~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

☞【明治維新は正しかったか?】『官賊と幕臣たち』~列強の日本侵略を防いだ徳川テクノクラート~(原田伊織、2016年、毎日ワンズ)【読書メモ編】

読書メモ編。

日本が植民地にならなかったのはパークスが急死したから、か?

以下、resumeと随想(♨)。

鎖国とは何であったか

【鎖国と言う言説】

★「鎖国」という言葉は明治になってから普及した言葉で、実際は4つの口(長崎、対馬、蝦夷、薩摩)で交易がおこなわれていた。

さらに、その目的は幕府による貿易管理である。

★江戸時代当初から薩摩藩は警戒されていた。しかし、密偵が生きて帰ることはなかったという。

(♨これは言いすぎ?徳川家斉の密偵が薩摩の屋敷にモノを埋めたという話があるけど?)

★薩摩藩は密貿易によって倒幕を達成した藩ではあるが、そこは明治以降の教育で伏せられている。

(♨初代篤姫は家斉に密貿易を見逃させるために派遣されたロビイスト。)

【宣教師たちの目的】

戦国時代は雑兵らによって武士道とは全く異なるものが展開されていた。乱暴狼藉は当然。さらに人の略奪。九州方面の戦においては、人がイエズス会や南蛮船によって売買の対象にされていたという事実を認識しなくてはいけない。

【掠奪・放火・強姦、何でもありの戦場】

★乱獲りそのものが目的の合戦も多い。そもそも合戦に参加しているものの中で武士は1割

【人狩りの戦場】

★攻城戦はまず村や城下に放火し、食糧、牛馬、雑具、男女を掠奪。その後、城に籠った兵を皆殺し。奴隷の買い手としてポルトガル人があり得るのだが、自国の歴史にそのようなことがあったとは認めようとしない傾向が強い。

【切支丹による人買い人売り】

★奴隷の数、数十万以上という。

1587年、秀吉により島津征伐。その後、博多でイエズス会の宣教師コエリョを訪問し、なぜ奴隷を買うか聞いたら、「日本人が奴隷を売るから」と答えている。キリシタンは迫害を受けたと習っているが、九州においては全く逆である。宣教師の扇動もあり、仏教徒は弾圧されていた。細川ガラシャもその仲間の1人ではある。

怒った秀吉はすぐ「伴天連追放令」を出し、「人身売買停止令」も出す。江戸幕府にもおけるキリスト教禁止はこれが発端

コチラの意見も。そんな単純でもなさそう。】

★もっとも秀吉軍が朝鮮で多数の朝鮮人を捕獲したのもまた事実である。

オランダの対日貿易独占

【切支丹禁令】

★秀吉とフェリペ2世は同時代。(フェリペが10歳年長だが没年は一緒。)

★徳川家康は宗教戦争の意味を知っており、宗教を心の救済問題として政治と切り離した時点で近世の政治家であり、織田信長は石山本願寺との戦いに明け暮れ、旧教(スペイン、ポルトガル)と親交をもったという点で中世の政治家。家康が厚遇した三浦按針やヤン・ヨーステンはイギリス、オランダという新教国。

(♨ただ、これは世界情勢を知れば、そうせざるを得なかっただけのことであり、信長<家康とは言いすぎかな…?)

★1596年、サン・フェリペ号事件。メキシコを目指していたフェリペ号が難破、土佐沖に上陸。スペイン人自身が「スペインは他国を侵略する際、第一歩として宣教師を送り込む」と言い放つ。これにより全員死刑。

★幕府成立前のオランダはスペインの一部であったが、イギリスの支援を受けて独立した。

★家康は江戸に近い浦賀に商館を移すことを進めたが、オランダ人が平戸にこだわったのは中国から近かったからであろう。

★江戸幕府開始時におけるイギリス、オランダvsスペイン、ポルトガルは激しかった。最終的に1613年、家康は「切支丹禁令」を発令。

【オランダの対日貿易独占】

切支丹禁令の翌年1614年の大坂冬の陣で多くの切支丹武将が豊臣方で参戦している。

★イギリスに比べ、オランダは徹底して自分たちは布教が目的ではないことをアピールしていた。

1623年のアンボイナ事件でイギリスは平戸から撤退

(※1599年からオランダ人がポルトガル人を駆逐していた。大坂夏の陣の1615年~、イギリスが進出、両国は激しく争っていた。アンボイナ事件では日本人傭兵9人が斬首されている。

★東インド会社、というのは本国とは異なる「もう1つの海洋国家」とくらいに考えて良い。オランダの本拠地はバタヴィア。

★アンボイナ事件ののち、イギリスは日本、東南アジアから撤退し、インドに専念。

★1630年代にオランダ東インド会社によって拿捕されたポルトガル船は150隻という。セイロン島からポルトガル人を追い出し、台湾を占領したのもオランダ人である。

★そこで1637年島原の乱。これで幕府はますます切支丹を警戒。オランダはさらに旧教勢力の恐ろしさを喧伝し、1639年、家光によりポルトガル人追放。これでオランダによる日本貿易独占。

【オランダ風説書】

★1641年、平戸のオランダ商館を出島にうつす。オランダ風説書とは、内密でも何でもなく、幕府とオランダ東インド会社の間の報告書で情報提供を義務付けたものである。(勝海舟の言説には誤りが多い。)

★1641年、幕府は全国の沿岸に「遠見番所」を設置し、沿岸防備体制を整えた。

★1644年、明は亡びるが、明末期から東シナ海では鄭芝龍親子が制海権を握り、対日貿易に参戦。オランダにとってはライバル。中国船排除を風説書でアピール(中国とポルトガルがつながっているなど)。ポルトガルが人身売買を行ったという国というのは後々まで伝えられる。

幕府の対外協調路線

【アヘン戦争と米墨戦争】

★徳川幕府は決して国を閉ざしたわけではない。そもそもケンペルにしても幕府の対外政策を肯定している。ちなみにこの時期、欧州の一部では魔女狩りが行われていたくらいである。

★18世紀末からのイギリス、アメリカの伸張により国際環境は激変。

★アヘン戦争について、重要なのは銀の大量流出である。当時、清は銀本位制。銀の減少により、銀銅の交換比率が急騰し、農民の銀の納税額は倍以上に膨れ上がった。

イギリスのアヘン戦争に触れたなら、アメリカの対メキシコ戦争にも触れなければならない。

1836年、テキサス共和国を独立させ、1845年に併合。1846年から米墨戦争。後年、アメリカはイギリスに「清国から奪った香港を返還せよ」と迫ったが、イギリスは「ならカリフォルニアを返還すべきではないか」と答える。

(♨これは面白い。たしかに、アヘン戦争と米墨戦争は同時期なんだけど、日本ではアヘン戦争しか学ばない

【老中阿部正弘の決断】

★司令官がビッドル、オーリックからペリーに代わったということは、穏健外交から恫喝に切り替えると言うことである。アメリカはイギリスに後れをとっており、焦っていた。

★1757年、「プラッシーの戦い」が勃発。イギリスとフランスの争いでイギリスはインドにおける覇権を確立。オランダ人はこれを伝えていたが、長崎奉行所は江戸へは伝えていなかった。米墨戦争についても触れられていない。

阿部正弘が徳川斉昭を頼っていたかと言うとそうではない。むしろ暇を持て余してあれこれ外から口を出すのが厄介なので、内へ入れて飼いならそうとした

(獅子は毬にじゃれて遊ぶ)ただ、これは甘い。(※ちなみに御三家が海防参与など職を得ることは異例。幕政は溜間詰め譜代大名の専権事項であった。)さらに島津斉彬にも幕政参加を行わせた。これも異例である。

★若手幕臣の積極的登用、長崎海軍伝習所設立、大船建造の禁の緩和などは「安政の改革」と言われる。

【日露交渉と川路聖獏】

★ペリーとの交渉では最初のアメリカ案は24項あったが、これを12項にした。幕府の外交交渉能力はかなり高い。全権は林大学頭復斎

ロシアとの交渉では川路聖獏。おそらく我が国が外交交渉で唯一、国境線を定めた事例ではないだろうか。安政大地震でディアナ号のロシア兵、乗組員500人が沈没した際、超法規的に全員を上陸させ、軍艦を建造して帰国させている。(この時、徳川斉昭は全員殺せ、と言ったのは有名

ロシアがアメリカと戦ってくれるとは考えていなかったことも川路の素晴らしいところである。

【大老井伊直弼の決断】

★阿部正弘の功績は大きいが、意見を広く求め過ぎたことが問題であった。規模の大小を問わず、集団指導体制で成功した例は少ない。

★堀田正睦は朝廷工作に川路聖獏、岩瀬忠震というエースを送ったが、お金も寄進したのが浅慮であった。

(※大老4家とは彦根藩井伊家、厩橋・小浜・姫路藩の酒井家、古河藩土井家、安中藩堀田家からしか出ない)

★堀田は松平春嶽を大老にしたいと言ったが、13代家定が井伊直弼を選んだ。大老4家の伝統を考えればこれは当然であろう。井伊直弼が尊皇派であることはあまり触れられない。

(※ちなみに岩瀬忠震は林復斎の甥、井上清直は川路聖獏の実弟)

★安政の大獄は水戸藩が朝廷に密勅を出させたこと(戊午の密勅)についてのことであり、日米修好通商条約と一本の直線で結ぶのはおかしい。

(※余談として、吉田松蔭は彦根藩主に就任した頃の井伊直弼を称賛している)

★アロー号事件が片付いたからといって列強が日本武力侵攻に乗り出した可能性は低いが、可能性ではゼロではなく、それに対応できた阿部正弘、井伊直弼、徳川官僚群の奮戦は大きい

幕末日米通貨戦争

【ハリスは童貞?】

★ペリーは2回目の来航時、江戸市民をフランス料理でもてなしていること、日本側も日本料理をもてなしていることに注目。吉田松蔭が乗り込むのはのちの下田において。

★ハリスと言えば「唐人お吉」。この人物にwikipediaにあるような敬虔だとか、清廉潔白、ということはない。外交官特権を生かしていかに私腹を肥やしたかも注目。

★幕府瓦解の原因はハリスとオールコックのミスリード。『大君の通貨』(佐藤雅美)

【1ドル=1分と1ドル=3分の争い】

★幕末の三俊とは岩瀬、水野、小栗。もう1人足すなら川路で4俊が正しいであろう。ハリスとオールコックが組んだ米英と通貨の交換比率問題で渡り合ったのが水野忠徳である

幕末の英傑で打線を組んだ

★ハリスは兄と共同経営していた陶器の店の金を持ち逃げし、アジアへ。そこで海の行商を経て、中国沿岸の領事となり、日本へ。当時は商人と外交官の明確な区分がなく、領事をしながらも商売をやっていた。

【コバング大流出】

★恫喝に屈し、1859年、横浜の外国商人に対して幕府は「ドルと1分の同量交換」を認め、コバングの大流出がはじまる。

(※ハリスは1ドル3分を主張)

【米英に立ちはだかった水野忠徳】

★水野が金流出防止策として用意した二朱銀は3週間で潰えてしまう。

【米英の俗物に敗北、水野筑後守忠徳憤死】

外国人殺傷に際して、通貨のことなど何も知らない井伊が間部の言う通りに水野を罷免してしまった。これにより本格的な小判流出

オールコックとハリスにとっては天敵がいなくなり絶好のチャンス。間部は1ドル3分を認めてしまう。これにより幕末期に極端なインフレーションに。

物価高のメカニズムなんて庶民にはわからず、わけもわからず幕府と外国人に怒りが向けられる。

★のち、水野は徹底抗戦を主張するも慶喜に受け入れられずに1868年、病死。

※結局、ハリスとオールコックが滅ぼしたといっても良い!

官と賊

【正義の基準としての官と賊】

徳川官僚たちの足を引っ張ったのが尊攘勢力。彼らにとって一番邪魔なのが孝明天皇と言うのが、一見するとわかりにくいところではあるが

孝明天皇とは、筋金入りの攘夷派であるとともに、頑迷なまでの大政委任論者。

★今までの教育では「天皇の政争利用」というタブーに触れないようにするために仕組まれてきた。

★日露戦争後の日比谷焼打ち事件、大東亜戦争に突入するまでの煽り、メディアがいかに間違いを犯してきたか、一度、曝して振り返る必要がある。

水戸学は鬼っ子のようなもの。12~13世紀の宋学を無理やり我が国の政治体制に当てはめただけ

【竹内式部の尊皇原理主義】

★5代綱吉までは朱子学ピークも、8代吉宗は実学を重んじて礼学としての朱子学は勢いを失う。その反動で松平定信の寛政異学の禁とよばれる学問統制につながる。ポイントは朱子学が勢いを失った時期に古学が流行したこと。荻生徂徠、山鹿素行ら。これらは朱子学を否定。上方の僧侶、神官が主。

★尊皇原理主義の元は山崎闇斎。江戸幕府にとっては危険思想であった。その弟子が竹内式部。

★ちなみに陽明学は朱子学から派生したものであり、対抗するものではない。「知行合一」という言葉は吉田松蔭ではなく陽明学における初歩的な言葉。

【勤皇志士による残虐テロ】

★目明し猿の文吉の虐殺はひどい。犯人は岡田以蔵。肛門から竹を刺し、脳天まで貫く。

伊藤博文のテロにしても、仲間内の箔をつけるため

【イギリスと組んでいた密貿易の国・薩摩】

★やはり阿部正弘の件は、苦心して作った禁中並公家諸法度、武家諸法度を冒涜。

大英帝国が薩長を支援したという事実を見逃すと歴史はわからなくなる

★南北戦争の50年前の米英戦争でイギリスからの工業製品輸入が途絶えた北部は、国際競争力維持のために保護貿易である必要があった。

★尊皇攘夷をスローガンとする薩長がイギリスと組み、幕府が対外協調外交を行っている、という構図が重大な実態である。

★島津久光は幕府にとっては陪臣。改めて幕府の足を引っ張る。

【死の商人グラバーの暗躍】

★松平春嶽は全く役に立たない。

★「攘夷の実行」なんて茶番。久坂らは原理主義者。オランダが怒るのも無理はない。

★天皇はサッカーにおけるボールのようなものになっていた。

★少数派であった西郷、大久保が政権をとったのにグラバー商会の存在抜きには語れない。

イギリスは南北戦争でも弱い方に味方しているように、転覆が目的。

★坂本龍馬以前に、伊藤井上と小松はつながっており、つなげたのはグラバー。

四か国共同覚書はイギリスのやり過ぎに他国が危機感をもったもの

★日本が植民地にならなかったこととしては、1865年、パーマストンが急死し、ラッセルに代わったのも大きい。それがなければどうなっていたか。

あとがき

長州征討に会津が加わっていればだいぶ変わっていたであろう。ただ、会津は天皇の寵愛を一身に受け、諸大名から嫉妬されていた、か。

★1868年の東征軍はなんせ金がなく、貧弱であった。彦根藩は何をしていたのであろうか。彼らの尊皇意識は純粋であったのであろう。薩長と違い。教養として行き渡っていた尊皇意識が邪魔をしたわけだ。

★土方歳三、伊庭八郎は兄弟のような間柄。フランス士官ブリューネは何を思って函館まで戦ったか。ほか、松平定敬、板倉勝静、小笠原長行、諏訪常吉、永井尚志。