~只今、全面改訂中~

2.アロー戦争の衝撃ー1858年夏

§1.安政年間の幕府のロシア観

日本の慣例を無視してやってきたペリーと比較して、公式に外国船の入港を認めている長崎にたった1隻で来航したこと(※11)、日本文化、日本語も勉強し、礼節を重んじていたこと(※12)などから、幕府は親露的になる(※13)。

(※11)これらにはシーボルトの助言もあった。当時、彼は日本研究の大家として知られていた。ペリー艦隊にも参加希望をしていたがペリーは拒絶。ロシア皇帝は好意的。

(※12)日露和親条約締結交渉における川路聖獏、老齢であった筒井政憲へのプチャーチンの対応など。

(※13)アヘン戦争で評判の悪いイギリスなどはもってのほか。

§2.幕府、一般世論のロシアびいき

阿部正弘はペリーの交渉の仕方には辟易しており、ロシアと手を組むことも考えていた(※14)。しかし、徳川斉昭らはアメリカとロシアが結託しているのではないか(※15)と、ロシアにも不信感(※16)があり、これを拒絶。

(※14)これがアスコルド号事件における寛容につながってもいる。

(※15)アメリカが6月12日に退去して、ロシアが7月18日に来るのは、つながっているとしか思えないと考えた。事実はプチャーチンが単にペリーに先を越されただけ。

(※16)当時、ロシアとは樺太領有問題を抱えていた。しかし、清が沿海州をイギリスに与えてしまうとロシア海軍はダメージを受けるため、日本とは友好を結びたがった。

§3.魯戎を撃て!

徳川斉昭の声望は高かった(※17)が、単純な攘夷論者であった。福岡藩主黒田長溥(※18)はロシア船焼打ちを川路聖獏(※19)に申し出て断られた。最終的には斉昭もまずはアメリカと和親条約を結ぶことはしょうがないと判断(※20)。

(※17)そのため、阿部正弘もその声を無視できず、幕府顧問として一応は奉り、過激な攘夷論は説得していた。阿部も25歳で老中となり後ろ盾が必要だった。

(※18)その後はおそらく阿部正弘や島津斉彬らに説得されて開国派となったの。

(※19)阿部正弘が全権を川路ではなく筒井にしたのは警戒心が先に立つ川路の性格から。他例として、陸奥宗光は海舟の神戸海軍塾生であったが、海舟は彼を全く評価していない。理由は相手との信頼関係をないがしろにして外交を行うからである。外交において信頼関係の構築は大事であり、日清戦争時の陸奥宗光を評価する声もある一方、衛藤故東大教授などは「日本のマキャベリズムの極地」と評す。

(※20)ロシアとは国境を接しているが、アメリカはそれがないため領土的野心がないと判断。ロシアはクリミア戦争で弱り目なのでアメリカの方が強いだろう、と斉昭は考えた。川路聖獏は断然ロシア派であったが、斉昭のことを考慮して日記には控えめに書いてある。

§4.アロー戦争の推移と日米交渉

1858年、アロー戦争勃発。5月20日、北京防衛の要であった大沽砲台が約2時間で占領されたために6月に結ばれた天津条約では多くの通商上の自由が奪われた(※21)。

日本と通商条約を結びたいハリスはこれを引き合いに、「アロー戦争が終わったらお客(※22)を迎える用意をすると言う。日本では、井伊直弼(※23)が外交を主宰しており、西暦1858年7月29日(和暦6月19日)、日米修好通商条約締結

(※21)戦争の経過は逐一日本にも知らされていた。和親条約はともかく通商条約となると多くの外国人が出入りする為、通商条約はオランダ以外と結ぶな、というのが大勢であった。

(※22)今のうちにアメリカと条約を結ばないと、イギリスがやってきて、もっと悪い条件を課せられると伝える。最強海軍のイギリスと陸軍強国のフランスが組めば京都も容易に落ちると。

(※23)洋学嫌い、洋式軍事技術嫌い。安政6年には長崎海軍伝習も廃止が決定。

§5.北緯43度の意味

1858年天津条約。別の取り決めで、ロシアは戦わずして北緯43度以北という広大な領土を得た(※24)。1860年の北京条約においても沿海州を獲得。幕府は樺太の境界線は北緯50度と考えていたため危機感。プチャーチンは領土問題より条約締結が重要と慎重な交渉を続行(※25)。

(※24)清にとって場合によっては用心棒となり得ると考えられたからか。

(※25)ロシアが遠大な外交戦略を行っているのに対して、その後の日本の根本方針がいかに揺れていることか、と明治になって海舟は嘆く。