こんにちは。
今回ご紹介しますのは、徳川将軍家康、秀忠、家光の3代です。
江戸幕府成立当初は、今がまだ戦国の最中なのかどうかわからなかったことでしょう。
江戸時代の学習法に当たっては、まず将軍を覚えてしまうのが手っ取り早く、将軍を覚えるのに最良とも言える、堀口茉純先生の『TOKUGAWA15』(2011年、草思社)を参考にさせて頂きました。
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初代:家康…トラウマ将軍
1542 | 12月26日、家康生まれる。 |
1544 | 父母離婚 |
1547 | 今川家の人質となって駿河へ向かう途中、奪われ織田信秀に売られる |
1549 | 父・松平広忠暗殺(父も祖父も味方の家臣に殺されている)。 今川家の人質として駿府へ。 |
1557 | 今川義元の姪、築山殿と結婚。 |
1559 | 長男・信康生まれる |
1560 | 桶狭間の戦い。岡崎城へ帰る。19歳。 (6歳から19歳までを人質として過ごす。このことが人格形成に影響。) |
1561 | 三河平定に着手 |
1562 | 織田信長と同盟(清州同盟) |
1566 | 三河守任命される(祖父以来の悲願、三河平定)。 徳川姓を名乗る。 |
1568 | 旧今川領へ進出。遠江攻略に着手。 翌年、武田信玄が駿府攻略。 |
1572 | 三方ヶ原の戦いで武田信玄に敗北。 ただし、信玄、翌年病死。 |
1575 | 長篠・設楽原の合戦で武田勝頼を破る |
1579 | 三男、秀忠生まれる。 築山殿殺害、信康自害 (信康の妻は信長の娘であったが、あまりうまくいっていなかった。信康にも問題あったにせよ、信長に忖度した。) |
1582 | 信長と連合し、甲斐に侵入。武田勝頼自害。駿河獲得。 (※信長と異なり領地内に逃げてきた1000人近い侍は保護。この時の恩義を感じた武田の遺臣は大坂の陣で徳川のために大いに働き、のちには八王子千人同心の中心的存在となり、幕末まで忠誠を尽くした。) 本能寺の変で信長自害、家康は甲斐・信濃を平定。秀吉による太閤検地実施。41歳。 (♨このどさくさでの甲斐信濃平定は大きいと思う。) |
1584 | 小牧長久手の戦い。 信雄を立てて豊臣と激突。 膠着状態に(人知れずオデキから感染を起こし、死にかける)。 秀吉、妹、母を人質にするという手段で和睦。 ♨オデキで死にかけていたなんて、知らなかった… |
1590 | 小田原の役。秀吉、全国統一。 関東転封。49歳。 ♨関東に「飛ばされた」的なイメージもあるが、北条家が育てた関東は中々の都市であったという説も。 |
1592 | 文禄の役。 |
1597 | 慶長の役。 |
1598 | 秀吉死亡。秀頼を託される。 |
1600 | 関ヶ原の戦いに勝利。59歳。 ♨この時点で59歳だったのか! |
1603 | 征夷大将軍になり、江戸に幕府を開く。 |
1605 | 将軍職を秀忠に譲る。 還暦過ぎてからのちの御三家、九男、十男、十一男を授かる。 |
1606 | 諸大名による江戸城大増築 |
1614 | 方広寺事件(豊臣家、50億円近い遺産を殆ど使う。)、大坂冬の陣 |
1615 | 大坂夏の陣。豊臣家滅びる。武家諸法度定める。 |
1616 | 駿府で死亡。75歳。 |
★「古狸」的なイメージがあるが、6歳から19歳まで人質として過ごし、父も祖父も家臣に裏切られ殺され、さらに妻も息子も殺さなければならなかった悲しい過去がある。
★「本能寺の変」のどさくさで甲斐信濃を平定したところが彼の真骨頂。甲斐からは金山がとれたり、有能な武士を味方につけることができた。
★関ヶ原の時点で59歳。早死にしていたら徳川幕府はない。還暦過ぎてから御三家を産んだり、大坂の陣に出陣したり、健康長寿の見本である。