~只今、全面改訂中~

5.ポサドニック号事件の勃発ー1861年冬~春

§1.海舟の渡米

1860年1月、遣米使節団77名出発。咸臨丸には勝海舟(※15)、アメリカ海軍士官ブルック(※16)、小野友五郎(※17)、中浜万次郎(※18)らが乗る。

ブルックの力を借りながら、無事に太平洋横断(※19)。

1860年3月、桜田門外の変(※20)。

(※15)福沢諭吉は「船酔い」と言うが、生死をさまようような状態であったとのこと。ブルックに要請され指揮を譲る場面も。

(※16)アメリカ海軍の中でも有数の経験を積んだ優れた海軍士官。当時は金銀比価の違いでドル銀貨を日本に持ち込めば倍の利益が得られたためアメリカ軍艦も日中の間を行き来していたが、こうした行動に対して批判的であった。創設期の日本海軍の批判もしているが、それは「産みの苦しみ」として、その公表を50年間封印した。後半生はヴァージニア陸軍大学物理学教授として過ごす。

(※17)常陸国笠間の出身で数学の専門家。ブルックが絶賛。のちに幕僚に取りたてられ、帰国後は小笠原諸島を調査、測量し、小笠原諸島を日本の領土とすることなどにも功績があった。南北戦争後のアメリカと交渉して甲鉄艦購入をまとめ上げたのも小野であり、明治維新後も技術官僚として優れた業績を上げた。

(※18)冬の太平洋の荒天できちんとした操船の技術を身につけていたのは彼だけと評される。もともと漁師で、経験豊富。

(※19)アメリカのポーハタン号は故障でハワイに寄港したため、結果的に咸臨丸の方が先にサンフランシスコに到着した。

(※20)海舟も敵と疑われる。「提督」木村喜毅の前で「幕府はダメだ」という発言を繰り返していたのも原因か、帰国後の海舟の昇進はなし。以後、ふてくされてろくに仕事をせず、処罰を覚悟しなくてはいけないほどに。

§2.イギリス軍艦の対馬測量事件

アロー戦争中最中の、1859年5月19日、イギリス軍艦アクティオン号による「対馬測量事件(※21)」がおきた。

1860年2月(※22)、オールコックは対馬占領を本国に上申。幕府にも秘密裏に租借を申し込んだとは思われる。フランスも11月に租借を申し込んでいる(※23)。

一方、1860年3月7日、ロシア領事ゴシケーヴィチは許可を得て外国人初の国内旅行を行う(※24)。

オールコックも対抗して国内旅行(※25)し、9月には富士山登頂。

(※21)突然、対馬西岸に現れる。日本海から東シナ海を絞扼するのに理想的な軍港であった。湾内を測量しただけではなく、上陸して村の中を歩き回り、20日ほど滞在。11月にもう1度来航。その後、函館に寄りその成果をロシアに誇っていたという。ロシア領事ゴシケーヴィチはイギリスが領土保全を明目として自発的に譲り受けようとしているか、大名を独立させ保護下に置こうとするかを考えていると本国に通達。幕府に対してはロシアにより砲台を築いてやると言うが、攘夷派が黙っていないであろうことから拒否(当時は安藤信正)。

(※22)遣米使節団が出発した直後。外交的敗北の挽回策。1859年の大沽での敗北がこの外交的敗北を招いたと考えられる。

(※23)横井小楠が記す。幕府は大いに困窮したとのこと。2月のイギリスの時点でも困窮したと思われるが、この時点ではまだアロー戦争の決着がついていなかった。8月に決着がついた後の、10月の租借要求と言う点で、困窮度は高い。

(※24)アメリカ一辺倒からの変化という点で重要。理由としてイギリスの脅威を考える。

(※25)ロシアが対馬を占領している1861年6月、長崎から陸路で江戸まで向うことを強硬に主張(なんで?)。この時と、富士山登頂は「大君の都」にも精密に記されており、当時の状況を知る史料として価値のあるものとなっている。

§3.フランスの「朝鮮征伐」

前年は苦杯をなめたが、1860年8月21日、英仏連合軍は逆襲(※26)し、朝鮮はパニックに(※27)。

当時、朝鮮はキリスト教を邪教と扱っており(※28)、フランスが攻撃する理由(※29)は存分にあった(※30)。幕府には大量の馬を要求(※31)。

(※26)大沽砲台を占領、天津、北京と進軍し、カンポウテイは熱河に避難。10月8日~9日には円明園を略奪、18日には破壊。

(※27)清国が列強から守ってくれると考えていた。

(※28)フランス人から学んだ司祭とその信者の大量虐殺など起きていた。

(※29)金鉱も原因の1つ。ちなみに当時のフランスはナポレオン三世。

(※30)1866年、大院君によるカトリック教徒大弾圧事件に対する報復としてフランス艦隊が来襲するという事件(丙寅教案)が起こるが、1860年秋の時点ですでに火種はあった。

(※31)大沽での雪辱のために2000頭の馬を要求しているが、英仏連合軍が勝つと困るので、1000頭に限ってしぶしぶ輸出。1859年11月5日にフランス副領事の従僕の清国人が殺害された件や、1860年10月30日にはフランス領事官の下働きのイタリア人ナタールが武士2人にケンカを売られて右腕を負傷した事件があり、フランスは幕府に激怒していた。

§4.ムラヴィヨフ、リハチョフとシーボルト

ロシア極東艦隊司令官リハチョフはサハリン・アニワ湾、函館、対馬を重視しており、ここが敵国に落ちることを恐れていた(※32)。

1861年1月~2月、長崎にてムラヴィヨフ、ポサドニック号艦長ビリリョフ、リハチョフはシーボルト(※33)と会談。

(※32)1860年2月の時点でイギリスが対馬租借を要求していたことと、1859年10月の函館でのパレードにてイギリスが大沽での雪辱に並々ならぬ決意を抱いることを感じたため、おそらくイギリスが勝利するであろうということ、その後は、日本海を目指すであろうことを推測していた。

(※33)1829年、伊能忠敬の地図を持ち出したというシーボルト事件で国外追放となっていたが、30年ぶりの1859年10月、彼は再び日本(長崎)に来ていた。シーボルトはロシア皇帝に対日国交について献策した人物であり、おそらくこの時も、ロシアの今後の在り方について助言を求めたのであろう。シーボルトのこの時の身分はオランダ東インド会社社員であったが、この直後、幕府の外交顧問に招聘される。これはシーボルトのロシア人脈を期待しての事であろう。もっとも幕府は長崎から江戸へ向かうのにロシア軍艦を貸してくれと要求しているが、断られている。この案を出したのは長崎奉行支配組頭永持亨次郎、その実兄で江戸外国奉行支配組頭柴田剛中(忍者の出身)、その上司に当たる外国奉行小栗上野介のラインであろう。小栗は親露というか、反英

§5.ポサドニック号の対馬占拠

ロシア外務省はイギリスとの直接対決を避けるよう指示。しかし、「海軍総裁」コンスタンチン公はリハチョフの「対馬占領案」に興味を示す(※34)。これが1860年8月。

対馬調査中の1861年1月15日、アメリカ外交官ヒュースケン殺害事件が起きる。これにより英仏が戦争をしかける、あるいは対馬租借を要求する動きが見られたが、英仏による主導権を嫌ったハリスが穏便な処置で解決。

(※34)コンスタンチン公は皇帝アレクサンドル2世の弟。敗戦までの大日本帝国もそうであったが、ロシアには二重外交が存在した。