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☞【鎖国とオランダ。鎖国は祖法ではなかった。】『バテレンの世紀』(渡辺京二、2017年、新潮社)

こんにちは。

今回ご紹介しますのは『バテレンの世紀』最終章~エピローグ。

ついに「鎖国」となり、ポルトガル人は追放され、「バテレンの世紀」も終焉を迎えるのですが、

鎖国」とはズバリ何でしょうか?

一言で言いますと、「海外まで出るリスクを避けて、オランダに輸入を一括依頼すること」でしょうか。

そして、重要人物にオランダ商館長フランソワ・カロンを挙げます。

フランソワ・カロン

【フランソワ・カロン(オランダ)】

 

1600年、フランス生まれ。のち、オランダに亡命。

1619年、平戸オランダ商館の料理方見習いとして来日。日本人と結婚したこともあり、日本語に堪能であった。

1639年にはクーケバッケルの後を継いで、第8代平戸のオランダ商館長となる。(大出世!)

「オランダ単独で十分量の生糸を入手できる」と主張

ポルトガル追放、オランダの貿易独占が決定するうえで重要な役割を果たしました。

1641年、離日。【コチラの書籍にも

幕府はなるべくポルトガルを排除したいと思っていましたが、最大の懸念は生糸でした。

そこでカロンが「オランダだけで大丈夫」と説き伏せたことでポルトガル排除へ進みます。

その一方で、家光は倉庫破却令を出しました。

これは、オランダ商館に「西暦(キリスト暦)」が書かれていたという些細な理由から、オランダ商館をつぶすようにとした命令です。

建てたばかりのオランダ商館でしたが、カロンはこれを即決で受け入れます。

もしもカロン渋るようだったら殺害されていたようですので、歴史はわからないものですね。

(倉庫破却令は家光の独断と考えられます。)

兎にも角にも、1641年、オランダ商館は平戸を離れ、出島へ移りました

長崎奉行の管理下に置くことが狙いとも考えられております。

日本船は、台湾では中国に、南シナ海ではスペイン、ポルトガルにより攻撃を受けるだろう、って言うんですわ。

 

そのリスクを考えて、当時の幕閣はオランダに輸入を一括依頼する決断をしたわけですな。

ちなみに、オランダにマカオ、マニラといった拠点を制圧できないかも聞きましたけど、「防御が固いから無理だろう」と前商館長クーケバッケル。

カロンからは日蘭で協力してやるという案も出されていたようですよ。

【受験生必修】鎖国令の変遷(第1次~第5次)

ここで鎖国令の変遷についてまとめます。

大事なのは1、3、5。

第1次1633奉書船以外の海外渡航禁。
また、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁じた
第2次1634第1次鎖国令の再通達。
長崎に出島の建設を開始。
第3次1635日本人の海外渡航及び帰国を全面禁止。
第4次1636貿易に関係のないポルトガル人とその妻子(日本人との混血児含む)を追放。
残りのポルトガル人も出島に移す。
第5次1639ポルトガル船の入港を禁止
キリスト教が諸大名と結びついて反乱起こされるのが一番の問題。
 
島原の乱は大きかった。

 

1639年にポルトガル人の来航禁止が言い渡されましたが、それでも使命感に駆られて来航するのがキリスト教徒です。

このような状況下においても、1640年に来航してきます。

(法律どおり処刑されました。)

1642年、1643年にはイエズス会宣教団が来航しました。

1642年時は拷問で死亡、あるいは斬首されました。

1643年時は全員が棄教、キリシタン屋敷に収用されることとなりました。

ただ、1647年に訪れた使節は平和裏に退去しました。

ただし、現地の対応はてんやわんやでした。【コチラも:江戸幕府と国防】)

その次に訪れる宣教師は1708年のシドッチになります。

1673年にはイギリスが貿易再開を希望してきたけど、オランダ商館が、「チャールズ2世がポルトガル王女を妻としている」と言うので断りました。

オランダへの配慮もありますし、実際、オランダだけで十分でしたしね。

エピローグ:ファーストコンタクト再考

鎖国はスペイン、ポルトガルとの断交を意味して、それ以外のヨーロッパ船の来航を拒否したものではない

★つまり、この時点では鎖国は祖法となっていない

(ところが、18世紀を経て「鎖国が祖法」となっている。)

★江戸後期、日本人はヨーロッパ人と初めて出会ったかのような有様だったが、そうではない。忘れてしまっていただけだ。

(ファーストコンタクト時はイーブンな関係だったが、この間に、欧州が様変わりしていた。アメリカという「出店」まで出来ていた。)

★100年に渡る「キリシタンの世紀」は徳川幕府が徹底的に記憶を抹殺することで忘却された。

シドッチ事件の際にはすでにキリシタン関係の資料がわずかしか入手できなかった。

★最初の出会いのときは、日本も欧州も、お互いを理解しようと努めた。

しかし、セカンドコンタクトにおいて、ヨーロッパは「文明的優越者」として現れた。

★武力と言う点では秀吉も家康も全く恐れてはいない。

ただ、キリシタン大名が宣教師の走狗となることや、カトリックにより家臣団、農民の忠誠心が分裂しないかが問題であった。

★カトリックは日本人の救済願望を突き動かした。

十字架を単に現世利益のものとして入信した日本人ものもいたが、殉教するものまで出現している。

世界を創造した唯一神がいるかどうかが焦点であり、日本人信者はそこに魅了された。

★日本人に好意的であったヴァリニャーノが

日本人が哲学、神学、理論的スコラ哲学に熟達できない原因は、生来、善に対しても悪に対しても我々のような強烈な情熱を有していないから

と語っているのは興味深い。

(そしてその原因を乏しい食物にあげている。)

★芥川龍之介「神神の微笑(1922)」

デウスもこの国の土人に変わりますよ

★遠藤周作「沈黙(1966)」

日本人キリシタンが信じたのはキリスト教の神ではなく、彼らが屈折させ変化させたもの、つまり彼らの神なのだ

日本人は人間とは全く隔絶した神を考える能力をもっていない

★16,17世紀は日本人の海外進出の時代でもあった。

もし鎖国がなければ、18世紀にインド洋で英国艦隊と決戦するに至ったであろうと語る論者もいる

しかし、国の支援がなかったので、そうならなかっただろう。秀吉は異例。南欧諸国、英蘭東インド会社のようなアイデアはなかった。

★徳川時代の為政者はナポレオン戦争についても知っていた。オランダからの情報のおかげで、それまでの東アジアを主とした曖昧な地図から明確な全世界像が成立した。

1750年の時点でアジアの人口は世界の66%。総生産の80%。欧州優位が確立するのは18世紀末から19世紀初頭

fin.