~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

バテレンの世紀』秀吉の死~家康の死までの年表と、20章より。

年表

1598豊臣秀吉没。
1600オランダ船リーフデ号漂着 。(三浦按針漂着
※関ヶ原の戦い
※イギリス東インド会社設立
1601家康、朱印状を発行(朱印船貿易開始)コチラも】→1604年制度化
1602スペイン船が土佐に漂着。銃撃をかわしながら脱出という事件。
オランダ東インド会社設立(資本金はイギリスの10倍)
1603長崎がキリシタン商人による自治に(※長崎奉行寺沢広高罷免)
ヴァリニャーノ第3次巡察を終えて離日
※ポルトガル船がオランダ船に拿捕されて大打撃【コチラも
1606※ヴァリニャーノ、マカオで死去
1608マカオ事件
(有馬晴信の家臣がマカオで治安を乱してカピタンに殺害される。)

パウロ5世の小勅書により各修道会の日本入国が自由に。
(※勅書の長崎到着は1611年)
1609オランダ平戸商館開設
1610マードレ・デ・デウス号爆沈コチラも
※家康、福建省総督に貿易希望を出すことで唐船が来航するように
1611日本イエズス会、準管区から管区に昇格し、カルヴァーリョ(ひどかった)、管区長に就任。
1612岡本大八事件 コチラも
家康、キリシタン禁教令を天領に発布
1613慶長遣欧使節出発コチラも
有馬領での殉教、2万の群集、刑場に集まる 。
セーリス、平戸に到着。イギリス商館開設。
1614家康、キリシタン禁教令を全国に発布
「教会分裂」=イエズス会とスペイン系修道会の対立
「大追放」=宣教師と高山右近らマニラ追放
長崎奉行長谷川左兵衛の有馬・口之津キリシタン迫害
※大坂冬の陣
1615高山右近、マニラで没
支倉常長、ローマ教皇パウロ5世に謁見
※大坂夏の陣、豊臣氏滅亡
1616秀忠、改めてキリシタン禁制を諸大名に通達
末次平蔵が長崎代官村山等安を江戸で告発
貿易制限令(平戸、長崎に限定。京阪は禁止。)を最後に家康没

マカオの日本人同宿

日本人の中には直接、ローマに行って学んだものもいた。

日本イエズス会は、
日本人は欧州人が主導する日本宣教の従順な手足であって欲しい」という願望と、
日本教会がイエズス会から独立するのではないか
という恐怖から、彼らを受け入れぬよう要請した。

しかし、ローマ本部は彼らを受け入れ、立派な司祭に仕立て上げた。(トマス荒木ら)

1611年に準管区から管区へと昇格したが、初代日本管区長となったカルヴァーリョはひどかったことでも知られています。

彼を含め、宣教師たちの中には日本人がいずれ自分たちの地位を脅かすと考えていたものが一定数いました。

そのため、日本人が宣教師になる道は絶たれます。

このような排他的な態度をとったことからマカオでは日本人同宿と紛争も起こしています。

一方、日本人キリシタンの中には自分の意思でローマに行った猛者もいます。

トマス荒木は、マドリードで托鉢修道士が国王に日本征服を企てるよう働きかける場面も見ました。

1615年に帰国。

活動は明らかではありませんが、「キリスト教の法は真実であるとしても、これを日本で広めようとするパードレたちの意図は、日本を自分たちの国王に従わせようというものである」という持論を持ち、イエズス会ともスペイン系にも属さない独自の立場を貫きました。

なかなか感心じゃ。

荒木には「日本人による日本人のための教会」という理想があったのかも知れません。

日本イエズス会はトマス荒木に次ぐような人物が現れることを危険視しました。

しかし、ローマ本部では荒木に次ぐ日本人を受け入れ、立派な司祭へ仕立て上げました。

※岐部ペドロ、小西マンショ、ミゲル・ミノエス。もっとも、彼らはイエズス会のルートを頼りました。

その後のトマス荒木

1619年、捕らえられてしまいます。

しかし、脱走し、数日後に、“ローマ”セミナリヨの服を着て出頭しました。

ローマでの服を着たのは彼なりのプライドでしょうか。

20日後に棄教しました。

その後は、長崎奉行長谷川権六に重用され、宣教師摘発の先頭に立ちます。

しかし、30年後。

14人の信徒が処刑される際、激情にかられて判決の不当を叫びました。

狂人とみなされ獄中へ。

1646年、あるいは1649年に獄死したといわれております。