~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~
明治維新の芽が出たのもこの時期

薩摩藩は幕府への憎悪を抱く。(1753年、宝暦治水事件
尊王・倒幕思想が出現。(1758年、宝暦事件。1767年、明和事件。
異国船問題は出現。(1771年、はんべんごろう事件etc

この時代のスーパースターは田沼意次。近年、もっとも評価が上がった。

9代:家重…Mr.ロンリーナイト将軍

1711 吉宗の長男として誕生。
1715 異母弟、小次郎(のちの田安宗武)出生。

和漢の道に精通、国学・歌道の発展に貢献するほどの人物。
1716 父・吉宗将軍就任。
1721 異母弟・小五郎出生。
1724 大岡忠光(16歳)小姓として出仕。「家重の言葉を唯一理解できる人物」として重宝される。彼が築いた地盤が後輩の田沼意次に引き継がれる。
1729 異母弟・小次郎、田安家をたて徳川宗武となる。
1734 田沼意次(16歳)、小姓として出仕。
1735 異母弟・小五郎、一橋家をたて徳川宗尹となる。
1737 長男・竹千代(のちの家治)誕生。

吉宗による英才教育が始まる。
1745 次男・万次郎誕生。

宗家相続。将軍就任。35歳。
(※ただし政治より将棋が好き…。将棋はガチで強かった。)
1751 父・吉宗死亡。
1753 宝暦治水事件

薩摩藩に木曽・長良・揖斐川の分流工事を命じる。
→【wikipediaへはコチラから

多大な出費の上に、たびたび堤防は破壊(徳川の陰謀?)。憤りを感じた薩摩藩士たちの切腹が相次ぐ。家老の平田靱負も完成後に切腹。しかし、あまり治水はできていなかったともされ、結局、明治時代に外国人を雇って工事し直した。
1754 久留米で一揆。

郡上騒動開始。
(※年貢の増収を画策して農民と対立した領主金森頼錦を改易処分。重農主義から重商主義へ。)
1758 宝暦事件

神道家で尊王を唱える竹内式部による。
朝廷内の幕府批判がこの時期から始まっていることは注目に値する
1759 次男・万次郎、清水家をたて徳川重好となる。

(※田安家、一橋家、清水家御三卿と呼ばれる。11代将軍家斉、15代将軍慶喜は一橋家(養子)出身、松平定信は田安宗武の7男。)
1760 隠居。大御所へ。50歳。
1761 尿毒症で死亡。51歳

「小便公方」とも呼ばれていたが、何らかの疾患を抱えていた?

★【宝暦治水事件(1753)】で幕府に強い恨みをもった薩摩藩士もいただろう。ちなみに徳川家康は江戸幕府が倒されるとすれば、その相手は長州か薩摩と予見して警戒していた。

★【宝暦事件】と言えば竹内式部。竹内式部(1712-67)は山崎闇斎の垂加神道(1671~)の流れをくむ。1758年、公家たちに尊王論を説いて、幕府から危険視され追放された。

※垂加神道…朱子学+神道で一大ムーブメントをおこす。山崎闇斎は保科正之とも交流。

★家重の弟たちが「田安家」と「一橋家」を創設し、家重の次男が「清水家」を創設した。彼らは「御三卿」と呼ばれる。

10代:家治…エリート将軍

1737 家重の息子として誕生。
幼名「竹千代」。(「竹千代」=「のちの将軍」)
1748 母死亡。
1751 祖父・吉宗死亡。
1754 五十宮倫子と結婚。

(※仲が良かった。側室は田沼の進言でようやくとった。結果、側室が家基を産む。)
1758 宝暦事件

※幕府は統治に朱子学を利用したが、朱子学と尊王が結びつくことで「幕府」=「悪」と考えたのが竹内式部。
1760 父・家重隠居。10代将軍就任24歳
1761 父・家重死亡。
1762 長男・竹千代(のちの家基)誕生。
1764 俵物生産奨励
1767 田沼⇒側用人就任、遠州相良城主就任。

明和事件
(※王政復古を主張した山県大弐と藤井右門は死罪)
1771 御蔭参り大流行。五十宮倫子死亡。

はんべんごろう事件
(ロシアからの脱走船乗組員からロシアが日本を侵略する計画があることを知らされる。)
1772 田沼、老中就任
大規模に株仲間許可、税金徴収南鐐二朱銀鋳造
1773 次女・万寿姫死亡(12歳)。長女、次男は夭折。残るは家基のみ。
1774 田安定信養子縁組騒動
(※田沼と一橋治斉が画策して田安定信を白河藩に養子に出して世子から遠ざけた事件。これにより田沼と家治の間に亀裂。)
1776 日光社参。
(※田沼が政治を主導していて家治の「出番」は少なかったため、家治の出番を用意された)
1778 ロシア船、蝦夷厚岸に来航。松前藩に通商要求
(※鎖国を理由に拒否。)
1779 長男・家基急死(きわめて英邁であった。暗殺説も)。老中松平武元死亡。桜島噴火。
1781 一橋家長男家斉を養子に迎え将軍世子に
1782 印旛沼、手賀沼の干拓に着手。
天明の大飢饉。(~1787)
(※江戸の三大飢饉、享保、天保の中でも最大。全国で100万人以上の死者が推計。)
1783 天候不順。浅間山大噴火
1784 田沼意次長男・意知、江戸城中で斬り付けられ死亡
1785 最上徳内らに蝦夷地調査を命じる
1786 江戸大火。関東大洪水。死亡田沼失脚松平定信台頭。50歳。

【田沼時代の功績】
★予算制度の確立
★税制改革(年貢米徴収からの増益を期待せず、流通税を導入することで歳入増をはかった)
★通貨政策(西日本では銀、東日本では金が流通していたが、南鐐二朱銀に統一。)
★新田開発
★鎖国体制の弛緩(積極的貿易、蝦夷地開発)。
★町人文化が成熟
★蘭学も発達(杉田玄白、平賀源内も同時期)。
江戸史上、異彩を放つ開明的な気風にあふれていた。

★「エリート将軍」家治は、その能力を発揮する機会は乏しかった。本人もそれを自覚していたが、それほど官僚機構が整備されていた。そして、「田沼意次」が優秀過ぎた。

★子供たちは早逝。長男・家基の急死は暗殺説が強い。11代将軍徳川家斉の父は容疑者。【コチラも。

★「明和事件」と「天明の大飢饉」がおきる。

明和事件は「柳子新論」を著して、江戸で尊王論を説き、幕政の腐敗を攻撃した山県大弐が死罪となった事件。連坐して「宝暦事件」の竹内式部も流罪となった。

「天明の大飢饉」は江戸幕府史上最大級の飢饉で、これをうまく切り抜けたことで松平定信が台頭する。もし田沼路線が続いていたら…。→【やはりコチラ

<この時代の尊王論者>

高山彦九郎(1747~1793)

全国をまわるも悲憤して自殺

蒲生君平(1768~1813)

天皇陵の荒廃を嘆く。「前方後円墳」の名づけ親。

頼山陽(1780~1832)

武家の興亡の歴史を記して君臣の名分を説く「日本外史」を発表。水戸光圀の150年後の人。楠木正成を大絶賛。

「この人の歴史小説のおかげで日本は間違った方向へ進んだ。」
小島毅

<田沼意次についてもう少し>

【田沼意次】1720~1788。

明治維新の100年前に維新を行おうとした英傑。
諸大名を潰そうとして1786年失脚。

①貨幣経済への対応(株仲間公認、専売制実施、南鐐二朱銀)

★各地で発展しつつあった特産物をはじめとする商品生産や流通、それが生み出す富に着目し、幕府財源にとりこもうとした。

株仲間公認、運上・冥加をかける

(※楽市楽座の系譜をひく。家康時代から株仲間は認められなかったが、吉宗の代から転換した。田沼の代で株仲間は意識的に増やされた株仲間の冥加金は対して高くなかった。年貢よりずっと安い)

<運上・冥加>…冥加はあくまでも謝礼としての体裁。 一方,運上は現在における税金と同じで予め税率が決められており,領主(幕府や藩)が命令して強制的に納めさせていたもの。

★銅座、真鍮座、人参座、朱座などの座を設けて専売制実施する。

…一言で言うなら、「町人資本」と組んで、幕府を会社にしようと。まず製造させて、軌道に乗ると幕府お抱えにするという方針

平賀源内のスポンサーは田沼であった可能性は高い?

徳川幕府があっけなく倒れたのは田沼意次の革命路線が受け継がれなかったからでは?

★貨幣経済に対応するため、金銀銭を金に一本化。銀貨である南鐐二朱銀(1772)を大量鋳造(まあ、言うなれば金貨のように使える銀貨)。金銀の輸入もはかる。長崎貿易振興にも乗り出す、など。

田沼がやろうとした経済政策は、①大名領の百姓に課税すること②町人にも課税すること

これを行うと徳川幕藩体制はふっとぶ。封建の世はその時点で終わりになり、将軍を国王とした絶対王政の時代が誕生する

つまり、実際の明治維新の100年ほど前に「幕府の手による維新」をやろうとしていた

②開拓

★大商人の資金を積極活用。

下総印旛沼・手賀沼の干拓は江戸・大坂の大商人に呼びかけて出資させた。ただし、1786年、洪水により失敗に終わる。

③ロシア問題

★蝦夷開拓とロシアとの交易も視野に。

…最上徳内(何回も北海道探検)、間宮林蔵(間宮海峡発見)、近藤重蔵(択捉島に標識)などはこの延長線上にあった。

しかし、

ロシアは経済大国とは言えず、「何もなかった」

のが見込み違い。

※田沼時代はエカテリーナ2世が帝位に就いた頃。

田沼のやったことは薩長土肥の殖産興業より70年も先行していた。田沼の路線を継いでいれば1867年に倒れたのは幕府ではなく薩長土肥であった可能性がある。

【工藤平助】(1734~1800)

1783年「赤蝦夷風説考」でロシアとの交易と蝦夷地開発を説き、田沼の目に留まる。しかし、田沼は調査の結果、ロシア貿易をはじめると長崎貿易に悪影響を与え、結局は利益にならないということでロシアとは交易しないと判断。(♨ロシアという国の本質を見抜いていた?)

※ロシア帝国の東方拡大は17世紀中頃から加速し、かなり早い段階でシベリア・満洲近辺まで到達していたが、清との間に結ばれたネルチンスク条約により、いったん勢いが止められた

ロシアは矛先を変えて北方に進出し、東シベリアをさらに進んで、17世紀中にはカムチャツカ半島の領有を宣言。現地に居住するアイヌ民族などとの間で交易やトラブルを起こしつつあった。

ロシアは日本との接触に備え、ピョートル大帝が宝永2年(1705年)、首都サンクトペテルブルクに日本からの漂流民を招いて日本語学校を設立

1739年にはヴィトゥス・ベーリング探検隊の分遣船団が仙台湾や房総半島沖に接近した(元文の黒船)。

宝暦3年(1753年)には日本語学校の日本人教授を大幅に増やしてイルクーツクに移転し、来るべき日本との交渉に備えていた

エカテリーナ2世の治世には、ついにロシア船は択捉島・国後島、さらに厚岸にまで到達する。

ロシア人たちは、アイヌに対して毛皮などに重税を課した。すでに日本の活発な経済活動に苦慮していたアイヌは、一部がこの新たな負担に耐え切れずに南下し、松前藩などに逃げ込み、ロシア人の活動状況を報告した。

一方、日本側ではアイヌとの交易権を独占していた松前藩が、既得権益確保のため、蝦夷地以北へ日本人が渡航することを様々な手段で阻害していたため、蝦夷地に関する調査・研究が遅れていた

このような状況の下、仙台藩の藩医であった工藤平助は、オランダ語通詞吉雄耕牛・蘭学者前野良沢らと親交を持ち、北方海防の重要性を世に問うべく、本書を上梓した。

【最上徳内】(1755~1836)

江戸時代末期の蝦夷地探検家。農民の出身であったが数理に明るかった。本多利明の塾で測量学、地理学などを学ぶ。

1786年、国後、択捉島の調査へ。1792 年には樺太調査も。蝦夷には結局、7回も調査に!

近藤重蔵と共に択捉島に標識たてる。「場所請負制」の松前藩からは危険視された。

<辞任について>

1784年、息子の息知、旗本の佐野政言により暗殺。これは引き金の1つ。

【革命家意次は諸大名を潰そうとして失脚】

意次失脚は1786年。

「全国御用金令」とその金を原資とする「貸金会所」の設立抗争は大反発。全国の人々に御用金を出させ、大名へ土地を担保に貸し付けるというもので、これは大名の封建的権利を侵害するものでもあった。反対派の先頭に立ったのが一橋治済、松平定信・・・。

<徳川家治暗殺事件?>

田沼意次は息子と甥に権力を引き継がせる用意をしていたが、引き継ごうとしたのは権力だけではなく、志も継がせるためであろう。

息子は1784年、35歳で佐野政言により暗殺。家系図うんぬんの話はあるが、政治的な暗殺であろう。

家治は田沼に殺されたという噂があるが、これは田沼による「押しこめ」(家臣が主家のためにダメな主君を監禁すること。)だったのでは?

意次にとって恩人は家治ではなく家重。全国御用金令が家治の理解が得られず…か??→【うーん、どうだろう??今後の調査による展開に期待したい。

ちなみに、遺書には農民を大切にするように、とか、増税はするな、とか民衆思い。