~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、『戊辰戦争 あくなき薩長の謀略』(星亮一、2017年、文芸社)です。

著者の星亮一先生は東北出身の方です。

それもあってか、とにかく「薩長憎し」です。

その熱量、心意気たるや、すごいんですよね。

今まで戊辰戦争は、「新政府に抵抗する旧幕府軍」的なイメージを抱いていましたが、

「なんとか武力闘争に持ち込もうと卑劣な手を使った新政府軍」vs「やむを得ず戦った旧幕府軍」と認識を改めることとなりました。

もっとも、旧幕府軍も決してカッコ良いわけではなく、指揮官不在、統一感に欠ける、など諸問題が最後まで響きました。

以下、読書メモと雑感です。

戊辰戦争略年表

まずは戊辰戦争の略年表です。(※旧暦です。)

186710.14大政奉還(※1)
18681.3「鳥羽伏見の戦い」(※2)。(以後が「戊辰戦争」。)
 1.6慶喜、大阪城脱出し、江戸へ逃げ帰る。
 2.12慶喜、上野寛永寺に入って謹慎、恭順を示す。
 3.14西郷隆盛と勝海舟の会談。
 4.11江戸城無血開城。
 閏4.20「会津戦争」開始。(※3)
 5.3奥羽列藩同盟結成。
 5.6長岡藩などが加わり「奥羽越列藩同盟」になる
 5.15上野戦争。彰義隊玉砕。
 7.29会津方面で二本松城、越後方面で長岡城が陥落。
 9.9米沢藩が新政府軍に寝返る。翌日には仙台藩も降伏。
 9.22会津藩が降伏。「会津戦争」終結
 10.25榎本武揚軍が箱館を占領
18693.9新政府軍艦隊が江戸湾を出発。
 5.11箱館総攻撃。
 5.18五稜郭陥落、箱館戦争終了。「戊辰戦争」終結

(※1)大政奉還で徳川慶喜首相就任?

幕末史をわかりにくくする点の1つが「大政奉還」でしょう。

詳説日本史研究によりますと、

「これは、将軍からいったん政権を朝廷に返し、朝廷のもとに徳川氏を含む諸藩の合議による連合政権をつくろうという公議政体論に基づく動きで、これによって倒幕派の攻撃をそらし、徳川氏の主導権を維持しようとするねらいがこめられていたと考えられる」

p326-7

と書かれております。

これをもう少し、平たく言いますと、

坂本竜馬、後藤象二郎(土佐藩)、小松帯刀(薩摩藩)らは、

「慶喜を総理にする」という甘い言葉で大政奉還を誘った、というわけですね。

そして慶喜はこの言葉を信じました。

軍事顧問的な役割のロッシュ(フランス)はそれを聞いて仰天したと言われます。

慶喜は自分が優秀であると思っているせいか、独断が多い印象(そして考えがコロコロ変わる)なのですが、

せめてロッシュには相談すべきであったであろう、というのが著者のご意見でもあります。

(※2)「鳥羽伏見の戦い」の前に慶喜は江戸に帰るべきだった?

しかし、新政府に慶喜が首相になることに了承していない人々もいるわけで・・・

武力討伐を目指す薩長、そして岩倉具視らは「徳川抜き」の新政府をつくったうえに、

慶喜に土地や官位返還を要求します(辞官納地)。

そして結局、旧幕府軍と新政府軍は「鳥羽伏見の戦い」となります・・・

しかし!

人数で圧倒していたせいもあってか、幕府軍はどこか気が抜けたよう。

人数で劣りながらも薩長軍が大勝利しました。

ただ、慶喜がもし江戸に帰って、しっかりと態勢を立て直していたら、

著者はこの時期であれば日本の8割は徳川につくであろうとの見方をされており、

徳川が勝ったのではないか、と書かれております。

もちろん、西郷もそれを懸念しているので、西郷は慶喜が大坂にいる間に決着をつけたかったそうです。

(薩長vs会津・伝習兵なら勝てる、と。)

もっとも、慶喜が大坂に残っていたとしても、榎本武揚の海軍が鹿児島や下関を砲撃し、後方攪乱するなどの手があったので、

とにかく戦い半ばで逃げ帰ってきた慶喜に、みな怒っていました。

(※)鳥羽伏見の戦での慶喜の行動は、日本を外国の侵略から守った「英断」とする意見もありますが、単に慶喜にとって母親の実家方と争いたくない、という気持ちがあったのではないでしょうか?

女系図でみるとよくわかる!?コチラ

(※3)新政府軍の東征

そして、新政府軍の東征が始まるわけですが、

徳川幕府の喉元に短刀を突きつけたのは西郷ではなく、徳川御三家筆頭家老尾張藩主徳川慶勝」

と喝破。

これは、多くの歴史家も指摘しておりますが、ホントそう思います。

尾張はそもそも「ええじゃないか」の発端であり、対立と分裂がお家芸と政情不安定でした。

本を正すと、慶勝を家格だけで第1次長州征伐の総大将にしたのが問題なんですよ。

そもそも勤王派なうえに、徳川の本流とは仲良くない。

慶勝は新政府軍の東征に対して藩内の不満分子を処罰(青松葉事件)しました。

東征軍がスムーズに東へ向かうことができた要因の1つですね。

徳川家康
もし西から島津や毛利が攻めてきても、大坂・尾張で食い止める算段をしていたのに、

末裔どもは情けない・・・

一方、会津藩主・松平容保も徳川慶喜が恭順した以上は戦うべきではないと考えておりました。

しかし、奥羽鎮撫総督府参謀・世良修蔵(長州藩)はあくまでも会津攻撃を主張しました。

世良は捕らえた人質に非人道的な見せしめをして殺害した挙げ句、「松平容保の切腹と、全財産没収」を主張しました。

なんとか武功が欲しかったんでしょうね。

しかし、激怒した仙台藩士がついに世良を惨殺したことで、

本来「鳥羽伏見の戦い」で終わるはずの戦いが続きます。

ちなみに尾張藩主・慶勝と会津藩主・容保は兄弟ですが、兄・慶勝と比べて容保はあまりに人がいいんですね…

詳説日本史研究でも「会津藩はなお新政府に抵抗する姿勢を示し・・・」と書かれてしまっていますが、ちょっと厳しい書き方ですね。

(4)奥羽列藩同盟軍の惨敗

新政府軍と奥羽列藩同盟の戦いは結果的に新政府軍が勝利します。

これには軍事力の差もありましたが、

1.指揮官の不在
(なぜか蟄居していた素人に近い西郷頼母が保科正之の家系につながるというだけで総大将に)

2.藩同士の連携の不備

3.各藩の寝返り

も大きかったと言えるでしょう。

そして、この時の「寝返り」は現在でも禍根を残すほどで、

中には寝返った藩の家とは結婚させない、なんて家もいるそうです・・・。

明治維新に疑問を抱いている方は、是非、ご一読を。

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