こんにちは。
今回ご紹介しますのは『バテレンの世紀』第11章。
天正遣欧使節が日本を発った4ヵ月後、日本国内では大事件が起きました。
それはご存知、「本能寺の変」です。
安土城も燃やされ、セミナリオの院長だったオルガンティーノも逃亡を余儀なくされます。
「本能寺の変」で安土城掠奪
当時、騒乱が起きた際は武士から庶民に至るまで掠奪に走るのが常でした。
安土城の修道院も神学校も、柱と屋根を残してすべて掠奪されてしまいます。
オルガンティーノは琵琶湖内の沖ノ島に避難を試みます。
しかし、道中で暴徒により衣服を剥がされました。
そして、ようやく琵琶湖に辿り着いたと思ったら今度は海賊により脅迫されるといった有様でした。
(機転を利かせて何とか一命をとりとめました。)
それでも神学校の授業は高山右近がいた高槻で行ないました。
秀吉が天下人に
そして、山崎の合戦、賤ケ岳の戦いなどを経て、秀吉が天下人となります。
イエズス会は秀吉に保護を求めます。
秀吉の真意はわかりませんが、貿易による利益も見越していたことでしょう。
秀吉はイエズス会の保護を約束します。
高山右近も秀吉に寵愛されます。
秀吉配下の武将でキリシタンになるものも現れました。(黒田勘兵衛、蒲生氏郷ら)
秀吉政権は当初、親キリシタン政権でした。
ただ、日本の神仏を悪魔呼ばわりすることは止めるように忠告していました。もともとは王だった神仏もいたからです。
その頃、九州は・・・
その頃、九州では島津氏が九州統一目前でした。
1584年の沖田畷の戦い(「龍造寺、大村」vs「島津、有馬」)で龍造寺隆信は戦死しました。
龍造寺の死はその圧力に押されていた有馬、そして軍門に下らざるを得なかった大村に束の間の安堵を与えます。
しかし、のちに有馬は島津の圧力に苦しむことになります。
島津は反キリシタンでした。
島津にとって、残る敵は大友だけ。
1586年、大友の領土に攻め込み、掠奪を繰り広げます。
困った大友は秀吉に援助を求めます。
これにより、1587年、秀吉軍が加わります。
秀吉の大軍に敗れ、島津氏は秀吉の軍門に下ります。
島津よ、ちょっと遅かったな。