~只今、全面改訂中~

§0.はじめに

幕末、日本近海では英露がしのぎを削っておりました。

クリミア戦争では実際にカムチャッカ半島が戦場になっております。

「日本はどの国を味方にするべきか」を巡って幕府内では親英・親米・親露の各派が対立しました。

そのような中で、ロシアは日本に触手を伸ばし、対馬を占領、軍事基地を築き始めます。

植民地化の危機が迫るなか、独自の知見と人脈を持つ勝海舟が動きました…。

勝海舟はロシアと決定的な対立をしないことで、イギリスからの対馬植民地化も防いだのです…

1.勝海舟の外交事始め

§1.ディアナ号事件とアスコルド号事件

長崎海軍伝習所の一期生(1855年~)となっていた勝海舟は、1858年、暴風による大きな損傷を受け援助を求めたロシア軍艦アスコルド号をオランダ人技術者(※1)と共に修理した。(「アスコルド号事件」

しかし、当時、クリミア戦争(※2)直後であり、中立国である日本はどちらの軍艦の援助も禁止されており、外交問題となる恐れがあった。

1854年には安政東海地震で、当時、和親条約の交渉をしていたロシア軍艦ディアナ号(※3)が損傷。同情した川路聖獏(※4)らはイギリスからのクレームを恐れ、下田から伊豆半島西岸の戸田まで移して修理しようとしたが、途中で沈没してしまうとういう「ディアナ号事件」があった。

この後、ロシア人を帰国させるために、幕府はディアナ号に乗り組んでいたロシア海軍造船技術将校の指導のもと、大量の船大工を駆使して西洋式帆船「ヘダ号」の建造を始めた。当初、徳川斉昭(※5)はロシア人を皆殺しにしろと言い、老中阿部正弘を困らせているが、説得。西洋軍事技術を実地で習うこととなる。

(※1)当時は秘密外交が当たり前の時代である。オランダとしても公にイギリスを敵に回したくないので、あえて史料は少なくしていた。長崎で医学伝習にあたっていたポンぺの日記にはかなり詳しく書かれている。

(※2)クリミア戦争(1853-56)はクリミア半島だけではなく、カムチャッカ半島にまで及んでいた。軍港ペトロハバロフスクはイギリス艦隊の攻撃を受けるもロシアが防御。ロシアものち放棄して撤退。

(※3)プチャーチン提督が乗る。交戦国の軍艦の中立国への入港は認められないが、押し込んできた。

(※4)当時の日本側代表。プチャーチンとの交渉を経てロシアに好感を持つようになる。

(※5)「単純な」攘夷思想の持ち主と形容される。それまでに模索的に洋式帆船「旭日丸」を建造。アヘン戦争を起こしたイギリスを最も恐れるために、その敵対国であるロシアを撃滅させるべきと言うが、当然のことながらロシアの報復も恐れねばなるまい。

§2.勝海舟とディアナ号事件

勝海舟とディアナ号は縁が深い。ディアナ号の「大坂来航」事件(※6)を機に、海防専門家として知られていた海舟が「摂海巡察隊」(※7)の一員に抜擢された。

その後、海舟は外務官僚を経て長崎海軍伝習所へ。長崎奉行では処理できないような用件を阿部正弘から諮問されるようになる。1858年「アスコルド号事件」もその1つ。

(※6)前年、浦賀にペリー来航(1853年7月)。1か月半後、プチャーチンが長崎来航。しかし、翌年からクリミア戦争。1854年11月、ロシア艦隊が現れそうもない大坂湾に突然出現したため日本は騒然とする。(実際は函館奉行に伝えてあったが、函館奉行は処罰を恐れて幕府へ報告せず。大坂へは下関を通るのは危険であるが、紀淡海峡を通れば容易。友が島に砲台を築いていれば防げたかも知れない。結果として幕府の海防の弱さを知らしめることとなった。)ディアナ号はしばらくして去る。

(※7)関西方面の海防の模様を巡察する。同じメンバーに大久保一翁がいて、彼による引き立てが出世の糸口であった。

嘉永7年(1854年)
9月18日、ディアナ号大坂湾出現事件

安政元年(1854年)
11月4日、安政大地震。
12月2日、回漕中にディアナ号沈没
12月5日、プチャーチンよりヘダ号建造申し入れ。
12月21日、日露和親条約(プチャーチン、川路聖獏)

安政2年(1855年)
1月23日、視察団江戸出発。
2月6日、伊勢到着。
3月10日、ヘダ号完成。(海舟がヘダ号を作っているところを視察した可能性も考えられる。)
7月29日、勝海舟の長崎海軍伝習所行きが決定。

§3.アスコルド号の修理決定

海舟はディアナ号沈没の件を「前例」として、巨大戦艦の修理を通じて建造技術習得を目指した。ロシア人から大いに感謝されることとなる。

海舟は通訳として活躍?

§4.勝海舟はポシェートと付き合いがあったか

プチャーチンの副官にオランダ語を専門とするポシェート大佐がいた。のちに軍港に名を残すほどの人物であるが、このアスコルド号修理の際に、海舟と接点があったのではないかと思われる(※8)。

戊辰戦争で函館ロシア公使が「戦争をするならいくらでも金を貸す」と海舟に言ったようだ。(※9)。

1858年3月に、海舟と技術将校ハルデス(※10)は対馬測量。ロシアもこの時点で対馬の重要な戦略的位置に気づいていたか?

(※8)「氷川清話」によれば、長崎で出会ったロシア軍人は「ロシアは今後、シベリア鉄道を伸ばして東洋に手を出すつもり」と言っていたという。

(※9)西郷隆盛率いる当時の新政府軍は、イギリスの介入を最も恐れていた。

(※10)アスコルド号修理にあたって、もっとも活躍したのは彼。海軍関係のあらゆる技術に精通しており、長崎製鉄所(現在の三菱重工長崎造船所)の事実上の生みの親である。アスコルド号修理によりロシア皇帝から勲章も授与されている。