~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、上垣外憲一先生の「勝海舟と幕末外交」(2014年、中公新書)の後編です。

【前編はコチラ】

ロシアとイギリスが狙う対馬。

対する日本、勝海舟はどうしたでしょうか?

以下、読書メモです。

4.ムラヴィヨフの要求ー1859年秋

§1.オールコックの函館行

ロシアが樺太を占領した場合、イギリスが蝦夷を占領して対抗する可能性があった。

§2.ムラヴィヨフの脅迫と内乱の恐怖

ロシアの樺太領有はアメリカも反対したと思われる(※1)。

国内では最も強力な武力を持つ水戸藩に長州藩、および尾張、越前(※2)、薩摩(※3)藩過激派が手を結んだら大規模な内乱(※4)に発展する恐れがあった。

水戸藩の挑発によりロシアが日本と戦争になれば、各国はこうした攘夷派とも大規模な戦争になる恐れがあった。

(※1)アメリカとロシアにはアラスカ問題があった。アラスカから北海道にかけては鯨の好漁場であり、この海域を重要視していた。アメリカがロシアからアラスカを購入するのはのちの1867年。

(※2)橋本左内は倒幕意図がなかったが、吉田松蔭と同じく死刑にされたのは井伊直弼が恐れていたからであろう。

(※3)斉彬の死のタイミングがあまりに悪かったため、西郷は毒殺されたと信じていた。

(※4)清は太平天国の乱とアロー戦争両方に対応しなくてはいけなかったこともあり大変だった。

§3.なぜ遣米「大」使節団か

1860年、日米修好通商条約批准書交換のため、遣米使節団が総勢150人で出発した(※5)。

米からは武器が贈られた(※6)。

イギリスは大沽砲台での打撃で主力がいなくなり、ロシアとはムラヴィヨフによる恫喝外交で関係が悪化していた(※7)。

(※5)幕府の財政も苦しいのに大人数である。

(※6)イギリスが贈った快速艇よりも破壊的。これはムラヴィヨフのロシアに対抗するほか、水戸や薩長はじめとする雄藩への威圧も含まれる

(※7)井伊直弼はロシア優位、イギリスが追い付こうとしている状況において、アメリカ寄りに大きく舵を切った。ロシア海軍水兵殺害事件の際に、ハリスが相当解決に寄与してくれたことも大きいであろう。翌年、アスコルド号と同じくらいの大型軍艦ポーハタン号も送ってくれた。

§4.勝海舟は何をしていたか

安政6年(1859年)は内政外交とも恐るべき年であった

この年の勝海舟の行動(※8)はあまり知られていないが、修理した「アスコルド号」が戦争に使われそうで戦々恐々としていたであろう(※9)。

また、下田に残されたディアナ号の大砲(※10)をロシアとの戦争に備えて江戸に輸送する任務を行った(※11)。

(※8)1月に長崎海軍伝習を終え、軍艦朝陽丸の艦長として江戸へ。その後、神奈川台場の築造指導。8月24日、ムラヴィヨフとの樺太領土交渉決裂、翌日のロシア水兵殺害事件を経て、海舟の直したアスコルド号が江戸湾にて威圧。

(※9)この前年、島津斉彬と会見。斉彬はまだ海舟が蘭学者の頃から援助を行っていたし、アスコルド号修理に際しても斉彬の支持があった。しかし、斉彬はこの2か月後、上京して慶喜を擁立するために薩摩藩兵を練兵している最中に急死した。毒殺と信じたものもいるようで、桜田門外の変に薩摩藩士有村次左衛門が加わったのはそのせいか。いずれにしても井伊直弼にとって一橋派は全員敵。海舟の上司にあたる永井尚志も罷免されてしまっていた。

(※10)修理の際、下田に大砲52門置いた。稼働に必要な工具は海に落ちたが、ロシア兵はそれを作成して、日本が自由に大砲を使えるようにした。のちにプチャーチンは後にそれを置き土産とできるよう許可を得た。

(※11)海舟自らの提案?

§5.生麦事件との類推

一度は江戸総攻撃を考えたムラヴィヨフであったが、「できなかった」であろう(※12)。

1862年の生麦事件の際の顛末(※13)を考えてもそうである。

しょうがないので謝罪と処罰の要求だけにしたのであろう(※14)。

安政の大獄が極めて苛酷な形で行われたのは井伊直弼がロシアの報復を恐れたからであろう

(※12)ロシア水兵を上陸できたとして600人程度。米英の軍艦はなく、大沽の例を見ても旧式の砲台でもそれなりの威力があるということがわかったので、迂闊に手を出せない。水戸藩はおそらく戦う気満々であったであろう。

(※13)外国人の間では島津久光を捕縛しようという意見が多かったが、イギリス代理公使ニール大佐およびフランス公使は、そんなことをすればすぐに長崎の外国人が虐殺され、戦争になり、幕府は雄藩連合が成立しないうちに瓦解、無政府状態、テロが跋扈する状態となり多くの血が流されたであろうというのがアーネスト・サトウの見解。

(※14)一橋派は軒並み罷免。川路聖獏、永井尚志も含む。鵜飼幸吉は単に親の言いつけで戊午の密勅を受け取っただけで打ち首獄門。意味のない強硬な攘夷論を押し出し、家臣を暴走に追い込み、幕末をテロ社会にした徳川斉昭の罪も重いと考える。