~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

☞【徳川将軍×暗記法6】『TOKUGAWA15』(堀口茉純、2011年、草思社)より【家斉・家慶編】

目次

11代:家斉…ビッグダディ将軍

①松平定信の「寛政の改革」時期。(1787~1793)
②ラクスマン来航(1792)以降の異国船問題。
③水野忠成登用(1818)からの大・放漫時代
④水野忠邦老中就任(1834)からの国内混乱期

1773 吉宗の4男・宗尹を祖とする御三卿一橋家の2代当主、治済の嫡男として誕生。
1774 田安定信(=松平定信)養子縁組騒動。
1779 将軍世子・家基死亡
(※毒殺説)
1781 家治の養子となる。9歳。父・治済の暗躍。
1782 天明の大飢饉(~1787)
1783 浅間山噴火
1786 家治死亡
1787 将軍就任。15歳。

松平定信「寛政の改革」
松平定信、白河藩主から老中首座へ(~93)。保守勢力の返り咲きを狙うが時代に逆行。江戸で打ちこわし相次ぐ

倹約令
「白河の清き魚の住みかねて 元の濁りの田沼恋しき」

備蓄奨励、福祉政策は評価。学問所や藩校も盛んとなり、成績次第で出世の道が開かれた。
1789 尊号事件
島津家から茂姫を迎え、結婚。
囲米の制
棄捐令
1790 人足寄場設置
寛政異学の禁
オランダとの貿易制限
旧里帰農令
1791 七分積金の制
1792 長男誕生。
ロシアのラクスマン根室来航、通商要求。
1793 定信失脚(※外国事情にも詳しかったが)。
⇒以後、「寛政の遺老」に引き継がれる。
1803 延命院事件
※延命院は家光とも縁が深く、奥女中たちも頻繁に出入りしていた。参詣が目的ではなく住職の日潤から性の功徳を受けているという噂が立ち、寺社奉行・脇坂安董が家臣の娘を使って潜入捜査をしたところクロ。これで日潤は死罪。奥女中は検挙されず。
1804 ロシアのレザノフ長崎来航、幕府に通商要求。
(※レザノフ…国策会社「露米会社」総支配人。補給がうまくいかず孤立していたため日本に行くことを申し出る。日本は「鎖国を祖法としている」として却下した。)
1805 関東取締出役設置
1806 露寇事件、薪水給与令
(※ロシア軍艦ユノナ号が突如、松前藩を襲撃。翌年も択捉島が攻撃される。以後、蘭学者は開国論、平田篤胤ら国学者は交戦論を唱える。ただ、この時、ロシアでは襲撃の首謀者たちは皇帝の許可を待たずに行動したとしてサハリンで投獄されていた。松前奉行が幕府に一意見を述べていることも注目に値する。

幕末はペリーが始まりではなく、国境を接する唯一の西洋国であるロシアとの対峙が始まりである。
1809 間宮林蔵、間宮海峡発見
1813 ゴロウニン事件
1817 イギリス船浦賀に来航。
松平信明、辞職願を却下され、現職のまま病没
1818 水野忠成(家斉の腹心)、老中就任
三翁(父・一橋治済、正室の父・島津重豪、側室の義父・中野碩翁)に権力集中。大奥の浪費は激しく。貨幣改鋳により放漫財政を密かに補填。いわゆるバブル。
1821 伊能忠敬「大日本沿海輿地全図」弟子たちにより完成
1822 左大臣に昇進。50歳。
1825 異国船打払い令
薪水給与令が出ていたが、外国人による狼藉が相次いだため。

※1824大津浜事件、宝島事件。
1827 太政大臣に昇進。父・治済死亡。55歳。
1828 シーボルト事件
1833 天保の大飢饉
1834 水野忠邦、老中へ
(※「貧相な菊」の一件。出世のはじまり。)
1837 大塩平八郎の乱
隠居。次男・家慶が将軍に。
生田万の乱。
モリソン号事件
(※日本人漂流民返還のために来航したアメリカ船を容赦なく撃退)
1839 蛮社の獄
(※モリソン号事件に際して幕府の対応を批判した高野長英、渡辺崋山らを粛清。)
水野忠邦老中首座へ
1840 三方領地替え。
アヘン戦争
1841 死亡。69歳。
智泉院、感応寺事件
(症状悪化は家基の崇りとして側室・お美代の方の実父・智泉院僧・日啓が幕府のバックアップを受けて感応寺という巨大寺院を立てる。ここで大奥が密通を重ね風紀が乱れた。)

家斉の死後、寺社奉行・阿部正弘により即刻廃止され、老中・水野忠邦による天保の改革開始となる。

★「寛政の遺臣」たちの改革も反動を招き、退廃的、享楽的な時代となった。浮世絵、文芸も「文化・文政期」に栄えた。

家斉自身は側室が40人前後おり、16人に55人の子女をもうけさせた。(成人したのは13男12女であり、お祝いと弔いに明け暮れた)。
①15歳で将軍就任。就任当初は、吉宗の孫でありながら謀略で将軍になれなかった松平定信の「寛政の改革」により、その存在感は薄い。

※定信政権は、端的に言うと、

天明の飢饉とその後の打ちこわしにより生まれた政権」。

徹底した倹約と管理。庶民には人気がなかった。
田沼の経済政策を全否定して吉宗時代への懐古主義。

【定信の政策】

1)尊号事件…光格天皇が実父(この人は天皇ではない)に太政天皇の尊号を送ろうとしたら松平定信に拒否された。

2)囲い米の制…米を備蓄させた。各地に義倉、社倉。

3)人足寄場設置…浮浪者や犯罪者などに仕事を覚えさせる場を作った

4)寛政異学の禁…柴野栗山の建議に基づき、聖堂学問所(のちの昌平坂学問所)では朱子学以外の学問を禁止。吉宗時代に流行した古学(荻生徂徠、山鹿素行など)、陽明学はダメージ。
→【
父が子に語る近現代史(小島毅)読書メモ編

5)オランダとの貿易制限

6)旧里帰農令…江戸から農村へ返す

7)七分積金の制…金を備蓄させた。節約分の7割を積み立てる。

8)棄捐令…旗本御家人の借金踏み倒し(1789)

9)倹約令…大奥の経費を2/3に

10)学問吟味…身分にとらわれず有能な人材を採用した試験制度

ただ、公金貸付も多く、各地で名代官出現したことも覚えておきたい。(上杉鷹山もこの時代なのだ。)

②異国船問題については下記別項に。
※コチラ『江戸幕府と国防』も是非一読を。

③松平定信失脚後も、寛政の遺老・松平信明らにより路線は引き継がれていたが、彼の死後(1817)、水野忠成(1818)が登用されると、家斉はタガが外れたように、放漫路線に。

大奥の浪費は激しくなったが、文政小判を出してバブルに浮かれる。もっとも、この時代にマニュファクチュアが育っていたのに生かし切れなかった。【コチラ

④晩年は水野忠邦が台頭。「江戸時代三大改革」として有名だが、評判はすこぶる悪い。初代三方領地替えの件、賄賂による成り上がり、そして数々の愚策。家斉の放漫に対する反対路線、と考えても良いが、松平定信の寛政の改革と混同しやすいところで試験で狙われやすいので、分けて考えよう。(もっとも多くの政策は家斉死後)

1)人返しの法…江戸に流入していた没落農民を強制的に農村へ返す

2)上知令… 50万石を直轄地にしようとしたが反対で実施できず。

3)天保の出版統制… 錦絵は禁止。為永春水(人情本作家)、柳亭種彦(合巻作家)処分。

4)あらゆる階層に倹約令…寄席が211軒から15軒に。歌舞伎三座も場末に移転。(自分は賄賂まみれなのに。)

5)株仲間の解散… 物価高騰抑制を目的に発布されたが、そもそも物価動揺の原因は悪貨と、大坂に届く前に他地域で売買されていたこと。

6)日光社参強制…1840年、三方領地替え失敗後、再び権威を見せるために67年ぶりの日光社参を強行。

出版統制についてもう少し

天保の改革で水野忠邦は風俗の取り締まりを厳しくした。出版統制として柳亭種彦、為永春水が処罰。それぞれジャンルが違うので注意。

①合巻…柳亭種彦(りゅうていたねひこ)「ニセ紫田舎源氏」
②人情本…為永春水(ためながしゅんすい)「春色梅暦」(しゅんしょくうめごよみ)

覚え方(【石黒先生のゴロ本より】)

<ごうりゅうは ひとのため>
合巻:柳亭   人情本:為永

♨これはウマい!
「彦」→「ニセ(にんべんに彦)」、「春水」→「春色」(しゅんすい→しゅんしょく)

♨ニセ紫は徳川家斉のフェイクだったという説。

♨【合巻】…黄表紙などを合わせた
♨【人情本】…江戸時代の文政ごろに始まり明治初期まで続いた小説の一種。江戸市民の恋愛生活を描いた風俗小説。為永春水は手鎖50日の刑にあったが、マジメで小心者の彼にはこたえたらしく、翌年没。

★一方、「寛政の出版統制」は次の2人。(混同しがちなので要注意!)

【寛政の出版統制】
①洒落本…山東京伝「仕懸文庫」
②黄表紙…恋川春町

♨「春町」と「春」の字が使われているが、こちらは「はるまち」と読む。「春色」は「春水」で覚えたい。

♨【黄表紙】江戸の風俗を風刺
♨【洒落本】江戸の遊里の生活を描く

【山東京伝】(1761~1816)

もともと浮世絵を北尾重政にまなぶ。のち黄表紙作家として脚光をあびるが、「仕懸文庫」をはじめとする洒落本が風俗をみだしたとして手鎖(てぐさり)50日の刑をうける。以後、読み本作家に転向。晩年は風俗考証に熱中し「近世奇跡考」をのこした。門弟に滝沢馬琴。

【恋川春町】(1744~1789)

黄表紙作家。「金々先生栄花夢」など。

12代:家慶…飼い殺し将軍

1793 家斉の次男として誕生。2歳の時に長男が病死したため、嫡男として育てられる。
1804 レザノフ長崎に来航
1806 文化露寇(フヴォストフ事件)
薪水給与令
1807 間宮海峡発見。結婚。17歳。
1812 長男・次男生まれるも即日死亡。
(※8人の側室に14男13女をもうけているが、いずれも短命。家定の35歳が最長で、ほか皆13歳未満で死亡している。大奥の白粉化粧に含まれる鉛や水銀が問題ではないだろうかと考えられている。)
1813 ゴロウニン事件
1817 イギリス船浦賀に来航
1821 伊能地図完成
1824 4男誕生。のちの家定。32歳。
1825 異国船打払令
1828 シーボルト事件。水野忠邦、西の丸老中に就任。36歳。
1833 天保の大飢饉
1837 大塩平八郎の乱。生田万の乱。
モリソン号事件
父・家斉、大御所に。将軍就任。45歳
1839 蛮社の獄。水野忠邦、老中首座へ。
1840 三方領地替え。
アヘン戦争
1841 父・家斉死亡。
『天保の改革』はじまる。49歳。
※家慶と水野忠邦は年齢も近く、家斉の贅沢三昧には辟易していたという点で気が合った。しかし、内憂外患は続く…。食事に芽生姜も出ないなど徹底した倹約に皆、嫌気も。)
1842 天保の薪水給与令
1843 人返しの法。上知令。日光社参(※赤字。幕府の寿命を縮める。)。水野忠邦失脚。土井利位、老中首座へ。
1844 水野忠邦、再び老中首座へ。土井利位罷免。
オランダ国王の開国勧告受理
1845 水野忠邦、体調不良で辞職。
1846 米使ビットル浦賀に来航、通商要求。
1853 ペリー来航の半月後、暑気あたりで死亡。61歳

★父・家斉が長期政権であったため、在位年数は16年、うち4年は「大御所時代」と呼ばれる家斉が存命時期であったため、実質的には在位12年程度。

★しかし、注目すべきは、ペリー来航時に将軍であったが、病に伏していたため結果的に1年返事を待ってもらうことになったことか。このあたり、割とペリーも人道的だったのかな、と思ったりもする。

★世界史的にはアヘン戦争など、激動の時期であり、国内的にも大塩平八郎の乱、生田万の乱、蛮社の獄などじわじわと血なまぐさい匂いがしてくる時期でもある。

日露外交についてもう少し

【日露外交①:ラックスマン来航(1792年)まで】…吉宗時代からすでにロシア問題あり。

1739年、ロシア船到着 

ロシア船4艘が日本探検。3艘は仙台湾し79隻の船に取り囲まれ、1艘は房総半島に到着し、100隻の船に取り囲まれた。吉宗政権時代。

♨吉宗時代からあったとは!

1771年、ベニョフスキー寄港 

カムチャッカから脱走してマカオを目指したベニョフスキーが土佐、阿波、奄美大島に寄港。ロシアが日本に侵攻するという書簡も持っており、ロシアによる来航が現実的な問題として意識される。家治政権下。

♨この状況下で田沼意次が就任したわけだ。そりゃロシア対策するだろう。ベニョフスキー・田沼意次はセット。

1779年 

キャプテン・クック死後の乗組員たちがペトロハバロフスクから千島列島に南下して本州東岸を通り、マカオへ向かっている。

1789年 アイヌが蜂起(クナシリ・メナシの蜂起)

アイヌも130人死亡するが、日本人も71人死亡。背後にロシアがいると睨む。幕府のアイヌ政策に変化。

♨松平定信失脚で北方防備教科の計画は実現せず。

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1791年、異国船取り扱い令 

必ず臨検し、拒否すれば攻撃。この時期、ロシアが朝鮮を攻めたという情報が入り、ロシア脅威論が社会問題化。

1792年、ラスクマン根室に来航 

ラスクマンが根室に来航。大黒屋光太夫を伴う。松平定信は祖法について話し、長崎へ向かうよう伝える。この時、貿易許可証である「信牌」も手渡された。

1793年 

長崎奉行から黒田家、鍋島家にロシア船来航時の準備を指示。この頃は長崎より抜け荷問題の九州北西部の方が主であったため、武器は100年前のもので使い物にならなかった。

1796年、イギリス船渡来 

(ブロートンが乗るイギリス船が室蘭に渡来し、津軽海峡を測量。)

♨イギリスも来るのか…。田沼はもういない。

この時期の異国船といえば、明確にロシア。ロシアの歴史として、18世紀にはピョートル大帝(在1682-1724)、エカチェリーナ2世(在1762-96)という2人の偉大な皇帝を輩出したことが必修。1689年には清とネルチンスク条約を結ぶところまで到達していたこと、1792年のラスクマン根室に来航はエカチェリーナ2世の時期という事も必修。

※ピョートル1世

1689年、シベリア進出の結果、清とネルチンスク条約締結。
1696年、南下政策でオスマン帝国と激突。
1697年、コサックを駆使してカムチャッカ探検。日本との通商路を模索。
1700年、北方戦争(→1721年ニスタット和約)

※エカチェリーナ2世

1768年 露土戦争→(1774年 キュチュク=カイナルジャ条約)
1772年 第1回ポーランド分割
1773年 プガチョフの反乱
1780年 アメリカ独立戦争に際し、武装中立同盟
1793年 対仏大同盟、第2回ポーランド分割
(※ずっとイギリスとは争っているが、対仏大同盟では協力。)
(※対馬事件が生じた1861年時点ではクリミア戦争などで当然対立。)

三代将軍家光以降、江戸幕府が鎖国政策をとってから18世紀後半までは、異国からの脅威は日本になかったと思うのは間違い。鎖国時代にも、通商を求める葡国や英国船の来航があった。全国的に沿岸警備体制は維持され、とくに長崎は軍事力を背景とした防衛システムがあった。江戸時代を通じて、異国船問題は幕府レベルの重要な問題でありつづけた。

※国防意識

ポルトガル人(1637年島原の乱)
→唐人(明清交代と1683年台湾平定が機転。1715正徳新令)
→ロシア(1689年にはネルチンスク条約。1792年ラスクマン根室来航)
→イギリス(1840年アヘン戦争→1842無二念打払から薪水給与令へ変更)
→アメリカ(1853ペリー来航)。
幕府はそれなりにはやったが、規模が違いすぎる。国家で対策しなくてはならなくなった。

※江戸時代は鎖国していたという風に歴史の教科書では習う。そのため、「江戸時代は海外とのつながりはほとんどなく、ペリーが来るまでのほほんと『平和ボケ』していた」と考えている人も多いだろう。 しかし、実際には江戸時代は常に異国船の接近に悩まされ、またその対処に追われていた。

当初は、まずキリスト教排除の観点から異国船への扱いが決められ、基本的には対処は各大名にゆだねられた。 しかし、細かな規則が全く定められていなかったため、ポルトガル船来航時に混乱に陥り、きちんとした沿岸警備態勢が取られることとなった。

当初は許可された国のみ相手にする一方、外交問題に発展しないよう、唐人や南蛮人の犯罪について日本人よりも軽い措置が取られていた。 しかし、主に唐人の犯罪が後を絶たなくなるため、こうした行為は「海賊」とみなし、中国本国とは関係のないものとして断固とした処罰をするようになる。 その後、欧米諸国が近海に表れ始めるようになり、これまでの方法では対処しきれなくなってくる。 レザノフは追い返したものの、その後蝦夷地では繰り返しロシアによる襲撃が行われるようになる。 対処すべき場所も、長崎一国から全国へと一気に広がり、各地に台場が作られた。

【日露外交②:~ゴロウニン事件(1811)まで】

<1797年、対馬海峡の危機>

釜山へ異国船。朝鮮には倭館もあるが、朝鮮時代の国防が甘いため、朝鮮もろとも倭館も侵略される恐れがある。宗家はくれぐれも朝鮮と友好を維持することを前提に、20人ほど派遣決定。幕府は何も手を打たないまま終わる。

<対馬沖漂流異国船への宗家と家斉政権の対応>

同年、再び釜山に異国船。イギリス船が漂流したと思われる。何も起こらなかったが、この時、幕府は相当危機感をもって対応。日本海沿岸も強化することになるが、裏を返せば何にでも敏感に反応せざるを得ないような状況であった。

<1798年>近藤重蔵、最上徳内が千島を探索。

その翌年、東蝦夷を直轄地とし1802年に箱館奉行を設けた。

♨近藤重蔵、当時27歳。最上徳内と違って武士の出だったから、彼の方が先に名前書かれているのかなぁ?

<1804年、レザノフの長崎来航>

1804年、レザノフ(1764~1807)が通商を求めて「信牌」をもって長崎を訪れる。

「信牌」を持っていたこと、レザノフの態度が良かったため、それほど警戒はしなかった。

4か月ほど待たせての江戸の回答は「通商拒否」であった。

♨そりゃあかんやろ~。by杉田玄白、司馬江漢。※案の定、フヴォストフ事件に。

<1806年、蝦夷地の紛争と長崎>

1806年 レザノフは部下のフヴォストフらに報復を指示(フヴォストフ事件)。樺太、択捉、礼文沖などで襲撃を受ける。ロシアの強さは際立ち、責任を取った函館奉行は自決。幕府はさらに人員を動員するほか、「ロシア船打払い」を命じる。

この文化年間のロシアとの紛争が近世日本の対外関係の転換点である。この時期、大槻玄沢、杉田玄白、松平定信らは開国についての意見も出していたが、幕府はレザノフへの対応を失政ととられないがために、「ロシア船打払い」という強硬な意見を採用した。

<1807年>松前奉行をおく。

<1808年~09年>間宮林蔵(1775~1844)、樺太探索。

間宮海峡発見。対岸の沿海州にまでわたり、清の役所があるデレンまで足を踏み入れた。

♨この時期によく行ったなぁ!と思う。生きて帰れて何より。

<1808年、御船頭による長崎警備についての献策>

1808年、船頭による献策を受け、長崎で船橋を用いて船を入港させないよう防衛ラインを設ける。また、警備においては町ぐるみで対応することが決定。蝦夷の紛争を深刻に受け止めて、船頭から情報収集にあたっていた。

<長崎奉行の問題意識と幕府の判断>

しかし、幕府は船頭らの献策を採用しなかった。幕府は長崎を他の沿岸と同質の境界とはとらえておらず、従来からの長崎警備は改編されなかった。

<1808年、フェートン号事件>

<有事対応の変化>1808年フェートン号事件。イギリス船フェートン号はオランダ船の拿捕を目的としてオランダの国旗を掲げて長崎に入港。検使に同行したオランダ人2人を拿捕し、長崎奉行には食糧を要求して提供を受けた後、オランダ人を解放して帰った。当番であった鍋島家の兵力は110人程度しかいなかったことからフェートン号の要求を飲むしかなかった長崎奉行松平康英は責任をとり自害。

(そもそもなんでこんな事件が起きたかといえば、ナポレオン戦争の余波でオランダがフランス領になったから。)

<1809年 台場増築>

市民にも有事の際の手筈が定められる。

この時期に来るオランダ船はないとオランダ商館長からは伝えられており、十分に警戒していたのに生じた事件でもある。長崎は天領であるが、周辺大名しか兵力を持たないと言う問題がある。逃げ惑う人もいたが、戦いを覚悟する地役人層もおり、帯刀を許されない地役人層にも帯刀をゆるし、長崎の要所を固めた。平和な時代に住む我々にとって、異国船が来て逃げ惑うなんていうことは現実面で想像がつきにくい。

1809年 英露が攻めてくるという情報を得て、警備強化。

1811年 ゴロウニン事件

南千島列島の測量のため国後島を訪れたロシアのディアナ号艦長ゴロウニンを松前藩の役人がとらえ、2年間監禁。副艦長リコルドは報復として高田屋嘉兵衛ら6人をカムチャッカに連行。2年後、身柄交換で処理。フヴォストフの件は個人的な海賊行為とのことで落着。ロシア問題は解決(?)。蝦夷警備は縮小、松前藩に蝦夷地返還。

★1804年のレザノフにはじまり、1806年のフヴォストフ、1808年のフェートン号事件とすでに危ない兆し。1811年のゴロウニン事件で解決したとは思えない…

  【日露外交③~プチャーチン来日(1853)】

1818年、イギリス船来航

イギリス商船ブラザーズ号が浦賀に来航。無事処理。

1822年、イギリス船来航

イギリス捕鯨船サラセン号が浦賀に来航。無事処理。

1824年 大津浜事件

常陸大津浜に二艘の船に乗ったイギリス人12人が上陸。捕らえる。

1824年、宝島事件。

薩摩宝島にイギリス船が来航し、牛を奪い、島民には発砲。応戦して追い払う。1人は射殺。

1825年、「異国船無二念打払令」を出す

大津浜の事件が解決しない時期から林大学頭述斎、天文方高橋景保、勘定奉行遠山景晋、目付大草高好らが意見書や上申書を提出。最終的に遠山の意見が採用。遠山景晋、筒井政憲といった長崎奉行経験者はそろって外国船は海賊同様の振る舞いをするという認識している点は注目。西洋諸国と戦争に至るという認識は想定していなかったであろう。

1837年、モリソン号事件

アメリカ船モリソン号が日本人漂流民を乗せて浦賀に来航。砲撃で応対。渡辺崋山(1793~1841)もビックリ。渡辺崋山は「慎機論」を、高野長英は「戊戌夢物語」を執筆。

有名な「蛮社の獄」は伊豆韮山代官・江川太郎左衛門(1801~1855)と林述斎の息子、洋学に反感を持つ目付の鳥居耀蔵(1796~1873)の確執によるものである。

江川太郎左衛門は渡辺崋山に師事していたのだ。最初は無人島(小笠原諸島)への渡海を企てたとデッチあげて逮捕、証拠は出なかったが押収した書物から幕政批判ととらえられる部分をみつけて処罰。

1840年 アヘン戦争勃発。

時の老中は水野忠邦。

1842年、異国船無二念打払令撤回、薪水給与令に

アヘン戦争後、日本にも通商を要求し、拒んだ場合は戦争をしかけるという情報。これにより、異国船無二念打払令が撤回され、「薪水給与令」が出された

1843年 新潟を上知して新潟奉行を新設。

1845年 オランダ国王からは開国勧告を受け、海防掛を新設。

イギリスから測量船が長崎に。

1846年 ビッドル来航

アメリカ東インド艦隊司令ビッドルが浦賀(江戸湾)に来航。(とりあえず帰ることになるが、帰り際に間違えて斬られそうになるという大事件)

1847年 フランス船が長崎に。

1848年 日本海に異国船が頻繁にみられる。

1849年 長崎にアメリカ軍艦プレブル号が来航、浦賀・下田にイギリス軍艦マリナー号が来航。注目すべきはこの時期、阿部正弘が打払い令の復活を考えたが、ことごとく反対されたことである。この時期、すでに外国の脅威は現実的であった。

幕府もそれなりに頑張ってはいたんだが、やはりアヘン戦争の衝撃が大きすぎた。無二念打払い(1825)→薪水給与令(1842)。
長崎警備を担っていた佐賀藩などは軍制改革を行って軍事力を高めていった。長崎警備に際して、担当する藩の財政は悪化。

1853年 ペリー来航。遅れること1ヶ月、プチャーチン、長崎来航。

その後、プチャーチンは函館、大坂にも来航。

♨米露はつながっている!と考えたものも多かったが、単にプチャーチンが遅れをとっただけ。

♨プチャーチンは日本人に好かれる。ロシアと組んで米英と戦うという意見もあったようだが、却下されてしまった。

1854年 日米和親条約。

幕府は下田、函館を開港。その後、イギリス東インド艦隊司令官スターリングが長崎を訪れて日英約定4カ条調印。

下田、函館とともに、長崎もイギリスに対して開港されることになった。ロシア、フランスにもこれが適用。

1855年、日露和親条約

1857年、日露修好通商条約

1858年 日米修好通商条約

これによって長崎にも居留地が設けられ貿易規模が拡大。異国船の来航は増加したが、大名家の負担はなくなる。それは同時に防衛をしない、ということを意味していた。

ペリー来航後、海防に力を入れ、開国後は軍事力の近代化に取り組んだ。ペリー以前は日本海、太平洋沿岸に各大名が台場を築いていたが、以後は江戸湾内、大坂湾内、志摩半島、瀬戸内海なども重視され、結局全国で400の台場が新築された。日本の沿岸警備を各大名が局所的に考える時代は終わった。

<日米修好通商条約によって開港された5都市>

函館、横浜、長崎、新潟、神戸

♨横浜、神戸、長崎はなんとなくわかるとして、函館と新潟が出にくいか?

江戸・大坂は「開市」なので間違えないように

※岩瀬忠震は横浜の開港を主張し、大坂の開港に反対した。大坂が開港すると経済の中心が完全に大坂に移り、江戸の経済的地位が低下するというのが理由であった。

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江戸時代で打線を組んだ