~只今、全面改訂中~

3.ムラヴィヨフ艦隊の来航

§1.東シベリア総督ムラヴィヨフ

安政5年(1858年)4月23日、大老に就任した井伊直弼は、6月19日、反対派を切り捨て、遣米使節団派遣を実行(※26)。イギリス(※27)は1859年6月、中国で敏腕をふるっていたオールコックを江戸駐在領事にし、幕府に影響力を及ぼす。

(※26)日米修好通商条約の批准書交換のため。イギリスは最も危険な存在であり、ロシアと組むとイギリスを敵に回さないといけないので、アメリカを頼ろうということになった。ハリスの巧妙な働きかけもあった。

(※27)1858年夏に日英修好通商条約を締結した際のエルギン伯爵は意外に友好的で、エンペラー号(蟠龍丸)を寄贈してくれた

1859年8月18日、東シベリア総督ムラヴィヨフ(※28)が9隻からなる大艦隊を率いて江戸湾に現れる。ムラヴィヨフはこれまでのやり方は手ぬるいと考えており威圧外交を行う。

(※28)アムールスキーと言われるほど、アムール川地域の開発に功績があった。沿海州に屯田兵(流刑囚)を送り込んで、土地を事実上占拠し、清国に追認させるという方式で領土拡張を行った。最大の業績は1858年5月のアイグン条約であろう。太平天国の乱で疲弊した清国に対して戦いもなく、アムール川の南も勢力圏に収める。

ムラヴィヨフの主張は、「南樺太および蝦夷の軍備が手ぬるく、イギリスに取られる危険があるので、ちゃんとしてくれ」ということ。そんな折、1859年8月25日、横浜にてロシア海軍士官水兵2名が暗殺される(※29)。

(※29)イギリスとの関係を重視するハト派の外務大臣ゴルチャコフからイギリスと問題を起こさないように釘をさされていたこと、日本が英国を頼る可能性もあったこと、オールコックが駐在していたこと、米国も英国側に付く可能性もあり、強硬な報復を避けた。

§2.1859年の勝海舟

ムラヴィヨフはニコライエフスクを出発し、函館を経て中国へ(※30)。のち、長崎で修理を終えたアスコルド号に乗って8月6日、江戸へ。海舟は自分が修理に関わったアスコルド号でムラヴィヨフが日本を威圧したことをどう思ったか?(※31)

(※30)英仏の影響力をそぐため、清国に対して軍事援助を申し込んでいたりもする。

(※31)当時、井伊直弼により海軍伝習は中止。教官はオランダ帰国。海舟は軍艦操練所教授方頭取についていたが、実際は砲台の築造をしていた。ただ、相手の軍艦が自在に位置を変えてしまうので砲台は有効ではなく、動く砲台である軍艦の方が大事であると海舟は主張もしている。

ムラヴィヨフが威圧外交を行う契機となったと考えられるのは、1859年6月25日、大沽砲台の前を進軍しようとしたイギリス軍が突然の砲撃を受けて重大な被害を受けた事件(※32)で、英は日本に力を費やせない(※33)と判断したことにある。

(※32)天津条約の批准書を交換するために清朝の指定した少人数で正規のルートではないところを進軍しようとしたところ、それまで隠ぺいしていた大砲を駆使してイギリス砲艦3隻が撃沈、3隻が擱座、放棄せざるを得なくなる。油断もしていたが、清国は太平天国の乱の鎮圧に最も功績があったモンゴルの王族、センゲリンチンを天津防衛の指揮官に任命しており、強化を図っていた。ただ、翌年(1860年)、北京進撃、円明園、頤和園破壊という報復を受ける。

(※33)5月にイギリス軍艦アクティオン号が対馬を測量する事件があった。

その後、ムラヴィヨフは対馬問題、水兵殺害事件をテコに樺太全島のロシア領有を迫る。幕府は北緯50度以北なら譲って良い(※34)とするが、ムラヴィヨフはこれを拒否(※35)。

(※34)プチャーチンと川路聖獏の交渉の時に出た案。これに対してプチャーチンは真ん中で分割すると言う案を逆提案。結局、全島を共有と言う形で折り合った。

(※35)樺太南端に海軍基地を建設しないとイギリスの脅威を取り除けない。

§3.水戸藩の処罰とそれへの報復

ロシア水兵殺害は水戸藩の仕業というのが当時の見方であった(※36)。ロシア水兵殺害の約1か月後の9月23日、水戸藩に苛酷な処分(※37)。

(※36)田辺太一『幕末外交談』(1898年刊行)および、カッテンディーケ『長崎海軍伝習所の日々』による。天狗党の仕業で、罪状が明らかになり処刑もされたという。この時期、徳川斉昭は将軍継嗣問題および不時登城問題で謹慎中。

(※37)徳川斉昭の永蟄居、家老安島帯刀の切腹、京都留守役鵜飼吉左衛門を打ち首、その子の幸吉も打ち首のうえ獄門。この苛酷な処分が桜田門外の変につながる。密勅に関わったこと以外に、ロシア水兵殺害事件とも関連があると考えられる。

斉昭は井伊直弼を困らせ、場合によってはロシアからの攻撃を引き出し、その隙に井伊政権を打倒し、攘夷も成し遂げようと言う腹もあったかも知れない。

実際に、ムラヴィヨフも江戸砲撃を考えたと思われる。しかし、それには英仏米の意向(※38)も汲まないといけなく、砲撃すれば彼らが結んだ修好通商条約もフイになるため下がったと思われる。

(※38)今、砲撃を加えれば攘夷派の思うツボ?

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