~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

☞【イギリスと江戸時代初期日本の関係は?】『バテレンの世紀』(渡辺京二、2017年、新潮社)

バテレンの世紀』17章より。

布教なしで交易をしてくれるオランダ、イギリスは江戸幕府にとって好都合であった。

しかし、日本での商売にはまだポルトガルに一日の長があった

そこで、オランダはポルトガル船の拿捕に精を出した。

イギリスはアダムズの尽力もあり大砲などが売られ、それらは大坂の陣で使われたものの、なかなか日本人の欲しいものを得ることができなかった。

1616年、貿易を平戸・長崎に限定するという「貿易制限令」を最後に、徳川家康死亡

英国商館とアダムズ

イギリスとの貿易を握るのは、ウィリアム・アダムスこと三浦按針。【コチラも

(ウィリアムなのかウィリアムズなのか、アダムスなのかアダムズなのか、カタカナ表記が意外と書物により異なり混乱するので、「三浦按針」で書きます。)

William Adams(イメージ図)
【三浦按針】

1564年、イギリス生まれ。

オランダ船リーフデ号にて多くの乗組員が死亡する中でも生き残り、1600年、豊後に漂着する。

イエズス会士、ポルトガル人らはあることないこと吹き込んで、家康に殺害すべきと助言するが、何事にもすらすら答える按針を逆に家康は重用することになる。

1613年、イギリス東インド会社の司令官セーリスが来日し、按針も家康と謁見の段取りをするなど手助けをするも、「セーリスが気に入らない」という理由でセーリスと一緒には帰らず。

その後はイギリス商館で働くも、秀忠、家光らには冷遇された。1620年、平戸で死去。

 
オランダにも文句があります。

家康公に会う段取りつけてやったって言うのに、彼らのやったことと言えば、私とイギリス東インド会社の連絡を何度も邪魔したこと。

ひどいじゃないですか。

イギリスにも文句があります。

なんなんですか、あの、セーリスとかいう青二才。あれで東インド会社の司令官よくやれますね。バカもたいがいにして欲しいです。

ちなみにイギリスは、1604年、日本へ向かう航路を開拓中、マレー半島沿いのパタニ沖にて日本商船と死闘を演じております。(船長は戦死。)

そもそも、極東に行ってみようなんていう船乗りは、「普通」ではありません。

イギリス東インド会社の乗組員たちは、日本へ到着するや積み荷を盗んで勝手に上陸して女郎のもとへ言ったり、禁止しても脱走して野外で飲んだくれたり、おまけに決闘したり。欠員が出て、日本人を補充する始末です。

ホント、「海賊だから死んだ方がマシ」と言われても反論しにくいでしょう。

さらに、司令官のセーリスに至っても日本の春画を大量に持ち帰ったり、私貿易をしたりと、禁止されていることをやってしまうようなどうしようもない輩でした。(春画は結局、焼却されます。)

あんなクソと一緒の船に乗るくらいなら日本に残る。

セーリス帰国に際して、以前より帰国希望を出していた按針も帰る予定でしたが、翻意します。

ともあれ、按針がセーリスと家康を引き合わせることで、イギリス東インド会社と日本の間の交易ははじまりました。

しかし、問題は、日本人は英国のものなど欲していなかったことです。

日本人が欲しかったのは生糸、絹織物、鹿皮(羽織、袴、足袋に使用)、蘇木(染料)です。

そこでイギリス東インド会社は新たに生糸、絹織物を手に入れるルートを探しますが、難航します。

インドシナ、シャム方面はすでに日本の朱印船の商圏でもありました

大砲などは購入されたものの、貿易相手という点でまだまだポルトガルが優位でした。

とりあえず貿易が始まったんだから、ヨシとしてよ!
按針、ご苦労。