※24)。1860年の北京条約においても沿海州を獲得。幕府にとってみれば、樺太の境界線は北緯50度と考えていたためこれは不利であった。しかし、プチャーチンは領土問題より条約締結が重要と慎重な交渉を続行(※25)。

(※24)清にとって場合によっては用心棒となり得ると考えられたからか。

(※25)ロシアが遠大な外交戦略を行っているのに対して、その後の日本の根本方針がいかに揺れていることか、と明治になって海舟は嘆く。

3.ムラヴィヨフ艦隊の来航

§1.東シベリア総督ムラヴィヨフ

安政5年(1858年)4月23日、大老に就任した井伊直弼は、6月19日、反対派を切り捨て、遣米使節団の派遣を実行(※26)。イギリス(※27)は1859年6月、中国で敏腕をふるっていたオールコックを江戸駐在領事にし、次第に幕府に影響力を及ぼすことになる。

(※26)日米修好通商条約の批准書交換のため。イギリスは最も危険な存在であるが、ロシアと手を組むと英露の対立に際してイギリスを敵に回さないといけないので、アメリカを頼ろうということになった。ハリスの巧妙な働きかけもあったにせよ、ロシアとは領土問題があるが、アメリカとはない。

(※27)1858年夏に日英修好通商条約を締結した際のエルギン伯爵は意外にも友好的で、エンペラー号(蟠龍丸)を寄贈してくれた

1859年8月18日、東シベリア総督ムラヴィヨフ(※28)が9隻からなる大艦隊を率いて江戸湾に現れる。ムラヴィヨフはこれまでのやり方は手ぬるいと考えており、威圧外交を行う。

(※28)アムールスキーと言われるほど、アムール川地域の開発に功績があった。沿海州に屯田兵(流刑囚)を送り込んで、土地を事実上占拠し、清国に追認させるという方式で領土拡張を行った。最大の業績は1858年5月のアイグン条約であろう。太平天国の乱で疲弊した清国に対して戦いもなく、アムール川の南も勢力圏に収める。

ムラヴィヨフの主張としては、「南樺太および蝦夷の軍備が手ぬるく、イギリスがこれを乗っ取るようだと困るので、ちゃんとしてくれ」ということ。そんな折、1859年8月25日、横浜にてロシア海軍士官水兵2名が暗殺される事件も起きる(※29)。

(※29)ただ、オールコックが駐在していたこともあり、砲火を用いての報復は思いとどまり、のちの交渉カードに使うと決めておとなしくすることに。イギリスとの関係を重視するハト派の外務大臣ゴルチャコフからイギリスと問題を起こさないように釘をさされていたこともある。もし、強硬にいくとなると、日本が第三国を頼ることになり、それがイギリスの可能性は高かったことも影響。もっとも、北太平洋北部は当時大きな収益を上げていた鯨の好漁場であり、アメリカにある可能性もあった。アメリカとイギリス、両方を敵にするとロシア海軍は非常に不利。

§2.1859年の勝海舟

ムラヴィヨフはニコライエフスクを出発し、1859年6月23日に函館に到着、中国との領域確定に出かけ(※30)、8月2日に戻り、長崎で修理を終えたアスコルド号に乗って8月6日、江戸に向かった。自分が修理に関わったアスコルド号で日本に威圧を起こした事件を海舟(※31)がどう思ったかは史料がない。

(※30)英仏の影響力をそぐため、清国に対して軍事援助を申し込んでいたりもする。

(※31)当時、井伊直弼により海軍伝習は中止。教官はオランダに帰ってしまった。海舟は軍艦操練所教授方頭取という役職にはついていたが、実際は砲台の築造をしていた。ただ、相手の軍艦が自在に位置を変えてしまうので砲台は有効ではなく、動く砲台である軍艦の方が大事であると海舟は主張もしている。

ムラヴィヨフが威圧外交を行う契機となったと考えられるのは、1859年6月25日、大沽砲台の前を進軍しようとしたイギリス軍が突然の砲撃を受けて重大な被害を受けた事件(※32)で、英は日本に力を費やせない(※33)と判断したことにある。

(※32)天津条約の批准書を交換するために清朝の指定した少人数で正規のルートではないところを進軍しようとしたところ、それまで隠ぺいしていた大砲を駆使してイギリス砲艦3隻が撃沈、3隻が擱座、放棄せざるを得なくなる。油断もしていたが、清国は太平天国の乱の鎮圧に最も功績があったモンゴルの王族、センゲリンチンを天津防衛の指揮官に任命しており、強化を図っていた。ただ、翌年(1860年)、北京進撃、円明園、頤和園破壊という報復を受ける。

(※33)5月にイギリス軍艦アクティオン号が対馬を測量するという事件があった。

その後、ムラヴィヨフは対馬問題、水兵殺害事件をテコに樺太全島のロシア領有を迫る。幕府は北緯50度以北なら譲って良い(※34)とするが、ムラヴィヨフはこれを拒否(※35)。

(※34)プチャーチンと川路聖獏の交渉の時に出た案。これに対してプチャーチンは真ん中で分割すると言う案を逆提案。結局、全島を共有と言う形で折り合った。

(※35)樺太南端に海軍基地を建設しないとイギリスの脅威を取り除けない。

§3.水戸藩の処罰とそれへの報復

ロシア水兵殺害は水戸藩の仕業というのが当時の見方であった(※36)。ロシア水兵殺害の約1か月後の9月23日、水戸藩に苛酷な処分(※37)。

(※36)田辺太一『幕末外交談』(1898年刊行)および、カッテンディーケ『長崎海軍伝習所の日々』による。天狗党の仕業で、罪状が明らかになり処刑もされたという。この時期、徳川斉昭は将軍継嗣問題および不時登城問題で謹慎中。

(※37)徳川斉昭の永蟄居、家老安島帯刀の切腹、京都留守役鵜飼吉左衛門を武士でありながら打ち首、その子の幸吉は実際に密勅を受け取ったとして打ち首のうえ獄門。この苛酷な処分がのちの桜田門外の変につながるわけである。密勅に関わったとして苛酷な処分が下されているが、ロシア水兵殺害事件とも関連があると考えられる。

斉昭としては井伊直弼を困らせ、場合によってはロシアからの攻撃を引き出し、その隙に井伊政権を打倒し、攘夷も成し遂げようと言う腹もあったかも知れない。

実際に、ムラヴィヨフも江戸砲撃を考えたと思われるが、それには英仏米の意向(※38)も汲まないといけなく、砲撃すれば彼らが結んだ修好通商条約もフイになるため表面ではあっさり下がったと思われる。

(※38)今、砲撃を加えれば攘夷派の思うツボ?

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