~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

☞【家康はキリシタンとどう対峙したか?】『バテレンの世紀』(渡辺京二、2017年、新潮社)

バテレンの世紀』第14章より。

家康は貿易の希望こそあったが、伝道には嫌悪感をもっていた。
そんな折、オランダ、イギリスが台頭する。
オランダはスペインから独立運動を行っており、スペイン・ポルトガル(同君連合)と敵対していた。

秀吉の死後、イエズス会は石田三成に今後のことを打診したところ、「まだしばらく目立たぬようにしていた方が良い」と好意的に言われます。

家康からは「太閤がなくなってすぐに追放令を解除するわけにはいかないが、いずれ定住の許可がおりるだろう」と言われます。

しかし、家康は前年(1598年)、伊勢に潜伏していたフランシスコ会の宣教師ヘロニモ・デ・ヘスースに「スペイン船の浦賀寄港」、「スペイン人鉱山技師、パイロットの斡旋」を依頼していたのです。

1599年に江戸で初ミサが行なわれるが、1601年に死んでしまった。

誰じゃ、わしのこと「狸」呼ばわりするのは。

しかし、なんじゃね、キリスト教徒っていうのは。

殉死するとか、ちょっと気味が悪いんじゃ。

太閤殿も仰っていたが、キリスト教っていうんは日本の風土に合わないんじゃないか、ってワシは思う。

ま、貿易の利益を得たいだけなんじゃが、どこかにそんな国おらんかな。

 

スペイン系修道会は次々に日本へやってきますが、スペインとの貿易は結論から言うと、進展しません。

1つの理由としてオランダ、イギリスと言った「新興国」の出現があったからです。

まずはイギリス

イメージ図

1600年、「オランダ船リーフデ号」が大分に漂着しました。

その中に「ウィリアム・アダムス」というイギリス人がいました。

大坂へ回漕されたアダムスは家康に謁見し、オランダとスペインの交戦などを話します。

これまでイエズス会は彼らのことを「海賊」と言っていましたが、家康はそんなことは気にせず、アダムスを側に置くようになります。

アダムスは「三浦按針」という日本人名ももらいます。

家康には数学、欧州情勢を教え、また家康のために西洋式帆船2隻も贈りました。

元々は「船大工」ですしね。

こののちも重要な役割を果たします。

つづいてオランダ

彼らは「国家そのものが海賊」といった感じでしょうか。

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それにはこんな背景があります。

まず、1568年から、オランダは反スペイン運動を行い、マウリッツの指導のもと独立を達成します。

しかし、1580年、フェリペがポルトガル王を兼任するとオランダ船がリスボンに入港できなくなります。

そこで、アジア貿易に参入します

1596年よりアジア航路開拓し、1602年には乱立する会社を統合して「東インド会社」を設立します。

この「東インド会社」は、「会社」と名前がつきますが、「軍隊」を備え、「要塞」を構え、条約を結ぶ権利も有していました。

そして彼らはアジアにおけるポルトガルの拠点を攻撃して敵にダメージを与えるという任務ももっていました。

新参者にとって、新たな交易ルートを開拓するより、今あるルートを奪った方が早いですしね。

まさに、欧州の戦争をアジアに持ち込んだ感じです。

1603年にポルトガル船の大量の積み荷を強奪。これは効いただろう。

あと言っておくが、イギリスも「東インド会社」作ってたらしいけど、オランダ東インド会社は奴らの10倍の資本金だからな。

イエズス会は、

①財政難、オランダ船の脅威
②日本人のキリスト教離れ
③スペイン系修道会の参入

という問題に直面していました。

あ、そういえば死んだコエリュはじめ、イエズス会の中にもスペイン系修道会に同情的な宣教師もいたんで困ったもんですなー。

まあ、イエズス会の規模は大きく、当然、スペイン国籍のものもいたし、しょうがないことなんですが。

つまり、わしは最初から鎖国しようとしていたわけじゃないぞ。

というか、そなたらの考えている鎖国とはなんじゃ?

まあ、続きを読まれるが良い。

世界史講師、茂木先生の超日本史もわかりやすい