~只今、全面改訂中~

日韓関係が冷え込んでいる。

どうも感情論が先行しているようで、どうもうまくいく気がしない。

ある程度共通の歴史認識を持たない限りこれから先もうまくいく気がしない。

地政学的な見解はコチラ

というわけで、「感情論を排した現実的な視点から日韓併合を見直す。」というテーマで書かれた『誰も書かなかった日韓併合の真実』を読んでみた。

著者は現役高校教師。

決してドキドキワクワクするような本ではないが、それが現実であろう。

そういえば大学生の頃、よく通っていたラーメン屋さんのご夫婦が、ある日、

「わたしたち、北朝鮮から逃げてきたのよ。最初の頃は、北朝鮮関係者にウロウロされたけど、最近は見ないわ」

と言ったが、今どうしているだろうか。

序章:李朝崩壊から日韓併合まで

閔妃が清、日本、アメリカ、ロシアと次々に接近する国を代えたり、高宗自身が近代化を拒んだり、義兵運動や農民運動を防ぐことができなかったことで、朝鮮の情勢は不安定。独立など危うい。

ロシアの南下を最も警戒していた日本は朝鮮の独立維持をめざしていたが、方針転換して保護国化に

ロシアは義和団事件後も軍を満州から撤退しないで、防御線を勝手に構築し始めた。

方針転換の原因の1つは朝鮮王朝の腐敗。近代化を目指すにも閔氏一族による腐敗の巣窟であった。(これに触れていない書籍が多すぎるっ!)

※「朝鮮はペリー提督出向前の日本よりもいっそう厳しく鎖した国土である」(アメリカ・ロー公使)

※保護国化はより朝鮮の情勢を不安定に。

※朝鮮国内でも日本との合邦を唱える勢力があった。一進会(1904年~)など。(※一進会の黒幕は日本人説も。

※ハーグ密使事件もそうだが、帝国主義全盛の時代に実力のない朝鮮に耳を傾ける国はなかった。

第1章:日本の植民地支配の目的は何か?

1.各国の植民地事情

日本の統治に問題があったにせよ、欧米のように(※)あからさまな収奪はなかった。【※この考え、間違い(?_?)。

強制栽培もなく、奴隷化も、強制移住もない。

※フランス(インドシナ)、アメリカ(フィリピン)、オランダ(インドネシア)、ベルギー(コンゴ)はひどい。イギリス(エジプト)はまだましとも言えるが、南アフリカの行動は問題。(♨インドも)

2.朝鮮総督府の実態

総督府の政策の柱は同化政策であったが、ナチスの迫害のようなものではなく、統治を安定させるために朝鮮人有力者の協力を仰いだ。

3.李王朝の王族たちはどうなった?

むしろ優遇され、日本の皇族とも結婚。

※ミャンマー(コンバウン朝)におけるイギリス、ハワイにおけるアメリカとは違う。イ・スンマン時代は王政復古を恐れて帰国できず。

4.王族の住んでいた宮殿はどうなった?

総督府は京城を近代的なものにしようとした。幼い皇族のために植物園や動物園も設置。なんでも近代化が良いわけではないが、日本国内でも近代化で城はたくさん壊されており、時代背景含めると決して民族浄化を図ったものではない。

ちなみに秀吉の朝鮮出兵で宮殿が燃やされたが、日本人が燃やしたのではなく朝鮮人が住民を棄てて逃げた王への恨みから燃やした

5.両班などの身分階級はどうなった?

朝鮮人無気力の原因として総督府により身分秩序解体

甲申政変(1984年、金玉均)、甲午改革(1994年、東学党)により身分制度が解体されたわけではない。(韓国ではそのように書かれている教科書もある。)

※「平気で盗む」「金を払わない」「働くことを恥ずべきことと考えている」など両班の評判はすこぶる悪い

※身分階級が完全になくなるのは1923年頃。しかし、これでみな平等となったわけではない。
日本人は朝鮮人を蔑視していたため、日本人とは待遇が異なり、不満のたねとしてくすぶっていた。
また、一部の両班が親日家となり支配者の側となったことで、本当の意味で平等ではなかった。
親日家への目が厳しいのもこうしたことからである

第2章:3・1独立運動の衝撃と総督府の対応

6.「3・1」独立運動はなぜ起きた?

★1919年。ウィルソンの民族自決の提言(1918年1月)、ハーグ密使事件で退位させられた高宗の死去(1919年1月21日)で民族感情が刺激。日本留学中の朝鮮人学生が決起集会を開いたのが火付け。

学生たちは逮捕されたが、このことが朝鮮本土に伝わると本国でデモ。各地で衝突。発砲事件まで起きた。

★3か月後にようやく鎮圧したが、総督府にとっては想定外であった。8月、法律改正で朝鮮総督に文官の就任が可能となった。

(山縣の反対もあったが、脱陸軍をめざした原敬は海軍の斎藤実を総督に据えた。)

【歴代朝鮮総督】

1906年~1910年までは朝鮮統監。伊藤博文(暗殺)→ 曾禰荒助 →寺内正毅

朝鮮総督となってからは【コチラ:wikipedia】。

斎藤以外は陸軍。重要なポジションとして認識されていた。

7.文化政治とはなんだったのか?

★斎藤の統治期間が「文化政治」である。(山梨半造が就任した1年半を除き、1919年8月~1931年6月まで)民族主義の穏健化を目指した時期があったが、ジャーナリズム政策はあまり成功とはいえなかった。

日本と結びついて権利の拡大を目指す新興勢力と、独立を志向する勢力にわかれ、好むと好まざるとに関わらず、総督府と朝鮮人の距離は近づいていった。

8.団結できなかった大韓民国臨時政府

★韓国では「3・1独立運動により建立された<大韓民国臨時政府>が今も続いている」と教えられているが、そうに見る歴史学者はほとんどいない。

実際には大韓民国臨時政府は海外で独立を目指しながらもまとまることができず、政府としての体をなしていなかった。

李承晩のように海外で朝鮮独立を訴える人々もいたが、臨時政府との連携は不十分だった。

3・1運動後はむしろ、日本が朝鮮人協力者を増やしたため海外の運動家は孤立していた。

★臨時政府は寄り合い所帯で、外交活動を重視する上海勢と武装闘争を重視する露領勢力が衝突。李承晩【コチラ:wiki】もまとめきれず、1925年解任。

9.第2の「3・1独立運動」失敗の理由

★1920年代はさまざまな運動がおきた。しかし、これは「独立のため」ではなく、知識人層による国民生活の向上運動である。こうした社会運動がおきたのも治安が安定していたからである。

併合前と異なるのは朝鮮知識人は李朝時代の風習を否定し迷信を打破しようとしたことにある。

しかし、結果的には仲間割れ、分裂などから多くの運動が失敗。

★農民社は国民生活の近代化を目標に農民を啓蒙していたがやはり内紛。

★社会主義者は「教育運動はブルジョワ有産階級のみ利する運動だ」として生活改善運動を攻撃。社会主義者は労働争議や小作争議を支援することが多く、結果的に民族運動を刺激。朝鮮外でもイルクーツク共産党(1918年~)と高麗共産党(1921年~)が現れたが、離合集散を繰り返す。

1926年、大韓帝国最後の皇帝純宗が死去した時に第2の3・1運動を計画したが、総督府が治安維持のために警察を大幅に増やし、さらには日本人協力者づくりに取り組んでいたこともあり失敗に終わった。

★1929年にも光州学生事件が起きているが、結局団結できずに総督府により解散。

★やはりコミンテルンの目指す共産主義革命と、朝鮮独立を目指す民族主義的運動は相いれなかった。

10.満州を足掛かりとした独立運動

武力闘争の中心となったのは満州

1909年の時点で間島(かんとう)には7万8000人の朝鮮人が住んでいたという。その後、産米増殖計画で土地を失った農民が流入するなどで数を増やして、1931年の段階では70万人まで増えた。

★満州を拠点にしたグループの特徴はソ連に影響を受けて共産主義的色彩が濃く、武力闘争が盛ん。代表的なのは洪範図(ホンボムド)【コチラ:wiki】と金日成。もっとも強盗まがいのものも少なくなかった。日本にとっては略奪を繰り返す強盗にしか映らなかった。(結局また内紛で武力衝突。)

沿海州の朝鮮人と日本軍が組むことを恐れたスターリンはこの地に住む朝鮮人を1人残らずカザフスタンへ強制移住。洪範図もカザフスタンで一生を終える。

★金日成は実態はどうあれ「独立運動の英雄」となったが、臨時政府は目立った功績を挙げられなかったため、戦後に民族感情を煽って自分たちの運動を誇張し、政権の正統性を示そうとした。

第3章:日本が実施した経済産業政策の功罪

11.貨幣経済確立と日本経済との同化

★朝鮮は日本にとって格好のマーケット。だからこそ貨幣制度の安定を望んだ。(それまでは不安定だった。)

★日本が金本位制を確立したのは1897年。しかし朝鮮では外貨を得る手段がなく実現できず。そこで1904年の第1次日韓協約で、日本主導で財政改革が始まった。もっともまだ韓国政府内では素直に受け入れることはできず。

♨第1次、第2次、第3次とあるがこれは試験頻出。

12.日本のインフラ整備 鉄道扁

★日本が鉄道を敷設したのは大陸侵略のためと感情的になる人が多いが、鉄道敷設は軍事面だけでなくマーケットをつなぐという点において経済政策とも密接にかかわる。

★もっともこの時点で朝鮮の産業は発展しておらず、鉄道の収益率はなんと1%。

★さらに日本が手にした鉄道敷設権の多くは朝鮮から奪ったものではなく、外国から手に入れたもの。資金難の原因は閔妃の浪費。財源確保のために高宗が鉄道敷設権などを各国に売っていたのだ。(いちばん多く利権を獲得したのがロシア)

★第1次世界大戦後の好景気に押され、朝鮮経済も成長。日本から渡った人も多く、日本人人口も増えた。

13.在朝日本人の経済活動

★終戦時点で朝鮮には75万人の日本人が住んでいた。台灣や満州の倍である。当時からビジネスで移住するものが多かった。釜山と仁川が中心。釜山は江戸時代に対馬と交易していたこともあり、関係が深い。

★もっとも日本人コミュニティは独立した自治を行っていたため、日本人と朝鮮人の差異が戦争を機に表面化してしまったという問題もある。

14.日本のインフラ整備 工業地帯形成扁

★八田興一が台灣なら、野口遵(したがう)は現在の北朝鮮でダムや水力発電所を建設した実業家である。これにより貧しい漁村だった興南地区は世界有数の工業地帯となった。もっとも彼の功績が韓国や北朝鮮で語られることはないどころか、水力資源を搾取した人物のように扱われる

★「工業立地論」に基づき工場は建てられる。野口が朝鮮に進出したのは大陸侵略のためではなく、石炭と石灰石が豊富にとれたから。もっとも、労働環境が過酷だったこと(♨本国でもそうだが)、日本人労働者と朝鮮人労働者は同じ待遇ではなかったことは知っておかねばならない。

15.不況の打開策と経済圏の再編

★世界恐慌(1929年)で米価暴落、生糸貿易不振で大打撃。朝鮮にも波及。農民の生活が困窮。

★1931年に朝鮮総督に赴任した宇垣一成は、「朝鮮の富が増加した割に朝鮮人の富が増加していない」として朝鮮の工業化を推進。もっとも工業化はしたが、これまで以上に日本への依存が深まることとなった。

★鴨緑江で世界2位規模の水豊ダムを作り、この発電により日本の工場誘致。

★日本は金本位制停止で円下落、輸出活況となり不況からいち早く脱出していたのと、満州事変後の軍需拡大で1933年頃には軽工業を上回る規模に重工業が成長。朝鮮は軽工業を担うが、産業的に自立とまではいかなかった。

第4章:総督府が導入した諸制度の意味

以下、略。

16.日本語が普及しなかったのはなぜか?

17.土地の近代化と米の増殖

18.衛生・医療制度を介した規律化

19.創氏改名による日本の家制度導入

第5章:戦争と朝鮮半島

20.オリンピック参加とメディア統制

21.統治者と被統治者の内鮮一体

22.国家総動員体制と植民地の矛盾

23.朝鮮半島と軍隊

24.終戦と分断国家誕生

おわりに

「日韓併合は欧米以上に過酷」と韓国では教わる。

そういう民族史観を改めようとする研究者もいるが、日本を擁護すると研究職を失うのが普通である

しかし、35年間、暴動や独立運動はあまり起きなかったことは評価に値すると思う。

もっとも、日中戦争後に朝鮮人と日本人の差異が大きくなったこと、朝鮮国内でも日本人協力者は作る一方で末端の労働者は恩恵にあずかれなかったことなどが、現在の反発の原因となっている。

日韓併合は日本ではもう終わっていることと思われているが、韓国はまだ終わっていないことと思われている。

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歴史街道2019年11月号特集は「日朝2000年史」

ちなみにamazonのreviewでは執筆者全員が「半島寄り」過ぎる!という意見も。(勉強すればするほどそうなる

試験勉強的には日朝問題は根深すぎるので、感情論を排して最低限の知識だけおさえておくのが良い。(もっとも世界史検定で高麗だか李氏朝鮮だかの首都の位置を問われた時はお手上げだった…)

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「反日種族主義」が大ヒット

韓国文化人の間でも行き過ぎた「反日」に対して「反対」の声が。

これまで学者などは「反日」でないと社会的に抹殺される恐れがあったのですが、最近では随分言論が自由になったと。

いずれにしても大ヒットとなり、日本語訳も出ております。

日韓の関係が悪いと経済にも悪影響だから、とっとと改善したらいいのに。

手始めに日韓混合のアイドルグループでも作ったら、今まで以上に売れそうな気もしますね。

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