~只今、全面改訂中~

☞【1637年、天草・島原の乱、勃発!】『バテレンの世紀』(渡辺京二、2017年、新潮社)

こんにちは。

今回ご紹介しますのは『バテレンの世紀』24章~26章。

秀忠は逝去し、家光親政時代です。

この時代は何と言っても「天草・島原の乱」と「鎖国体制の完成」。

まずは年表から。

秀忠死去以降

1632秀忠死去。
1633管区長代理フェレイラ、棄教(※中浦ジュリアンは殉教)

最初の鎖国令が出される。
1635日本人の海外渡航と在外日本人の帰国を禁止
1636混血児287人をマカオに追放する。
1637島原の乱(~1638)
1638クーバッケル、牧野信成宅訪問

宗門改め強化
1639カロン、江戸参府

ポルトガル船長崎来航禁止

オランダ、中国、朝鮮以外の国に対する鎖国完成

※家光、奢侈禁止令。これに伴い物価下落。
1640平戸オランダ商館倉庫破壊命令
1641オランダ商館、長崎出島に移転
1642長崎防備、福岡藩と佐賀藩の交代制に

島原・天草蜂起す@島原編

1637年、島原半島の松倉領で捕らえられた百姓への抗議に多くのキリシタンが集まりました。

彼らは騒ぎを聞いてかけつけた役人を殺害します。

ただ、戦勝者側の史料しかなく、量も乏しいため、いまだに謎も多い。

そしてキリシタンたちは、

異教徒皆殺し

を叫びます。

困ったのは住民。

困った安徳村の住人たちは島原城に立て篭もりました。

(困ったことがあると住民も城内に逃げ込むのが中世の城の特徴)

ただ、城内は城内で大変。

騒ぎの最中に「キリシタン」への立ち返りをしたもの、

「キリシタン」に脅迫されて「キリシタン」を宣言することになったもの多数。

誰が本当のキリシタンで誰が本当はキリシタンでないのかわからない状態となってしまいました。

いずれにしても反乱者の数は膨れ上がります。

1634年以降の凶作が原因で、

「取立てが厳しかったから乱が生じた」と理解してしまうと、

じゃあ、なんでキリシタンが大勢集まったのか?という問題に答えられなくなると思います。

島原・天草蜂起す@天草編

島原に呼応するかのように天草でも蜂起が起こりました。

天草キリシタンたちは富岡城を攻撃しましたが、中世の城は2,3日で落ちるような構造になっていません。

そこで、彼らは島原に渡り廃城となっていた「原城」に篭城しました。

しかし思うんじゃがな、この反乱のリーダーは誰なんじゃ。

たかが村民がここまで統率とれるとは思わんぞ。

これは、きっと幕府に不満を持つ侍が首謀者でいるのではないか?

そこが知りたいところですよね。

 

天草四郎は16歳ですし、ただ祭り上げられただけじゃないのかという説もありますね。

島原藩家老は6000の軍勢を前にすぐに救援要請を送りました。

しかし、武家諸法度の取り決めにより幕府の指示がなければ近隣の藩は出兵できませんでした

それでも近隣の藩は国境に兵を集めるなど、できる限りのことはしました。

一方、幕府は地方の一反乱に過ぎない程度の認識で出足が遅れました。

10月28日に熊本藩三家老の進言があり、幕閣が知ったのが翌月9日、そこでようやく参勤交代で江戸に来ていた島原藩主松倉勝家に帰国、鎮圧の指示が出たくらいです。

ちなみに、天草での一揆は、まだ知られていません。

家光公はむしろ九州各藩が武家諸法度を遵守したことに満足していた。

原城の攻防

籠城の人数は37000人と言われていましたが、最新研究の結果、2万数千人が実数とされています。

(「近世長崎貿易史の研究」)

そして廃城となっていましたが、廃墟になっていたわけではなく、かなり遺構がありました。

また、一方は海に面し、三方は沼や谷になっていて厄介な要害でもありました。

戦況は長引きます。そこで幕府は松平信綱を総大将として派兵することを決定しました。

(松平信綱が到着する前に、板倉重昌は武功を焦り、戦死。家格が低かったため彼の命令は聞かれず、自分が先頭に立たねばなりませんでした。)

信綱は到着するや、兵糧戦を決定しました。

一大土木工事を行い原城を包囲、矢文を飛ばして相手の結束を乱そうとします。

また、オランダに依頼して砲撃も加えました。

原城は要害の地で大砲の効果も薄いと見られましたが、心理的な効果はあったでしょうか。

内通者の情報などから相手の食糧が尽きつつあることを知ってはいましたが、最後は武威を示そうとしたのか、総攻撃により落城となりました。

ちなみに、幕府方の戦死者が1130人、負傷者は6960人。

これは、一揆衆の敢闘を十分に示していると思います。

降伏するものもいなかったそうです。

後日、藩主の松倉勝家は、島原の乱を引き起こしたとして斬首となりました。

唐津藩主寺沢堅高は天草四万石を削られたが、憤を発して自害。

最後の総攻撃で抜け駆けした鍋島と長崎奉行榊原も閉門。

四郎の家族も処刑となりました。

農民反乱か宗教戦争か

オランダは幕命に従って参戦しましたが、キリシタンを攻撃したことを知られると困るため、他の欧州諸国には「宗教戦争」ではなく「農民戦争」であることを再三アピールしました。

キリシタンを攻撃したってなると、いらぬ敵が増えるので、これは「農民戦争」ってことにして欲しい。

ただ、もし「農民戦争」であったとしたら彼らの掲げる目標は「年貢半減」などではないでしょうか。

しかし、キリシタンの中で年貢半減を掲げたものはいませんでした。

(「苛政」が原因と表記されている書物は、オランダが伝えた歴史をそのまま書いていると考えるべき。)

とはいえ、英国のワット・タイラーの一揆、

(「アダムが耕し、イヴがつないだとき、郷紳はどこにいたか」というジョン・ボールの説教で有名)

などを考えますと、農民一揆も宗門一揆も表裏一体であり、分ける必要などないのでしょう。