~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

☞【秀吉vsイエズス会。1587年、伴天連追放令!】『バテレンの世紀』(渡辺京二、2017年、新潮社)

バテレンの世紀』第12章より。

良好な関係に見えた秀吉とイエズス会の関係が急転する。
秀吉は20日以内の退去を命じた。「伴天連追放令」である。
九州平定後、間もない頃であった。

伴天連追放令前後

九州平定の1年前、大坂城でコエリュ、フロイスらは秀吉に謁見しました。

この会見で、コエリュ、フロイスが秀吉に対して軽率な言動がありました。

【ガスパール・コエリュ】

1530年、ポルトガル生まれ。

1572年に来日。当初はカブラルの下で大村領の神仏破壊などを行なっていた。

1581年、ヴァリニャーノによって初代準管区長に任命される。しかし、その後もフロイスらと九州で神仏破壊を行なっていた。

1585年、キリシタン大名を勝たせるために、マニラに艦隊を要請したが断られた

1587年、秀吉に「バテレン追放令」を宣告されるが、この時も徹底抗戦するつもりで準備を進めていた

1590年、死亡することで、秀吉に対する軍事行動案は消滅した。

それは、フロイスが、秀吉に対して「シナに攻め込むつもりがあるのなら、コエリュを頼ると良い」と言ったことです。

この「上から」発言に、オルガンティーノ、高山右近は凍ります。

その場は特に咎められることはありませんでしたが、この発言は、九州の諸大名がイエズス会の思惑で動く可能性があることを匂わせ、秀吉の警戒心を高めたと考えられます。

ただ、なおも表面上は良好な関係でした。

1年後の九州平定に際してコエリュは八代で秀吉を訪問しております。

この時、コエリュは「長崎の深堀純賢が海賊行為を働いている」と訴えます。

すると秀吉は即座に深堀純賢を捕らえて領地を没収しました。

長崎イエズス会が長年苦しめられた仇敵を、秀吉は一瞬にして除きました。

そんな蜜月も束の間。

明らかに秀吉を怒らせたのはポルトガル商人のモンテイロです。

秀吉は博多に入港するように命じましたが、難癖をつけて平戸に入港。これが、秀吉の逆鱗に触れるのです。

秀吉はコエリュを呼び出し詰問します。

その内容がコレ↓。

①なぜ仏僧のように寺院で法を説くのではなく地方から地方を巡って熱烈に煽動するのか。以後、仏僧のように行なえ。嫌ならマカオへ帰還せよ。

②なぜ有用な道具である牛や馬を食べるのか。食べるのであれば今後、渡航は無用である。

③ポルトガル人が日本人を奴隷として購入し、海外へ連行するのは許されない。連行された日本人を連れ戻すよう取り計らえ。

キリシタン武将たちが、自分ではなく神を崇拝することで支配の根幹が揺らぐと感じていたのではないでしょうかね。

(同様のことは一向宗についても言えます。)

直接の原因はモンテイロですが、高山右近に棄教を断られたことも火に油を注ぎました。

秀吉は老境に入るにつれて突発的な怒りの発作を抑えられなくなった面もあるのですがね。

奴隷について怒っていますが、これは後付けでしょうか。当時、住民が捕獲され売られることは通例でした。

これに対してコエリュの返答は、

①それ以外の方法がない。

②宣教師たちは日本食になじんでいる。商人たちには説得する。しかし、日本人が肉を売りに来るので徹底は保証しがたい。

③奴隷の売買は厳禁すべきだ。しかし、肝心なのは貿易港の「殿たち」がそれを禁止することだ。
(日本人が「売る」から「買う」のである。)

といったもの。

これで秀吉が納得するはずがなく、「伴天連追放令」が出されたのです。

なんてこった・・・

しかし、宣教師は誰も帰りません。

秀吉も徹底さはありませんでした。

貿易を捨てたくなかったためでしょうか。

一方、宣教師たちは有馬領、天草諸島などに集結しました。

そこでひっそりと活動を続けるのですが、「集結」したことで、逆に教理教育まで手が回るようになりました。

一方、畿内、豊後は壊滅的となります。

なぜキリシタン一揆が畿内や豊後ではなく、天草・島原で起きたのか、ちょっと近づいてきた気がする・・・
なおもコエリュはキリシタン大名に結束して対抗することを呼びかけたり、フィリピンから艦隊を呼ぼうと画策したり、秀吉殿と戦う気満々だった。

イエズス会としては武力征服を否定しないのだけど、戦国の世を経た日本相手でそれは適切ではない。

コチラもわかりやすい