~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

江戸時代は260年以上続いたが、江戸幕府成立当初は、今がまだ戦国の最中なのか、それともこれから安定の時代に向かうのかなどわからなかったであろう。まさに、その時期がこの家康・秀忠・家光時代にあたる。

江戸時代の学習法に当たっては、まず将軍を覚えてしまうのが手っ取り早い。文化史もよく出題されるが、それより先に将軍だ。将軍を覚えるのに最良の本は、堀口先生の『TOKUGAWA15』。

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徳川家治とか地味な将軍も、この本のおかげで、どういう時代に生きて、どんな人だったかがよくわかった。

さっそく、年表でまとめた読書メモ。

初代:家康(トラウマ将軍)

1542 12月26日、家康生まれる。
1544 父母離婚
1547 今川家の人質となって駿河へ向かう途中、奪われ織田信秀に売られる
1549 父・松平広忠暗殺(父も祖父も味方の家臣に殺されている)。
今川家の人質として駿府へ。
1557 今川義元の姪、築山殿と結婚。
1559 長男・信康生まれる
1560 桶狭間の戦い。岡崎城へ帰る。19歳
6歳から19歳までを人質として過ごす。)

♨そりゃ、何から人格形成に影響を及ぼさないわけないと思う。
1561 三河平定に着手
1562 織田信長と同盟(清州同盟)
1566 三河守任命される(祖父以来の悲願、三河平定)。
徳川姓を名乗る。
1568 旧今川領へ進出。遠江攻略に着手。
翌年、武田信玄が駿府攻略。
1572 三方ヶ原の戦いで武田信玄に敗北。
ただし、信玄、翌年病死。
1575 長篠・設楽原の合戦で武田勝頼を破る
1579 三男、秀忠生まれる。
築山殿殺害、信康自害
(信康の妻は信長の娘であったが、あまりうまくいっていなかったため、信長より忖度があった。信康にも問題あったとも。)。
1582 信長と連合し、甲斐に侵入。武田勝頼自害。駿河獲得
(※信長と異なり領地内に逃げてきた1000人近い侍は保護。この時の恩義を感じた武田の遺臣は大坂の陣で徳川のために大いに働き、のちには八王子千人同心の中心的存在となり、幕末まで忠誠を尽くした。)

本能寺の変で信長自害、家康は甲斐・信濃を平定。秀吉による太閤検地実施。41歳

(♨このどさくさでの甲斐信濃平定は大きいと思う。)
1584 小牧長久手の戦い
信雄を立てて豊臣と激突。
膠着状態に(人知れずオデキから感染を起こし、死にかける)。
秀吉、妹、母を人質にするという手段で和睦。

♨オデキで死にかけていたなんて、知らなかった…
1590 小田原の役。秀吉、全国統一。
関東転封49歳

♨関東に飛ばされた的なイメージを持っているかもしれないが、北条家が育てた関東はなかなかの都市であったという説も。
1592 文禄の役。
1597 慶長の役。
1598 秀吉死亡。秀頼を託される。
1600 関ヶ原の戦いに勝利。59歳

♨この時点で59歳だったのか!
1603 征夷大将軍になり、江戸に幕府を開く。
1605 将軍職を秀忠に譲る
還暦過ぎてからのちの御三家、九男、十男、十一男を授かる
1606 諸大名による江戸城大増築
1614 方広寺事件(豊臣家、50億円近い遺産を殆ど使う。)、大坂冬の陣
1615 大坂夏の陣。豊臣家滅びる。武家諸法度定める。
1616 駿府で死亡。75歳。

★家康については、「古狸」的な扱いを受けてしまうのが常であるが、6歳から19歳まで人質として過ごし、父も祖父も家臣に裏切られ殺され、さらに妻も息子も殺さなければならなかった、というのは戦国の世のならわしとはいえ、悲しい過去を背負った人物であったことは覚えておきたい。

★そんな家康であるが、「本能寺の変の後のどさくさに紛れて甲斐信濃を平定した」というのが、彼の真骨頂ではないかと思ったりもする。甲斐からは金山がとれたり、有能な武士を味方につけることができたり良いことづくめ。

★さらに注目は、関ヶ原の時点でなんと59歳ということ。当たり前だけど、早死にしていたら徳川幕府はない。還暦過ぎてから御三家を産んだり、大坂の陣を行ったりと、まさに健康長寿の見本であろう。

2代:秀忠…ストレス将軍

1579 誕生。兄、信康切腹。
1580 同母弟、忠吉誕生。
(※活発な性格。のち関ヶ原での戦の傷がもとで死亡。享年28。)
1582 本能寺の変
1583 世子内定。5歳
1584 小牧長久手の戦い。

異母兄・秀康、羽柴秀吉に養子に出される。
(※秀康は築山殿の侍女の子。勇猛であったが家康から遠ざけられていた。)
1590 秀吉に養子に出され元服させ、秀吉は「秀」の字を与えて返す。領地替えに伴い関東へ。織田信雄娘、小姫(6歳)と結婚もすぐ離婚。
(※少年期、暴れ牛が隣の部屋に入ってきても静かに読書を続ける。秀吉には気に入られる。)

♨そんなつながりがあったとは。暴れ牛の話は非常に好きだなぁ。
1592 文禄の役
1595 浅井長政娘、淀君妹のお江(23歳)と再婚。17歳
(※お江、最初の結婚は12歳で尾張の名門、佐治一成とするも政治的な問題のため1年で離婚。20歳で秀吉の甥、秀勝と結婚するも朝鮮で病死し死別。3回目の結婚。)
1597 長女・千姫誕生。
慶長の役。
1600 関ヶ原の戦いに大遅刻
世子の座決定。
(※真田親子が2500の兵で守る上田城を38000の大軍で落とせず。大久保忠隣「乱世にあっては忠吉がふさわしいが、天下をおさめるには秀忠こそふさわしい」と進言。)22歳

♨すげー先見の明だ、大久保忠隣。
1601 長男長丸誕生も翌年死亡。母は侍女。
1602 生瀬の乱
1603 江戸幕府開幕。千姫(7歳)、秀頼(11歳)と結婚。
(※夫婦仲は良かった。大坂城落城の時、命からがら救い出される。)
1604 竹千代(のちの家光)誕生。
1605 2代将軍就任。27歳。
(※駿府に基盤をもつ大御所派、江戸に基盤をもつ秀忠派に分かれる。大御所派…本多正信正純親子ら、秀忠派…大久保忠隣ら。)
1606 国松(のちの忠長)誕生。
1607 弟・忠吉死亡、兄・秀康死亡。
1609 オランダとの貿易開始(平戸に商館)
1610 名古屋城築城(西側への圧力)
1611 4男・幸松丸誕生。のちの保科正之。
1613 慶長遣欧使節団派遣。全国に禁教令。
1614 付家老・大久保忠隣改易。方広寺事件。
大坂冬の陣
(※今度は遅刻しまいと猛ダッシュ。5万の大軍が静岡についた時点で34騎。)。

♨猛ダッシュ、すごすぎる…。ネタとしては最高。
1615 大坂夏の陣。一国一城令。武家諸法度。禁中並公家諸法度。
1616 家康死亡。
(※以降の統治は抜群の政治感覚をもってあたり徳川政権を盤石なものにした。

異母弟・松平忠輝改易。
(※6男・忠輝は長男信康に似ていたとも。家康から遠ざけられる。最終的には92歳まで生きた。)

38歳
1620 5女・和子(14歳)入内。
(※幕府からの財政援助で宮廷文化が花開く。
1622 元和の大殉教。
江戸城大改築。
本多正純改易
(※秀忠暗殺未遂事件とされる「宇都宮つり天井事件」。派閥抗争に終止符。)。
1623 将軍職を次男・家光(20歳)に譲る。45歳。
1629 紫衣事件。後水尾天皇退位。外孫、明正天皇即位。
(※幕府上位の朝幕関係が決定的に)

踏絵開始。51歳

♨秀忠といえば紫衣事件、というくらい。テスト的に有名。
1632 死亡。(54歳)

★秀忠といったら、「関ヶ原で遅刻」というのが、一般的なイメージであろう。しかし、のちの大坂の陣で今度は遅刻しまいと猛ダッシュして、5万の大軍が静岡の時点で34騎になっていた、というのはネタとして覚えておきたい。

★「乱世では忠吉、天下を治めるには秀忠」と言われた性格で、幼少時代は、暴れ牛が部屋に入ってきても読書を止めなかったという逸話がある。秀吉の養子となっていた時期もあったので、秀吉にはよくかわいがられた。そのせいで「秀」という名があることは、豆知識として知っておくと良い?

★日本史で出題されるとしたら「紫衣事件」。娘の入内と含め、朝廷に多大な影響を及ぼしていたことがわかる。抜群の政治感覚で徳川政権をより安定なものにしたことは、もっと評価されてもいいはずだ。

3代:家光…ナイーブ将軍

1604 誕生。幼名竹千代。乳母(※教育係)はお福(春日局…斎藤利光の娘。利光は明智の重臣であったため本能寺の変で連座して秀吉に討たれた。この時、お福4歳)。
1606 弟、国松生まれる
(デキスギ国松。お江にとって乳母の朝倉局は秀忠の側近の妹で当然仲がいい)。
1611 お福、駿府の家康に竹千代の不遇を直訴。8歳。
1612 家康、お江の国松偏愛に訓戒状。
(※長幼の序を重んじるように!と。
1615 自殺未遂。12歳。
(※母子関係はますます悪化していた。お江も家光が自閉症気味で悩んでいたのでは…)

♨そんなことがあったとは。だいぶイメージが違った。
1616 家康死亡。傅役に酒井忠利、内藤清次、青山忠俊。13歳
(※青山忠俊の諫言を嫌い、のちに将軍になってからまずやったことが彼の追放…)
1620 元服。
お福の外孫、堀田正盛、家光の小姓として出仕。17歳。
1622 酒井重澄、小姓として出仕。
1623 3代将軍就任。20歳
1625 鷹司孝子(22歳)と結婚(※終生、別居を貫く)。22歳。
1626 母、お江死亡
1629 紫衣事件。痘瘡を患う(→生死をさまよう)。
1631 父秀忠病臥。弟忠長、甲斐に蟄居
1632 弟忠長、上野高崎に幽閉。紫衣事件で配流された沢庵ら赦免。
家康の17回忌に合わせ日光へ
(※秀忠の喪中にも関わらず、家康優先。生涯10回社参。大改築も。)
1633 鎖国制度開始
酒井重澄改易。
弟忠長、自刃
1634 諸大名の妻子、江戸居住となる。鬱症状はじまる。31歳。
1635 武家諸法度改定参勤交代制度化、大船建造の禁
(※イメージ的にこれらは家光自身のものかと思いきや、当時は鬱症状まっただ中で、家臣が中心となってやっていた。)
1637 長女・千代姫誕生。
島原の乱。 【コチラも
(※家光の出番なく鎮圧。しかし、当時いた武士150万人のうち、100人に1人は死亡したうえ、領民はほとんど死亡、結果、年貢を取れずに国が傾くと言う経験をしたことで、武断政治から仁政政治への転換となった。立ちかえりキリシタンも多数。年貢に苦しんでいた人も多数。12万vs3.7万。)

ちなみに武士の人口比率は1割

♨将軍の出番なくても乱が平定されるほど、既に優秀な家臣団による政治が確立していたことはチェック。
1639 ポルトガル船来航禁止
1641 オランダ人を平戸から出島へ移転する
長男竹千代(のちの家綱)誕生→鬱も安定。38歳。
1642 寛永の大飢饉
1643 田畑永大売買の禁。春日局死亡。40歳
1644 次男・長松誕生(のちの甲府宰相・綱重)
1646 4男・徳松誕生(のちの綱吉)。43歳
1651 死亡(脳卒中)。堀田正盛、阿部重次、内田正信ら殉死者多数。48歳。

★本書を読んで最もイメージが変わったのが家光。家光と言えば、「生まれながらの将軍」、というイメージだったんだけど、よくできる弟のせいで、常にコンプレックスに悩まされていたということがわかった。「長幼の序」って言葉はこんなところでも使われていたんだな、というのもわかった。

★そののちの「参勤交代制度化」であったり、「島原の乱」の平定であったりというのも、家光の活躍かと思いきや、家光は鬱状態で引きこもっていたため、家光の家臣団のおかげであった。将軍が鬱でも、これだけ機能していたということは特筆に値すると思う。(かえって、鬱で引きこもっていて良かったなんてことも??)

★ただ、死亡時に殉死者多数と言うのは、人徳があったのか?と思わせる。もっとも、これを機に「殉死の禁止」が決定し、武士は「上司」に仕えるのではなく、「家」に仕える存在となった。また、死後に起きた由比正雪の乱で「末期養子の禁緩和」などの政策が出て、時代は「武断政治」から「文治政治」へと変わっていくのである。そういう面で、家光の死は1つのターニングポイントでもある。また、テスト的に鎖国政策の移り変わり試験頻出なのでチェックを【コチラも】。

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