~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「徳川11代将軍・家斉、12代将軍・家慶」です。

以下、堀口茉純先生の「TOKUGAWA15」(2011年、草思社)を参考にさせて頂きました。

とても面白い本ですよ。

11代:家斉…ビッグダディ将軍

家斉時代は50年くらいと長いんですよ…

大きく分けて以下の4つの時期があります。

①松平定信の「寛政の改革」時期(1787~1793)
②ラクスマン来航(1792)以降の異国船問題
③水野忠成登用(1818)からの大・放漫時代
④水野忠邦老中就任(1834)からの国内混乱期

年表

1773 吉宗の4男・宗尹を祖とする御三卿一橋家の2代当主、治済の嫡男として誕生。
1774 田安定信(=松平定信)養子縁組騒動。
1779 将軍世子・家基死亡 (※毒殺説)
1781 家治の養子となる。9歳。父・治済の暗躍。
1782 天明の大飢饉(~1787)
1783 浅間山噴火
1786 家治死亡
1787 将軍就任。15歳。

松平定信「寛政の改革」
松平定信、白河藩主から老中首座へ(~93)。保守勢力の返り咲きを狙うが時代に逆行。江戸で打ちこわし相次ぐ

倹約令
「白河の清き魚の住みかねて 元の濁りの田沼恋しき」

備蓄奨励、福祉政策は評価。学問所や藩校も盛んとなり、成績次第で出世の道が開かれた。
1789 尊号事件
島津家から茂姫を迎え、結婚。
囲米の制
棄捐令
1790 人足寄場設置
寛政異学の禁
オランダとの貿易制限
旧里帰農令
1791 七分積金の制
1792 長男誕生。

ロシアのラクスマン根室来航、通商要求。
1793 定信失脚(※外国事情にも詳しかっただけに残念?)。
⇒以後、「寛政の遺老」に引き継がれる。
1803 延命院事件
※延命院住職の日潤から大奥たちが性の功徳を受ける。寺社奉行・脇坂安董が家臣の娘を使って潜入捜査をしたところクロ。日潤は死罪。奥女中は検挙されず。
1804 ロシアのレザノフ長崎来航、幕府に通商要求。

(※レザノフ…国策会社「露米会社」総支配人。補給線目的で日本に行くが、日本は「鎖国を祖法としている」として却下した。)
1805 関東取締出役設置
1806 露寇事件、薪水給与令
(※ロシア軍艦ユノナ号が松前藩を襲撃。翌年も択捉島が攻撃される。以後、蘭学者は開国論、平田篤胤ら国学者は交戦論を唱える。ただ、この時、ロシアでは襲撃の首謀者たちは皇帝の許可を待たずに行動したとしてサハリンで投獄されていた。松前奉行が幕府に一意見を述べていることも注目に値する。

幕末はペリーが始まりではなく、国境を接する唯一の西洋国であるロシアとの対峙が始まりである。
1809 間宮林蔵、間宮海峡発見
1813 ゴロウニン事件
1817 イギリス船浦賀に来航。

松平信明、辞職願を却下され、現職のまま病没
1818 水野忠成(家斉の腹心)、老中就任

三翁(父・一橋治済、正室の父・島津重豪、側室の義父・中野碩翁)に権力集中。

大奥の浪費は激しく。貨幣改鋳により放漫財政を密かに補填。いわゆるバブル
1821 伊能忠敬「大日本沿海輿地全図」弟子たちにより完成
1822 左大臣に昇進。50歳。
1825 異国船打払い令…薪水給与令が出ていたが、外国人による狼藉が相次いだため。

※1824大津浜事件、宝島事件。
1827 太政大臣に昇進。父・治済死亡。55歳。
1828 シーボルト事件
1833 天保の大飢饉
1834 水野忠邦、老中へ
1837 大塩平八郎の乱
生田万の乱

隠居。次男・家慶が将軍に。

モリソン号事件。(※日本人漂流民返還のために来航したアメリカ船を容赦なく撃退)
1839 蛮社の獄。(※モリソン号事件に際して幕府の対応を批判した高野長英、渡辺崋山らを粛清。)

水野忠邦老中首座へ
1840 三方領地替え。
アヘン戦争
1841 死亡。69歳。
智泉院、感応寺事件
(症状悪化は家基の崇りとして側室・お美代の方の実父・智泉院僧・日啓が幕府のバックアップを受けて感応寺という巨大寺院を立てる。ところが、ここで大奥が密通を重ね風紀が乱れた。)

→家斉の死後、寺社奉行・阿部正弘により即刻廃止。
老中・水野忠邦による天保の改革開始となる。

※「寛政の遺臣」たちの改革も反動を招き、退廃的、享楽的な時代となった。一方、浮世絵、文芸はこの時代に栄え、「文化・文政期」は「化政文化」と呼ばれる。

※家斉自身は側室が40人前後おり、16人に55人の子女をもうけさせた。(成人したのは13男12女であり、お祝いと弔いに明け暮れた)。
①15歳で将軍就任。就任当初は、吉宗の孫ながら将軍になれなかった松平定信が「寛政の改革」で存在感を発揮。

※松平定信は天明の飢饉とその後の打ちこわしにより生まれた政権」であり、徹底した倹約と管理を行ったため、庶民には人気がなかった。田沼の経済政策を全否定して吉宗時代への懐古主義であった。

【定信の政策】

1)尊号事件…光格天皇が実父(この人は天皇ではない)に太政天皇の尊号を送ろうとしたら松平定信に拒否された。

2)囲い米の制…米を備蓄させた。各地に義倉、社倉。

3)人足寄場設置…浮浪者や犯罪者などに仕事を覚えさせる場を作った(これは良いね!)

4)寛政異学の禁…柴野栗山の建議に基づき、聖堂学問所(のちの昌平坂学問所)では朱子学以外の学問を禁止。吉宗時代に流行した古学(荻生徂徠、山鹿素行など)、陽明学はダメージ。
→【
父が子に語る近現代史(小島毅)読書メモ編

5)オランダとの貿易制限

6)旧里帰農令…江戸から農村へ返す

7)七分積金の制…金を備蓄させた。節約分の7割を積み立てる。

8)棄捐令…旗本御家人の借金踏み倒し(1789)

9)倹約令…大奥の経費を2/3に

10)学問吟味…身分にとらわれず有能な人材を採用した試験制度

ただ、公金貸付も多く、各地で名代官出現したことも覚えておきたい。(上杉鷹山もこの時代の恩恵。)

 

②異国船問題については下記別項に。
※コチラ『江戸幕府と国防』も是非一読を。

③松平定信失脚後、寛政の遺老により路線は引き継がれた。しかし、松平信明の死後(1817)、水野忠成(1818)が登用されると、家斉はタガが外れたように、放漫路線に。

大奥の浪費は激しくなったが、文政小判を出してバブルに浮かれる。もっとも、この時代にマニュファクチュアが育っていたのに生かし切れなかった。【コチラ

④晩年は水野忠邦が台頭。「江戸時代三大改革」として有名だが、評判はすこぶる悪い。初代三方領地替えの件、賄賂による成り上がり、そして数々の愚策。家斉の放漫に対する反対路線。「寛政の改革」と混同しやすいため試験で狙われる。(もっとも多くの政策は家斉死後)

1)人返しの法…江戸に流入していた没落農民を強制的に農村へ返す

2)上知令… 50万石を直轄地にしようとしたが反対で実施できず。

3)天保の出版統制… 錦絵は禁止。為永春水(人情本作家)、柳亭種彦(合巻作家)処分。

4)あらゆる階層に倹約令…寄席が211軒から15軒に。歌舞伎三座も場末に移転。(自分は賄賂まみれなのに。)

5)株仲間の解散… 物価高騰抑制を目的に発布されたが、そもそも物価動揺の原因は悪貨と、大坂に届く前に他地域で売買されていたこと。

6)日光社参強制…1840年、三方領地替え失敗後、再び権威を見せるために67年ぶりの日光社参を強行。

出版統制についてもう少し

天保の改革で水野忠邦は風俗の取り締まりを厳しくした。出版統制として柳亭種彦、為永春水が処罰。それぞれジャンルが違うので注意。

①合巻…柳亭種彦(りゅうていたねひこ)「ニセ紫田舎源氏」
②人情本…為永春水(ためながしゅんすい)「春色梅暦」(しゅんしょくうめごよみ)

覚え方(【石黒先生のゴロ本より】)

<ごうりゅうは ひとのため>
合巻:柳亭   人情本:為永

♨これはウマい!
「彦」→「ニセ(にんべんに彦)」、「春水」→「春色」(しゅんすい→しゅんしょく)

♨ニセ紫は徳川家斉のフェイクだったという説。

♨【合巻】…黄表紙などを合わせた
♨【人情本】…江戸時代の文政ごろに始まり明治初期まで続いた小説の一種。江戸市民の恋愛生活を描いた風俗小説。為永春水は手鎖50日の刑にあったが、マジメで小心者の彼にはこたえたらしく、翌年没。

★一方、「寛政の出版統制」は次の2人。(混同しがちなので要注意!)

【寛政の出版統制】
①洒落本…山東京伝「仕懸文庫」
②黄表紙…恋川春町

♨「春町」と「春」の字が使われているが、こちらは「はるまち」と読む。「春色」は「春水」で覚えたい。

♨【黄表紙】江戸の風俗を風刺
♨【洒落本】江戸の遊里の生活を描く

【山東京伝】(1761~1816)

もともと浮世絵を北尾重政にまなぶ。のち黄表紙作家として脚光をあびるが、「仕懸文庫」をはじめとする洒落本が風俗をみだしたとして手鎖(てぐさり)50日の刑をうける。以後、読み本作家に転向。晩年は風俗考証に熱中し「近世奇跡考」をのこした。門弟に滝沢馬琴。

【恋川春町】(1744~1789)

黄表紙作家。「金々先生栄花夢」など。