こんにちは。
今回ご紹介しますのは『バテレンの世紀』21章。
禁教令の間、役人たちはできるだけ穏便な措置を行なっていました。
しかし、秀忠、家光と時代が下るに従って弾圧が徐々に厳しくなっていくのです。
禁教令下の諸相
1614年1月、全国禁教令が敷かれました。
しかし、当初はできるだけ「穏便」な措置が行なわれておりました。
牢屋に入れておいたら囚人を受洗してしまった例などもあります。
役人たちは何とか見逃すように仕向けましたが、棄教するくらいなら殉死するというものも多く、役人を困らせました。
キリスト教は当時の最大信者数は75万人。
現在は200万人らしいですが、人口比率を考えると明らかに当時の方が高い。
それだけ救いが欲しかったのね・・・
それにしても、すごいインフルエンサーだわ。
秀忠時代の禁教強化
家康死後の1617年、長崎住民に対して宣教師を宿泊させてはならないという命令が下されます。
さらに、1623年以降は禁令が強化され、「日本人キリシタン」の海外渡航、日本船の「マニラ渡航」も禁止されました。
(※家光時代の鎖国令と混同しそうですので、こっちは覚えなくて良いです。)
ポルトガル船も登録制になり、登録者以外の乗船は不可能となりました。
こうした結果、1623年~1628年の間に日本に密入国した宣教師は1人もいませんでした。
日本にいた司祭たちも1623年の時点で23人いたそうじゃが、だんだん年をとってきて弱ってきていたそうじゃな。
京都大殉教
1619年、京都大殉教にて52人が火刑。
京都は他国からキリシタンが多数流入しておりました。
当初、所司代板倉勝重はキリシタンに同情的でした。
しかし、長男の重宗が、匿うことで幕府に睨まれる危険性を訴えたことで決断します。
この板倉勝重の次男が、のちに島原の乱の時に一時期総大将となった板倉重昌。(結果的に戦死)
松倉重政の息子が、島原の乱の原因を作った松倉勝家。(最終的に斬首)
【おそらく試験には出ないと思うけど、まぎらわしい。】
板倉勝重・・・京都所司代。
板倉重宗・・・勝重の長男。京都大殉教を指揮。
板倉重昌・・・勝重の次男。島原の乱で一時期総大将をつとめる。戦死。
松倉重政・・・苛政を敷いて島原の乱の原因を作る。
松倉勝家・・・重政の息子。同じく苛政を敷く。島原の乱の原因を作ったとされ斬首。
元和大殉教
1622年、元和大殉教。
大村の牢と長崎の牢にいた55人が処刑。
一方、島原半島と東北地方は例外的でした。
島原半島は1616年以降、松倉重政が治めておりましたが、領民へ配慮して寛容政策がとられました。
ところが1625年。
秀忠が隠居して家光が将軍となると、取り締まりの「ぬるさ」を叱責されてしまい、重政は以後、迫害に転じることになります。
松倉父と竹中の組み合わせはキリシタンにとってサイアクだったであろう。
(一番サイアクだったのは家光だろうけど。)
1632年に秀忠が死去し、家光の親政がはじまると、さらに弾圧が厳しくなります。
(1633年は特にキリシタン受難の年でした。)
1633年には最初の「鎖国令」が出されました。
天正遣欧使節の中浦ジュリアンが絶命したのも1633年です。
(65歳でした。)
管区長フェレイラは拷問に耐えられず棄教し、「沢野忠庵」と名乗り、幕府の手先となります。
1580年頃にポルトガルで生まれる。
1609年に来日し、日本語力を生かして管区長代理にまで就任するも、禁教令下の弾圧を受けて、1633年捕縛される。
中浦ジュリアンらとともに拷問を受けるが、耐え切れず棄教を選択した。
以後、「沢野忠庵」と名乗り弾圧に協力した。
遠藤周作「沈黙」のモデルでもある。
フェレイラの棄教は欧州にも伝わり、日本渡航を希望するものが増加したと言われる。
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蝦夷のキリシタン
この時期、特記すべきは蝦夷を訪れた信者、宣教師がいたことです。
(これはキリシタンの枠を超えた価値があります。)
当時、蝦夷はゴールドラッシュだったのです。