
安藤優一郎先生。
「我々は結果を知っているから、何が良くて何が悪かったのかがわかるが、その時代においてはそれがわからない。慶喜にも落ち度はあったが、薩長もミスだらけだった。」
以下、他書籍の知見も含めて作成した【まとめ年表】。(西暦年月日はすべて和暦)
目次
第1章:坂本龍馬と薩長同盟ー予定調和の歴史像を再検証する
1853年
6/3 | 東インド艦隊司令官ペリー浦賀来航。大統領国書受け取りを求める。 【ペリー】 ※アメリカではなく、インドから来た、「東インド艦隊司令官」である。 ※カリフォルニアを手にした1846年の米墨戦争で武功をあげる。 ※1852年にアメリカを出発。途中、沖縄と小笠原に寄った。 ※軍艦はやや旧式。当時、オランダの海軍力が世界5位、アメリカが8位。 ※時の大統領は13代フィルモア。 【幕府】 ※幕府はペリーが来航することを1年前から知っていた。 ※当時最大の外交問題はロシアとイギリス。 ♨「明治維新の正体」、「勝海舟と幕末外交」にも詳しい。 |
6/9 | 久里浜に上陸したペリーから国書を受け取る。 【徳川斉昭】(水戸藩藩主) ※攘夷一辺倒と思いきや、国書受け取りに理解を示す。 ※1824年の「大津浜事件」がトラウマとなっているよう。翌年、藩主就任。 |
7/1 | 老中阿部正弘、アメリカからの国書を諸大名に提示し、意見を求める。 ※幕府の権威低下とも見れるが、議会民主制の端緒という見方もできる。 ※勝海舟は「出貿易論」。良い意見も出された。 ※毛利ら多くの意見は「主戦論」。のちの老中・堀田正睦は「積極的開国論」。 ※阿部正弘1855年10月9日に老中首座を譲り、1857年8月6日死亡。 ※後任の堀田正睦は勅許を求めたが、自分は行かなかったことが仇となった。 |
7 | プチャーチン、長崎来航。 【プチャーチン】(ロシア) ※佐賀藩鍋島家の長崎警備に驚いて、穏健策をとった(?)。 ※幕府は彼とロシアに親近感を抱いた。 ※徳川斉昭は「米露は通じているだろう」と親露に反対。 |
1854年(安政元年)
1/16 | ペリー、浦賀に再来航し、国書への回答を求める。 ※1年後に来ると言ったが予定より早く来た。 ※アメリカの大統領が共和党から民主党(ピアス大統領)に代わり、国の方針が平和路線に変更しようとしていたので先手を打ったためである。 |
3/3 | 日米和親条約締結 ※幕府全権は林大学頭述斎。決して一方的にやり込められたわけではない。 ※条約内容は「下田、函館の開港」と漂流民の人道的救助で、通商は約束していない。 |
ロシア軍艦大坂来航事件 紀淡海峡の軍備の甘さを突く。 これにより「摂海巡察隊」が組織され、勝海舟もその一員となる。1855年からは長崎伝習所。 |
1858年
6/19 | 大老井伊直弼、勅許を得ずに日米修好通商条約締結。 ※井伊直弼は国学を学んでおり、基本的に尊王。勅許を得るために努力はした。井伊直弼より、孝徳天皇が融通利かない方が問題だろう。 ※アロー戦争は開始1ヶ月で大沽砲台が占領された。戦況を見たハリス(米)から「より厳しい条件でお客(英仏)が来ますよ」と脅されたのも条約締結の原因。 |
6/24 | 徳川斉昭、井伊を詰問。 ※幕府の情報を朝廷に流した斉昭の評価は割れる。 ※斉昭は影響力のある人物であったため、阿部正弘は「お伺いを立てる」形でうまく調整していたが、堀田正睦はそういうタイプではなかった。斉昭の「出貿易論」もうまく伝わらず、井伊直弼の時期には幕府との関係は悪化していた。 |
7/5 | 井伊、斉昭たちを謹慎処分。 ※不時登城が理由。斉昭の他は、息子の慶篤(水戸)、徳川慶勝(尾張)、松平春嶽(越前)。 |
7/6 | 13代将軍家定死没。 【徳川家定】 ※享年35歳。斉昭・慶喜を嫌っていたため次期将軍は家茂となった。「地震公方」とも呼ばれたが、「安政の大地震(1855年)」がなければ、名君であったとする意見は多い。 ※さらにコレラが米艦経由で伝染し、数十万人を失う。 |
10/25 | 家茂、将軍宣下 |
1859年
8/27 | 斉昭、永蟄居。慶喜、隠居謹慎。 ※1ヶ月前の『ロシア水兵殺害事件』と『戊午の密勅』が伏線。 当時、ロシアはムラヴィヨフ提督のもと恫喝外交を行っていた。(樺太をよこせと言った?)そこで、「ロシア水兵殺害事件」が起きた。犯人は水戸藩と推測された。斉昭は戦争で幕府の力が弱まったら、次は自分と思っていたものの、表向きは穏便にしたロシアから詰め寄られた幕府は責任の所在として、戊午の密勅と合わせて水戸藩に処分を下した。1859年は内政外交とも最も危ない年であった。 →【「勝海舟と幕末外交」に詳しい】 |
1860年(万永元年)
1/22 | 遣米使節団出発。 勝海舟は咸臨丸艦長として別便で向かう。本隊は一度補給を行ったため結果的に咸臨丸の方が先にカリフォルニア到着。福沢諭吉は勝海舟を「船酔いで使い物にならない」と言うが、感染症で(?)「生死をさまようほどの状態」だったそうだ。 技術的には、航海に熟練した米兵がいなければ到達できなかったよう。 |
3/3 | 江戸城桜田門外の変 ※薩摩藩士が1人(有村次左衛門)加わっているが、これは前年夏の島津斉彬急死が毒殺と考えていたからである。のち自刃したが、残った薩摩尊攘派は久光にとっては迷惑であり、寺田屋事件へつながる。 |
9/4 | 慶喜、謹慎解除 |
1861年(文久元年)
1/14 | ヒュースケン殺害事件。 英仏が江戸を攻撃する計画も出ていたが、英仏に主導権を握られることを嫌った当のアメリカ・ハリスが穏便な処理を主張。 |
2/3 | ポサドニック号事件(対馬事件) ロシアにとって最も困るのは日本がイギリスのものになること。つまり、ヒュースケン殺害事件によって、日本がイギリスのものになる可能性が出たため、先手を打って対馬を占領した。 アニワ(樺太)、函館、対馬がロシアの生命線。 |
5/15 | 長州藩、長井雅樂主唱の「航海遠略策」をもって朝廷に入説 公武合体による開国論。 しかし、藩内で久坂玄瑞らが長井排斥へ向かう。 もっとも明治以降は長井の主張通りのことを行っている。 |
7/2 | 長井、「航海遠略策」を老中久世広周に提出 |
12/11 | 孝明天皇妹の和宮、江戸城大奥へ。 |
12 | 幕府、長州藩に公武周旋を依頼 ※つまり朝廷への説得。これには薩摩藩も刺激を受けたに違いない。 |
1862年
1/15 | 坂下門外の変。 老中安藤信正、江戸城坂下門外外で襲撃される。 ※犯人は水戸藩や宇都宮藩の尊攘派。背中を斬られたという点が武士の恥という理由で辞職したが、安藤信正は彦根藩の処置、公武合体の実現、ヒュースケン殺害事件の円満処理、金の流出阻止など冷静な処理で政局を安定させていた。 つまらない理由で安藤を責めた目付、大目付といった輩が問題。 慶喜のブレーンに、原市之進という人物がいたが、彼が黒幕という説もある。ちなみに大政奉還後の慶喜が精彩を欠いたのは原市之進を暗殺で失ったからという説もある。 |
2/11 | 家茂と和宮の婚儀 |
3/16 | 島津久光、薩摩藩兵を率いて上京の途に就く。 ※先行した西郷は、過激派300人が久坂玄瑞のもと集結して久光に呼応して挙兵しようとしている計画を知る。 自ら解決に向かうが、久光の待機命令に背いた罰として徳之島に流された。 |
4/16 | 久光、1000人の藩兵を率いて上京。 ※大久保の朝廷工作が実り、京都の護衛につくことに。目的はもちろん、公武周旋。そのためにも藩の意見を統一させるために薩摩藩士が勝手に議論することを禁じた。この事件こそ幕末政治史が京都にうつり、幕府権威が失墜、朝廷内に急進派を生み、志士たちの過激な行動が顕在化する端緒、ととらえる説も。 →【町田明広先生、安藤優一郎先生らは島津久光に注目している】 島津久光=幕末政治の焦点【電子書籍】[ 町田明広 ] 価格:1,566円 (2019/6/24 07:24時点) 感想(0件) 島津久光の明治維新 西郷隆盛の“敵”であり続けた男の真実 [ 安藤優一郎 ] 価格:1,728円 (2019/6/24 07:25時点) 感想(0件) |
4/23 | 寺田屋事件。薩摩藩士有馬新七らが討たれる。 ※関白九条久忠、京都所司代酒井忠義の暗殺計画。 最初は普通に話し合っていたが次第に激しくなった。 久光の命令ではない。 この件で薩摩藩の評価は高まった。 長州藩は藩是が破約攘夷に傾き、薩摩藩とは反目。 |
5/22 | 久光、勅使:大原重徳を奉じて江戸に向かう。 ※幕閣に攘夷を促し、慶喜を将軍後見職に、松平春嶽を政治総裁職に就かせるべく。つまり外様大名でありながら朝廷の力を得ることで、幕政に参加しようとした。 |
6/5 | 長井雅樂、帰国の上、謹慎を命じられる |
6/7 | 勅使大原、江戸に入る |
6/10 | 大原、江戸城に登城し、人事刷新を含めた幕政改革を求める |
7/6 | 慶喜、将軍後見職就任 ※久光の意向。のちに、朝廷の命で禁裏御守衛総督と言う新設ポストに。 |
7/9 | 福井前藩主松平慶永、政事総裁就任 ※久光の意向。老中久世広周、安藤信正は失脚。幕臣たちは面白いはずがない。 |
7 | 長州藩、破約攘夷を藩是とする ※久坂らの意見が長井雅樂の航海遠略策を打ち破る |
8/21 | 生麦事件。 久光、京都への帰途、東海道生麦村でイギリス人を殺傷。 ※駕籠の横から鉄砲で狙われたら一大事である。大名行列は横からの攻撃に弱く、平民はひれ伏して攻撃する意図がないことを示すのが常識であった。「英国人が横切っただけなのに」なんて生半可なものではないのだ。また、この生麦村は「国内ルール」と「対外国ルール」の二重のルールが存在する地域であったため、このような事件が起きてしまった。 |
閏8/1 | 会津藩主松平容保、京都守護職就任。 ※松平春嶽より白羽の矢。久光への権力集中を嫌った?容保は固辞するも藩是からせざるを得なかった。薩摩藩のままで良かったのでは?会津藩の悲劇はここから始まる。 |
閏8/7 | 久光、京都に入る。 ※朝廷内を長州藩の破約攘夷論が席巻しており、京都の激変に失望した。薩摩と長州は関係悪化。天誅と称した殺人事件頻発。 |
閏8/23 | 久光、帰国の途に就く。 ※長州藩が主導権を握る。 |
9/21 | 土佐藩主山内豊範、勅使三条実美を奉じて江戸に向かう |
11/27 | 三条、江戸城に登城し、攘夷の実行を求める勅旨を家茂に伝える |
12/24 | 容保、京都に入る |
1863年
1/5 | 慶喜、京都に入る |
2/13 | 家茂、上洛の途に就く ※家光以来。公武合体を世に示す。 |
3/4 | 家茂、京都に入る |
4/20 | 家茂、攘夷の実行期限を5月10日と奏上。 ※小笠原長行の「卒兵入京」が実現していれば…。 これは水野忠徳、井上清直らとともに洋装の精兵1600人で家茂を江戸に連れ戻そうとした計画。 在京中の老中、若年寄、一桑会らの反対で淀で止まってしまった。 →【小笠原長行に関してはコチラも】 |
5/10 | 長州藩、関門海峡通過の外国船を砲撃 ※イギリス船は攻撃していないのがポイント。 翌年の方が有名だが実は翌月にアメリカ、フランスから報復攻撃を受け、長州藩の軍艦は撃沈、砲台も破壊されていた。 ちなみに5/12に「長州ファイブ」がイギリスに渡っている。 長州藩は砲撃に参加しなかった小倉藩を敵視し、実際に朝議で処分が決定。 しかし、これにより諸藩も反長州となった。「朝陽丸事件」も生じる。 また、同日、「朔平門外の変」で尊攘派首領姉小路公知が暗殺。 ※薩摩藩士田中新兵衛に疑い。黒幕は滋野井公寿、西四辻公業という小攘夷派過激廷臣か?姉小路が海舟に説得されて大攘夷に転換したのも原因?いずれにしても薩摩および中川宮は朝敵になる恐れが生じていた。これが8月の政変の導火線に。 ※もっとも当時、薩摩は生麦事件後でイギリスとの交戦に備え多忙。 |
6/16 | 家茂、江戸城に戻る |
7/2 | 薩英戦争。 薩摩藩、鹿児島湾に入ったイギリス艦隊と交戦。 ※この時期に過激派が政権を握っているという事に孝明天皇も危機感をもつ。 |
8/13 | 孝明天皇の大和行幸(攘夷親征)の詔が下る ※孝明天皇が望んだものではなく、過激尊攘派をバックに三条実美らが主導。政変により中止に。 |
8/18 | 八月十八日の政変。 三条たち急進派公卿の参内を差し止め、長州藩の境町御門警備の任を解く。 中川宮ら「穏健派公卿」と薩摩、会津が優勢に。 |
8/19 | 長州藩、三条たちを擁して帰国の途に就く |
10/3 | 久光、京都に入る ※長州藩排除後の主導権争いがはじまる |
11/26 | 慶喜、京都に入る |
12/27 | 家茂、再び上洛の途に就く ※海路で。江戸の幕閣から将軍を切り離し、朝廷の名のもとに幕政の主導権を握ろうとした。 |
12/30 | 慶喜たち諸侯、朝議参与に任命される。 ※慶喜の他、松平春嶽、伊達宗城、山内容堂、島津久光ら。 しかし、横浜鎖港問題をめぐって翌年2月、泥酔した慶喜が久光らを「奸物」と罵ったため、空中分解。 西郷、大久保らが「慶喜ではダメだ」と思ったのもこの時か。 久光にとっては中川宮と慶喜の接近も痛い。 ♨この時の慶喜の行動は「狙い通り」という説もあり。 |
1864年(元治元年)
1/15 | 家茂、京都に入る |
3/25 | 慶喜、禁裏御守衛総督に任命される。 ※横浜鎖港問題で破約攘夷を訴え、天皇の信任を得る。久光らは慶喜には不信感を持ち、参与を辞退し帰国。慶喜は幕閣からも煙たがられ、諸侯からも不信感。 |
5/20 | 家茂、江戸城に戻る |
6/5 | 池田屋事件。 新撰組、池田屋に集結していた尊攘派志士を襲撃。 ※早朝、桝屋こと古高俊太郎を捕縛。取り調べの結果、志士たちが京都を火の海にし、その混乱に乗じて孝明天皇を長州に動座する計画があることを知る。 新撰組はすぐ志士たちの捕縛許可を求めたが、会津藩の本音としてはこれ以上、長州藩の恨みを買いたくなかった。薩摩藩は久光が京都にいなかったため矛先がそれた恰好。 ※6/19列強各国は20日以内に長州問題に対して何らかの進展なければ行動を開始することを通告。 横浜鎖港に関しても重ねて抗議。 オールコック帰任後のことである。 |
6/21 | 長州藩兵、大坂に到着。 ※48歳来島又兵衛は慎重論を唱える高杉晋作を面罵し、久坂玄瑞をなかば引きずるように連れて行く。 のちの御所への発砲の際も、尻込みする久坂を「臆病者は東寺の塔か天王山でも見物しておれ」と罵倒! →【幕末の英傑で打線を組んだ】 |
6/24 | 長州藩兵、伏見に入る。天王山にも陣を構える。 ※27日、来島又兵衛、天龍寺に入る。ようやく孝明天皇は長州藩兵の入京を認めない方針に。「会津と長州の私闘」と決め込んでいた薩摩藩も会津藩とともに御所の警備に就く。 |
7/2 | 慶喜、長州藩兵に伏見退去求める。 ※27日には御所の会議では「すぐさま討伐する」と宣言しておきながら、直後にこれである。説得工作に当たったのは腹心の永井尚志。会津藩にとってはこの慶喜の「ふらふらした」態度は不満。 もっとも諸藩も「日和見」であった。親長州の鳥取、岡山藩主は慶喜の兄弟。 水戸藩は思想的には長州と同じ。 |
7/18 | 朝廷の会議で長州藩討伐決定 ※諸藩も二択を迫られる。 |
7/19 | 禁門の変。 長州藩兵、京都に入り、薩摩会津藩兵と交戦するも敗北。 ※それまで不信感が持たれていたが、これでようやく慶喜、容保、定敬は連携する。 しかし、会津は朝廷のためにいくら頑張っても逆に幕閣からも疑念を持たれる始末。 老中稲葉正邦により支給されていた1万両が年末にストップ。 百万石を抑えていた加賀藩は長州びいきのせいもあって戦わずして国元へ帰り、存在感を全く発揮できず。 |
7/23 | 長州藩追討の勅命が出される。 ※御所に砲撃したことで朝敵となる |
8/5 | 四か国連合艦隊、下関砲撃。 |
10/21 | 長州藩、幕府に恭順の意思を示す |
11/11 | 長州藩、禁門の変の責任者を断罪に処す。 (※長州藩の処遇というのが幕末史におけるポイントである。) |
12/27 | 征長総督徳川慶勝、広島から撤兵する。 ※参謀・西郷隆盛が勝手に講和条約をまとめた。総督を慶勝にしたのが幕府方の最大の失敗ではないか。小松も西郷も長州厳罰のつもりでいたが、勝海舟に説得され変更。 ★ここがターニングポイント。 |
1865年(慶応元年)
1/4 | 幕府、慶勝を通じて長州藩主毛利敬親・広封父子の江戸召喚の方針伝える。 ※そうすれば反抗しないだろうと思ったが、そうはいかなかった。 回答を延ばしている間に軍備を整える。 |
3/22 | 長州藩、藩論が武備恭順に転換 ※高杉晋作功山寺決起による |
5/16 | 家茂、長州藩再征のため江戸城を進発。 ※後継には4歳の田安亀之助(家達)を指名。 篤姫は慶喜を14代将軍にするために大奥に入ったはずだが、家茂の将軍就任後は家茂への印象が良くなる一方、慶喜への印象は悪化。 |
閏5/22 | 家茂、京都に入る |
9/21 | 長州、再征勅許となる。 ※諸藩は消極的。薩摩も然り。広島藩も出兵せず。 |
10/5 | 通商条約勅許となる |
1866年
1/22 | 薩長盟約締結 倒幕を目指すものではないため、「薩長同盟」から「薩長盟約」と名称変更。 長州が「朝敵」とならないように画策することがメインであり、敵としているのは慶喜・容保・定敬の「京都方」。(江戸幕府ではない。) |
6/7 | 第2次長州戦争始まる。幕府軍、各地で敗退。 ※長州は薩摩藩、海援隊を通じてグラバーから南北戦争で使用した最新武器を大量に購入していた。 数では劣るものの、大村益次郎の軍略も功を奏し、さながら「狩り」のようだった。 会津藩は長州藩との対立を懸念して前面には立っていない。みな厭戦気分で、早く国元に帰りたいのが本音。(しかし、容保は許さず。) 薩摩藩は参加せず。 大久保利通「非義の勅命は勅命にあらず」は有名。 |
第2章:大政奉還の内実ー慶喜の裏切り・豹変、薩長土の分裂
1866年(つづき)
7/20 | 将軍家茂、大坂城で病死 |
7/29 | 慶喜、徳川宗家を相続 |
7/30 | 小笠原長行、小倉城より逃亡 |
8/1 | 小倉城落城 ※老中小笠原長行は逃亡。肥後藩兵らも離脱。これが戦局を決定づける。 |
8/8 | 慶喜、長州藩征討の勅書を受ける |
8/16 | 慶喜、征長軍解兵を奏上 ※長州征伐の気でいたが、小倉城落城の報を聞いて、豹変。 慶喜と共に前線に出ることを決意した会津藩、勅命まで受け取っておきながら意を翻された孝明天皇は激怒。 |
8/21 | 幕府と長州藩に休戦を命じる書が朝廷より出される |
9/2 | 幕府代表勝海舟と長州藩代表広沢真臣の間で休戦協定 ※海舟にとっては損な役回り。 |
12/5 | 慶喜、第15代将軍となる ※第2次長州征伐で敗北したにも関わらず、諸藩は慶喜を支持。しかし、ここから大政奉還まで1年もない。 |
12/25 | 孝明天皇崩御 ※岩倉具視、伊藤博文らによる暗殺説もあり。 ※これがすぐに倒幕には結びついたわけではない。小松帯刀と原市之進は極めて良好な関係を保っていた。 ※薩摩藩は財政問題で、幕長戦争終結後に在京の兵1000を国元へ戻した。これにより長州や坂本龍馬たちは大慌て。『薩長盟約』とはその程度のものであった。 |
1867年
1/9 | 明治天皇践祚 |
1/23 | 征長軍解兵の沙汰が下る ※幕長戦争ここに終結。 |
2/11 | 松平容保、京都守護職辞職申し出る ※慶喜の豹変および薩摩藩の要望で三条らの帰洛を認めたことで、薩摩藩と幕府に反感。しかし、辞職は認められず。 |
3/5 | 慶喜、兵庫開港の勅許奏請 ※諸藩への提出期限は20日までとしておきながら、パークスらに押されて豹変。期限を待たずに奏請した。当然、諸藩は不信感を募らす。つまり雄藩連合を目指すと言っておきながら、独裁。 |
3/12 | 島津久光、上京 ※慶喜の意向。雄藩連合により再び幕政を立て直そうとしていた。伊達宗城、松平春嶽、山内容堂らも続く。 |
5/24 | 兵庫開港、長州藩処分勅許 ※兵庫開港は孝明天皇では無理であった。 ※長州藩への処分で久光らの案は慶喜が握り潰す。西郷ら急進派は息を吹き返した。 |
6/16 | 久光、長州藩士品川弥二郎たちを引見し、西郷派遣を伝える |
6/22 | 薩土盟約締結 ※薩摩藩から西郷、大久保、小松、土佐藩から後藤象二郎が、坂本龍馬、中岡慎太郎立会いの下、大政奉還・議会制度確立を目指し盟約締結。孤立気味になっていた薩摩藩にとっても土佐藩との盟約は渡りに船。しかしこれとはまた別に1か月前に「薩土密約」も結ばれた。 これは両藩の過激派が結んだ武力革命の軍事同盟であり、土佐藩からは中岡、谷干城、板垣退助、薩摩藩からは西郷、小松、吉井幸輔などで坂本龍馬は含まれていない。 しかし、この2か月後、後藤が長崎での「イギリス人水夫殺害事件」に応対している間に、薩摩は武力倒幕を決定。←外国人の圧力があった? |
8/14 | 原市之進暗殺 ※挙兵計画が漏れたことによる薩摩と幕府の関係悪化から、薩摩藩によるものと思いきや、実は幕臣によって殺害された。 ※小松ー原ラインが完全に消滅。 ★慶喜はブレーンを失って迷走? |
9/18 | 大久保利通、山口に赴き、長州藩首脳部と会談 |
9/19 | 薩摩・長州藩の上方出兵協定成立 ※ようやく武力討伐への道筋。同じ薩摩藩からは薩英戦争からの復興財政難などにより挙兵に反対する一派から西郷暗殺計画もあった。芸州も加わる。 |
9/21 | 慶喜、京都市中から二条城に移る |
9/23 | 土佐藩士福岡藤次、大政奉還建白書草稿を大久保のもとに持参 |
9/28 | 薩摩藩主島津茂久と久光の名前で上方への出兵と倒幕を結び付ける ※どうやって結びつけたのかは定かではないが、小松帯刀が久光の三男・珍彦を通じて言いくるめたのではないか。 この小松帯刀の功績は大きいと思う。 |
10/3 | 土佐藩、老中板倉勝清に大政奉還建白書提出 |
10/6 | 薩摩藩兵、長州藩領三田尻港に到着 ※薩摩の予定が遅れたので、長州藩、広島藩は出兵中止。三藩の足並み乱れる。大村益次郎も薩摩への不信感から慎重論。 大村益次郎は「西郷はいつか新政府に反乱を起こすに違いない」 と見抜いている。 |
10/8 | 西郷隆盛たち、倒幕の密勅を奏請 |
10/12 | 慶喜、大政奉還の建白を受け入れる旨を土佐藩に伝える ※建白書提出からわずか10日後。大政奉還のアイデアは過去にも大久保一翁によって幕議であがっている。 |
10/13 | 慶喜、二条城で大政奉還の意思表明。長州藩主毛利敬親・広封父子の官位復旧の宣旨が下る ※しかし、この頃は藩主の卒兵入京が決定している。薩摩藩にとっては新政府においていかに有利な立場をとれるかに目的が変わる。 |
10/14 | 慶喜、大政奉還提出。 薩摩・長州藩に倒幕の密勅が下る |
10/15 | 大政奉還、勅許。 ※これにより慶喜の評価は高まる。逆に王政復古を主導した西郷、大久保へは薩摩藩内からも反発もあり、ギリギリまで追い詰められる。 |
♨幕府の方針に反対する人を「倒幕派」と括ってしまうことに幕末史の問題がある。
追い詰められた徳川家が起死回生の大政奉還、これに対して王政復古、ではなく、西郷たちも追い詰められていた。
薩摩藩自体も倒幕でまとまっていたわけではない。長州もしかり。
♨島津久光の敵は西郷隆盛というが、最大の敵は徳川慶喜ではないか。
第3章:王政復古の裏側ー大久保・西郷は孤立していた
1867年(つづき)
10/19 | 西郷ら、密勅を携え鹿児島へ ※この後1ヶ月で大きく状況変化。 坂本龍馬などは慶喜を強力に支持。 薩摩藩伊地知正治も武力討伐には反対を示す。 |
10/21 | 討幕密勅の執行停止を命じる沙汰書が出される。 ※公卿たちは大慌て。 |
10/22 | 諸大名が上京するまでの外交問題は「両三藩」と申し合わせて処理するよう朝廷より指示 ※三藩に薩摩、土佐が入っているのか?と諸藩は疑念。 |
10/24 | 慶喜、将軍職辞職の上表提出 |
10/25 | 親藩・譜代諸藩、幕府への政務委任を求める嘆願書を朝廷に提出 ※薩摩の下ではやりたくない。というか、国政を担当したことのない輩に担当できるのか?という問題。 (結局、明治維新でも幕臣の多く採用) |
10/26 | 朝廷、諸大名が上京してくるまで、政務の慶喜への委任を指示する (※再委任が浮上。薩摩藩は危機感。) |
10/29 | 薩摩藩主島津茂久の卒兵入京決定 |
11/1 | 茂久、卒兵入京を家老に伝える |
11/7 | 家老から家中に茂久の卒兵入京が伝えられる |
11/9 | 朝廷、10/22の指示撤回 |
11/13 | 茂久、鹿児島を出発 (※小松は歩行困難で行けず。) |
11/15 | 坂本龍馬、中岡慎太郎殺害される |
11/18 | 茂久、山口で長州藩世子毛利広封と対面。芸州と含め三藩出兵協定締結。 |
11/25 | 薩摩藩兵、京都に入る。 |
11/28 | 長州藩兵、摂津西宮に入る |
12/8 | 朝廷の会議で、長州藩兵の入京許可 (※毛利家も官位復旧。三条実美も赦免。) |
12/9 | 王政復古の大号令、小御所会議 ※いよいよ政変決行。薩長と会津桑名は緊張状態にあったが、会津桑名を窮地に追い込んだのは慶喜でもある。 ※西郷の「短刀一本あれば…」の話は有名。一方、「辞官納地」をめぐっては西郷たちが追い込まれる。 |
12/13 | 慶喜、大坂城に入る (※持久戦に持ち込む) |
12/18 | 朝廷、会津・桑名両藩に帰国を命じる (※ところが逆に大坂から伏見に繰り出す。) |
12/21 | 薩摩藩などに伏見の巡回、警備を命じる (※土佐藩と広島藩は拒否。薩摩藩に対する反感から新政府の足並みの乱れが露呈。) |
12/23 | 江戸城二の丸御殿出火 |
12/25 | 薩摩藩三田屋敷、徳川方により焼き討ち |
12/26 | 大藩の京都留守役、朝廷による苛酷な処分を批判する文書作成 |
12/28 | 薩摩藩邸焼打ちの報、大坂城内に伝わる |
1868年
1/2 | 幕府軍、大坂城を出て京都に向かう。 大坂湾で薩摩藩軍艦と交戦する。 (※榎本艦隊が砲撃) |
1/3 | 鳥羽伏見戦争はじまる。 ※初戦で敗退したとはいえ、死者279人で敗北とは言えまい。同日、大坂在中の各国公使には薩摩藩討伐の意思を伝えている。 |
1/4 | 仁和寺宮、征討大将軍に任命。錦旗を掲げて東寺に進む。 |
1/6 | 慶喜、大坂城脱出。海路、江戸に向かう。 (※これにはいまだに賛否両論。味方の津藩から砲撃も受ける。) 【女系図でみると面白い。コチラ】 |
1/7 | 朝廷、慶喜追討令を出す。 |
第4章:戊辰戦争の真相ー消された歴史
1868年(つづき)
1/12 | 慶喜、江戸城に戻る |
1/13 | 歩兵頭、駿府警備を命じられる |
1/15 | 新政府、大政復古の国書を各国公使団に渡す |
1/17 | 慶喜、松平慶永たちに弁明の書状送る |
1/23 | 目付を箱根・碓氷関所に派遣する |
1/25 | 勝海舟、陸軍総裁に任命。榎本武揚、海軍副総裁に任命。 ※主戦派の小栗上野介は罷免されてしまった。しかし、こんなバカげた戦争があるか、という幕臣たちの憤りの声は大きい。 朝廷からは賊軍、徳川家からは不忠扱い。 |
2/9 | 各国公使団、局外中立声明 |
2/12 | 有栖川宮、東征大総督に任命 |
2/15 | 慶喜、寛永寺に入る |
2/16 | 松平容保、江戸を去る |
3/5 | 有栖川宮、駿府に入る |
3/6 | 江戸城総攻撃日が15日に決定 |
3/9 | 山岡鉄舟、駿府で西郷と対面 |
3/13 | 西郷と海舟、第1回会談 |
3/14 | 西郷と海舟、第2回会談。 西郷、徳川からの嘆願書を受け取り、江戸城総攻撃を延期 ※西郷と勝の美談風に書かれているけど、実は西郷はパークスから早く貿易をはじめさせろ、って言われていた。海舟は交渉決裂に備えて焦土作戦を準備していた。 |
4/4 | 勅使橋本実梁、江戸城に入る。慶喜の水戸退隠を命じる。 |
4/9 | 静寛院宮、江戸城を去る |
4/10 | 天璋院、江戸城を去る |
4/11 | 江戸城、官軍に引き渡される。 慶喜、水戸に向かう。この前後、幕府陸海軍将兵の脱走相次ぐ。 (※陸海軍の受け渡しも決まっていたため当然、反発。) |
4/21 | 有栖川宮、江戸城に入る |
閏4/2 | 勝、大総督府より江戸市中取締を委任される |
閏4/4 | 大村益次郎、江戸に入る。勝、慶喜の江戸帰還を求める嘆願書提出 |
閏4/24 | 関東監察使三条実美、江戸城に入る |
閏4/29 | 田安亀之助、徳川家相続 |
5/1 | 大総督府、勝たちへの江戸市中取締委任を解く |
5/15 | 上野戦争。 官軍、上野総攻撃(彰義隊の戦い。) ※大村益次郎により半日で壊滅。この時点で西郷は次なる戦いを楽しみにしている風ではあったが、武力討伐派は少数であった。 |
5/24 | 徳川亀之助(家達)、静岡藩主に。 |
7/9 | 天璋院、仙台藩主伊達慶邦に薩摩藩などの討伐を求める書状を送る (※薩摩が実家。薩長の略奪行為などに激怒。) |
7/17 | 江戸を東京と改称 |
8/15 | 徳川家達、駿府に入る (※家臣も俸禄なしでもついてくるのが1万人以上。) |
8/19 | 榎本武揚、幕府軍艦8隻を率いて江戸湾を去る (※途中で暴風雨にあっていくつか軍艦を失ったのが悲劇。) |
8/23 | 官軍、会津若松城下に攻め入る |
8/26 | 榎本武揚が乗船する開陽丸が石巻港に入る |
9/8 | 明治に改元 |
9/20 | 明治天皇、東京に向かう |
9/22 | 会津藩、降伏 |
10/13 | 明治天皇、江戸城に入る(東幸)。東京城と改め、皇居とする。 |
10/16 | 榎本、宮古港を出て蝦夷地に向かう |
10/26 | 榎本、函館占領 |
11/4 | 東京市民に酒が下賜される(天盆頂戴) |
12/22 | 天皇、京都遷幸 |
1869年
3/7 | 天皇、再び江戸に向かう |
3/28 | 天皇、東京訪れ、太政官設置 |
5/18 | 榎本降伏 |
♨戊辰戦争は東北のイメージが強いが、江戸城を居城とする将軍家と幕臣3万人をどうするかという問題でもある。
明治政府の首都をどこに置くかと言う問題もはらんでいる。
それと、なぜ西郷隆盛人気があんなに大きいかと言うと、西南戦争で新政府に対して反旗を翻したからである。
それくらい新政府は人気がなかったのだ。特に江戸っ子には。
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