こんにちは。
今回ご紹介しますのは『バテレンの世紀』第12章。
良好な関係に見えた秀吉とイエズス会の関係が急転する時です。
九州平定後間もなく、あるちょっとした「事件」が起きたせいで、秀吉は宣教師たちに対して20日以内の退去を命じました。
「伴天連追放令」です。
伴天連追放令前後
九州平定の1年前、大坂城でコエリュ、フロイスらは秀吉に謁見しました。
この会見で、コエリュ、フロイスが秀吉に対して「軽率な」言動がありました。
1530年、ポルトガル生まれ。
1572年に来日。当初はカブラルの下で大村領の神仏破壊などを行なう。
1581年、ヴァリニャーノによって初代準管区長に任命される。しかし、その後もフロイスらと九州で神仏破壊を行なった。
1585年、九州のキリシタン大名を勝たせるために、マニラに艦隊を要請したが断られた。
1587年、秀吉に「バテレン追放令」を宣告されるが、この時も徹底抗戦するつもりで準備を進めていた。
1590年、死亡。彼の死をもって秀吉に対する軍事行動案は消滅した。
それは、フロイスが、秀吉に対して
「シナに攻め込むつもりがあるのなら、コエリュを頼ると良い」
と言ったことです。
この「上から」発言に、オルガンティーノ、高山右近は凍ります。
その場は特に咎められることはありませんでしたが、
この発言は、九州の諸大名がイエズス会の思惑で動く可能性があることを匂わせ、秀吉の警戒心を高めたとも考えられます。
ただ、表面上は良好な関係が続きました。
1年後の九州平定に際してコエリュは八代で秀吉を訪問しております。
この時、コエリュは「長崎の深堀純賢が海賊行為を働いている」と訴えると、
秀吉は即座に深堀純賢を捕らえて領地を没収しました。
長崎イエズス会が長年苦しめられた仇敵を、秀吉は一瞬にして除いたのです。
――ところが。
ポルトガル商人のモンテイロが、博多入港を命じられたものの、難癖をつけて平戸に入港。
これが、秀吉の逆鱗に触れました。
秀吉はコエリュを呼び出し詰問します。
その内容がコレ↓。
①なぜ仏僧のように寺院で法を説くのではなく地方から地方を巡って熱烈に煽動するのか。以後、仏僧のように行なえ。嫌ならマカオへ帰還せよ。
②なぜ有用な道具である牛や馬を食べるのか。食べるのであれば今後、渡航は無用である。
③ポルトガル人が日本人を奴隷として購入し、海外へ連行するのは許されない。連行された日本人を連れ戻すよう取り計らえ。
(同様のことは一向宗についても言えます。)
直接の原因はモンテイロですが、高山右近に棄教を断られたことも火に油を注ぎました。
秀吉は老境に入るにつれて突発的な怒りの発作を抑えられなくなった面もあるのですがね。
奴隷について怒っていますが、これは後付けでしょうか。当時、住民が捕獲され売られることは通例でした。
これに対してコエリュの返答は、
①それ以外の方法がない。
②宣教師たちは日本食になじんでいる。商人たちには説得する。しかし、日本人が肉を売りに来るので徹底は保証しがたい。
③奴隷の売買は厳禁すべきだ。しかし、肝心なのは貿易港の「殿たち」がそれを禁止することだ。
(日本人が「売る」から「買う」のである。)
といったもの。
秀吉が納得するはずがなく、「伴天連追放令」が出されました。
しかし、宣教師は誰も帰りません。
(秀吉も徹底さはありませんでした。貿易を捨てたくなかったためでしょうか?)
彼ら宣教師たちは有馬領、天草諸島などに集結し、ひっそりと活動を続けます。
「集結」したことで、逆に教理教育まで手が回るようになりました。
一方で畿内、豊後の布教は壊滅的となります。
その答えにちょっと近づいてきた気がする・・・
イエズス会としては武力征服を否定しないのだけど、戦国の世を経た日本相手でそれは適切ではない。