~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

☞【1868-69年、戊辰戦争】『あくなき薩長の謀略』(星亮一、2017年、文芸社)

「明治維新に隠された卑劣な真実」と副題が続く。

作者はとにかく「薩長憎し」。

その量、心意気たるや、すごい。

以下、読書メモと雑感。

★会津藩は徳川慶喜が恭順した以上は戦うべきではないと考えた。

しかし、奥羽鎮撫総督府参謀である長州藩士世良修蔵はあくまで会津攻撃を主張。

「松平容保の切腹と、全財産没収」を主張した世良に対して怒った仙台藩士が世良を惨殺。

本来は鳥羽伏見の戦いで終わるはずの戊辰戦争がはじまった

♨世良修蔵に関しては山内先生の書籍にも登場してくる。しかし、薩長全ての「毒」を彼に背負わせているような気もしてならない。【コチラ

★奥羽列藩同盟軍は惨敗した。

軍事力の差もあったが、

指揮官の不在
(なぜか蟄居していた素人に近い西郷頼母が保科正之の家系につながるというだけで総大将に)、

藩同士の連携の不備

各藩の寝返り

も大きかった。

この「寝返り」は今でも禍根を残す

※「引きずられるように」列藩同盟に参加させられて苛酷な末路を辿った村上藩のような小藩も…。(河合敦先生「逆転した日本史」より)

♨伊東潤先生の「幕末雄藩列伝」、八幡和郎先生の「47都道府県の幕末・維新」なども参考に。。

★戊辰戦争の過ちを正すべきである。

★薩長を中心とする明治政府は天皇を担ぎ上げ、自らの責任を回避する超法規的な統帥権を確立した。

そして、中国を攻め、朝鮮半島を植民地化し、太平洋戦争へ。

★幕府瓦解の真相

★「大政奉還」は坂本竜馬、後藤象二郎、小松帯刀らの進言であり、

慶喜を総理にするという甘い言葉が含まれていた。

慶喜はこの言葉を信じた。

パークスはこれを評価し、ロッシュは仰天した。

結局、慶喜首相は実現しなかったが、せめてロッシュには相談すべきであったであろう

♨慶喜は自分が優秀であると思っているせいか、独断が多い印象。そして考えがコロコロ変わる。

★鳥羽伏見の戦いの前に慶喜が江戸に帰って態勢を立て直していたら・・・

日本の8割は徳川につくであろうとの見方。

だから、西郷としては慶喜が大坂にいる間に決着をつけたかった。

薩長vs会津・伝習兵なら勝てる、と。

★もし慶喜が大坂に残っていたとしても、榎本武揚海軍が鹿児島や下関を砲撃し、後方攪乱するなどの手があった。

みな怒りに震えていた。

♨鳥羽伏見の戦での慶喜の行動は、日本を外国の侵略から守った「英断」とする意見もあれば、「腰砕け」という意見も。

女系図でみるとよくわかる!?コチラ

徳川幕府の喉元に短刀を突きつけたのは西郷ではなく、徳川御三家筆頭家老尾張藩主徳川慶勝である

慶勝は勤王派であり、第1次薩長征伐では内戦を避けるため穏便な処置で済ませた。

そもそも、なんで内戦反対派の慶勝を家柄だけで総大将に選んだのか

★尾張はそもそも「ええじゃないか」の発端であり、対立と分裂がお家芸という不安定な政情もあった。

新政府軍の東征に対しては岩倉具視の命令もあり藩内の不満分子を処罰。(青松葉事件)。

これにより東征軍がスムーズに東へ向かうことができた。

慶勝は弟の容保とは異なり優柔不断さはなかった。

♨徳川家康はもし西から島津や毛利が攻めてきても、大坂、尾張など東海道鉛線で食い止める算段で配置をしていたのだが。

戊辰戦争略年表

18681.3鳥羽伏見の戦いで「戊辰戦争」が開始
 1.6慶喜、大阪城脱出し、江戸へ逃げ帰る。
 2.12慶喜、上野寛永寺に入って謹慎、恭順を示す。
 3.14西郷隆盛と勝海舟の会談。
 4.11江戸城無血開城。
 閏4.20「会津戦争」開始。
 5.3奥羽列藩同盟結成。
 5.6長岡藩などが加わり「奥羽越列藩同盟」になる
 5.15上野戦争、彰義隊玉砕。
 7.29会津方面で二本松城、越後方面で長岡城が陥落。
 9.9米沢藩が新政府軍に寝返る。翌日には仙台藩も降伏。
 9.22会津藩が降伏。「会津戦争」終結。
 10.25榎本武揚軍が箱館を占領。
18693.9新政府軍艦隊が江戸湾を出発。
 5.11箱館総攻撃。
 5.18五稜郭陥落、箱館戦争終了。「戊辰戦争」終結。

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