~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

☞【1614年、全国に禁教令。】『バテレンの世紀』(渡辺京二、2017年、新潮社)

バテレンの世紀』19章より。

1612年、天領を対象に禁教令
1614年、全国を対象に禁教令
直接的な引き金となったのは1612年の岡本大八事件である。
また、家康にとって処刑における信者たちの狂信的な振る舞いは理解しがたいものであった。
家康はカトリックの性質をよく理解しており、それが国益に合わない、危険であるとも判断していた。

家康、禁教に踏み切る

【岡本大八】

生年未詳。
本多正純の家臣。有馬晴信がマードレ・デ・デウス号を撃沈させたとき【コチラ】、旧領回復の口利きをするといって、晴信から多額の賄賂をもらった。

しかし、いつまで経っても話が来ないことに業を煮やした晴信が駿府へ向かった。審理の結果、岡本大八が詐欺・賄賂などの罪で火刑となることが決定した。

ただ、岡本大八は最後に「有馬晴信が長崎奉行・長谷川藤広を殺害しようとしていた」ことを暴露する(※)。これに対して晴信はしっかりとした申し開きをすることができず、晴信の処刑も決定した。(有馬領は熱心なキリスト教徒が多く、これが島原の乱の遠因ともなる。)

※晴信は藤広と協力してマードレ・デ・デウス号を攻撃したが、のちに仲違いして叱責されたことを根に持っていた。

1612年没。

家康にとっての問題は、有馬晴信だけでなく、岡本大八自身もキリシタンであったことである

キリシタンが腹心の家臣まで広がっていることに驚いた家康は、駿府の自身の家臣を調査。そのうち、棄教していなかった家臣14名、女中3名が追放となった。

大八処刑の当日、天領における禁教令が出された

キリシタン同士が領土の斡旋をするなど、もってのほかじゃろう。

しかし、この時の禁教は緩いものでした。領主も依頼するにとどめるくらいで、受洗者も減りませんでした。

有馬領では、幕府への忠誠を示すために迫害が行なわれたました。

しかし、棄教せずに殉死する家臣もいました。

さらに、家康を気味悪がせたのは、死者の遺物を目的に2万人が集結したことです。

あー、健康オタクのわしからしたら、宗教のために死ぬとか、マジわかんねぇ。
キリスト教では殉死は最高の名誉なんですよ。
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そこで、1614年。家康は、改めて全国対象の禁教令を発令し、宣教師の国外追放を命じました

福島、前田、黒田といった、「親キリシタン大名」も、この時は無視するわけにはいきませんでした。

前田利長はそれまで匿っていた高山右近をついに追放しました。

高山右近は、マニラへ向かう航海中に健康を損ない、1615年、死去します。

このほか、各地で弾圧がありましたが、事前に知らせていたケースもありました。

これは幕府への手前、ある程度迫害をしないといけなかったこと、全員検挙することは無理だったこと、奉行および大名側にも親交のあるキリシタンもいたことなどが要因と考えられます。

また、薩摩の武士たちは武器をもたない人々を殺傷すことは卑しいと考えていました。

こういうこともあって、1人も死者を出さなかったことは特筆に値すると思います。

追放令の総奉行には大久保忠隣が選ばれました。私、秀忠の筆頭年寄です。

父の信任する本多正信、正純父子とは対立関係にありました。

忠隣の親戚筋に佐渡奉行を務めた大久保長安という家臣がおりますが、長安の死後、本多父子は遺産没収したうえに、子息を切腹させました。

追放されて行き場を失ったキリシタン武将たちは、大坂の陣で豊臣方につきました。

もっとも、秀頼は熱心な仏教徒だったのですが。

直接的には岡本大八事件と、信者の振る舞いが気持ち悪かったことなんだけど、本質的にキリスト教徒が増えると国家統治の理念と異なってしまうんじゃよ。

つまり、ローマ教皇を頂点とする階層社会に組み込まれてしまうことは危険なんじゃ。

もっとも、わしは彼らの武力など何も恐れていないがの。

コチラも