こんにちは。
今回ご紹介しますのは『バテレンの世紀』第22章、23章。
「オランダとの関係」と「家康死後~秀忠死去までの略年表」です。
オランダはひたすら江戸幕府に従っていたようなイメージがあるかも知れませんが、それは一面に過ぎません。
オランダとの対決によって台湾をオランダの代わりに統治する可能性もありましたが、幕府は海外での紛争には不介入を貫きました。
海外で武力を用いなくてはいけない状況を極力避けたのです。
海賊から商人へ
発端は、幕府が外国船に対して、武器輸出と、日本人を海外へ送り出すことを禁止したことに始まります。
オランダは平戸商館を「軍事拠点」として活用し、ポルトガル船、スペイン船、ひいてはイギリス船とも戦っておりました。
それが禁止されてしまうとなると、新たな拠点を探さなければなりません。
まず最初にポルトガル領マカオを攻撃しました。
しかし、この時はポルトガルの勝利に終わります。
続いて、澎湖島を狙います。
しかし、今度は明からのクレームがあり、諦めました。
そうして選ばれたのが台湾です。
台湾を征服し、ゼーランディア城を築きました。
(地元では『安平古堡』と呼ばれます。)
台湾を征服したことで、オランダは、対岸の中国との取引が増えます。
そして、「海賊」から「商人」へと脱皮します。
長崎奉行:末次平蔵
しかし、台湾の利権をめぐって日蘭が争う事件がありました。
朱印船貿易家、長崎奉行の末次平蔵とのトラブルです。
1546年生まれ。
朱印船貿易に従事していた。
1616年に姻戚にあたる長崎代官・村山等安を訴える。
(※イエズス会系とスペイン系の代理戦争でもある。)
1618年、に長崎代官に就任。
キリシタンでもあったが、禁教令時代は弾圧に協力した。
タイオワン事件を起こし、日本ーオランダ間の貿易は一時期途絶える。
台湾占領を主張していたが、1630年、死去。
これにより貿易は再開となるが、末次の背後には幕閣が数名いて利害を共有していたことなどから、口減らしに暗殺された可能性が唱えられている、
タイオワン事件の顛末
【年】・・・1628年。
【場所】・・・台湾。
【人物】
(日本側)・・・長崎代官、朱印船貿易家:末次平蔵、末次船乗組員:浜田弥兵衛ら。
(オランダ側)台湾行政長官:ノイツら。
【原因】・・・日本の朱印船貿易をノイツが妨害したことによる
【経過】・・・日本人乗組員がノイツにより捕縛されるが、浜田弥兵衛が乗り込み、逆にノイツを人質にとる(マンガみたい・・・)。その後、双方、長崎へ向かい幕府の決定を仰ぐが、幕府は秀忠の病などでそれどころではなかった。末次は台湾占領を訴え、日蘭貿易も途絶えた。しかし、強硬派であった末次の死(1630年)で風向きが変わり、日蘭は和解に向かい、貿易再開となる。オランダはノイツの非を認め、ノイツを日本に送った。ノイツは1932年から1936年まで比較的自由な「軟禁」状態を過ごす。
【その後の台湾】・・・1662年までオランダが支配するが、鄭成功に駆逐される。
タイオワン事件(1628年)はなかなかマンガのような展開でした。
幕府は秀忠の病気などで、最終決裁が遅れましたが、海外の紛争に巻き込まれることを忌避した姿勢が見えました。
末次平蔵は台湾占領を主張していましたが、彼が死去(暗殺説もあり)したことで、オランダと一戦交えて台湾を領有するという計画は消滅しました。
家康死亡~秀忠死亡まで
1616 | 秀忠、改めてキリシタン禁制を諸大名に通達 末次平蔵が長崎代官村山等安を江戸で告発 ※家康没 ※貿易制限令(平戸、長崎に限定。京阪は禁止。) |
1618 | 末次平蔵、長崎代官就任 ※日本とスペインの関係は断絶 |
1619 | 京都大殉教 ※英蘭が防御同盟を結ぶ。 |
1620 | 支倉常長、帰国。 平山常陳事件 |
1622 | 元和の大殉教(宣教師ら長崎西坂で処刑) ※オランダ艦隊、マカオ攻略を試みるが失敗。澎湖島を占拠に切り替えるが、中国当局の抗議を受けて、1624年、台湾へ。 ※英蘭防御同盟解体。 |
1623 | 江戸大殉教 イギリス平戸商館閉鎖 ※家光将軍に。 アンボイナ事件。 |
1624 | スペイン船来航禁止 日本に密航したソテロ処刑 オランダ、タイオワンに商館開設 ※カルヴァーリョ処刑 |
1625 | 松倉重政、取り締まりの手ぬるさを家光に叱責される。 |
1628 | タイオワン事件 (末次平蔵および浜田弥兵衛と台湾行政長官ノイツの争い) |
1629 | 竹中重義、長崎奉行に。 (最も残酷な迫害者と言われる。) |
1630 | 山田長政、シャムで毒殺。 末次平蔵、幽閉、斬殺。(口減らし?) |
1632 | タイオワン商館長ノイツ、日本に送致 (1632年~1636年まで抑留) ※秀忠死去。家光の親政が始まる。 |