~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

☞【信長から秀吉へ、そして九州征伐へ。】『バテレンの世紀』(渡辺京二、2017年、新潮社)

バテレンの世紀』第11章より。

天正遣欧使節が日本を発った4ヵ月後、「本能寺の変」で信長が倒れます。

当時、騒乱が起きた際は武士から庶民に至るまで掠奪に走るのが常でした。

安土城の修道院も神学校も、柱と屋根を残してすべて掠奪されてしまいます。

オルガンティーノは琵琶湖内の沖ノ島に避難を試みます。

しかし、道中では暴徒により衣服を剥がされ、ようやく琵琶湖に辿り着いたら海賊により脅迫されてしまいます。

機転を利かせて何とか一命をとりとめます。

神学校の授業は高山右近がいた高槻で行なわれることになります。

そして、山崎の合戦、賤ケ岳の戦いなどを経て、秀吉が天下人となります。

イエズス会は秀吉に保護を求めます。

秀吉の真意はわかりませんが、貿易による利益も見越していたことでしょう。

秀吉はイエズス会の保護を約束します。

秀吉のもとで財務を担当していた小西立佐はキリシタン。行長の父ですね。

高山右近も秀吉に寵愛されます。

秀吉配下の武将でキリシタンになるものも現れました。(黒田勘兵衛、蒲生氏郷ら)

秀吉政権は当初、親キリシタン政権でした。

ちょっとマニアックですが東洋医学の世界で有名な曲直瀬道三(まなせどうざん)もキリシタンとなります。(1584年)

ただ、日本の神仏を悪魔呼ばわりすることは止めるように忠告していました。もともとは王だった神仏もいたからです。

その頃、九州では島津氏が九州統一目前

1584年の沖田畷の戦いで龍造寺隆信は戦死しました。

この戦いは、「龍造寺、大村」vs「島津、有馬」の構図でした。

龍造寺の死はその圧力に押されていた有馬、そして軍門に下らざるを得なかった大村に束の間の安堵を与えます。

しかし、のちに有馬は島津の圧力に苦しむことになります。

島津は反キリシタンでした。

島津にとって、残る敵は大友だけ。

1586年、大友の領土に攻め込み、掠奪を繰り広げます。

困った大友は秀吉に援助を求めます。

これにより、1587年、秀吉軍が加わります。

秀吉の大軍に敗れ、島津氏は秀吉の軍門に下ります。

1585年、「惣無事令」を出して私闘は禁じておったんじゃがな。

島津よ、ちょっと遅かったな。

のちに島津氏は文禄・慶長の役で大活躍。関ヶ原の戦いでは西軍として家康と戦うことになりますが、この九州平定時に石田三成が仲介して所領安堵を図ったことを恩義に感じていたという話です。→【経済で謎を解く関ヶ原の戦いはコチラ

その「文禄・慶長の役」なんだけど、何が困ったのかって本陣の置かれた名護屋って大村領、有馬領と超至近距離なんだよねー。

文字通り、「息をひそめて」活動せざるを得なかった。

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