~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

☞【九州と畿内で布教の違いは?】『バテレンの世紀』(渡辺京二、2017年、新潮社)

バテレンの世紀』第4章、5章より。

ザビエルからトルレスへ

実のところ、布教と言う点でザビエルが果たした役割は大したことありません。

イエズス会の基本方針としては、その国の領主を改宗させることです。そのためザビエルも京都へ向かいました。

しかし、この時期、京都が荒れていた時期で、誰が支配者かすらわからないような、非常に危険な状態でした。

私が入京した1551年は三好長慶に対して細川晴元・将軍足利義輝が対している状況デシタ。

しょうがなく、一時、身を置いた大内氏のもとへ行きます。

ここで布教活動を続けるのかと思いきや、ザビエルはインドへ帰り、次に中国を目指すのです。

ただ、日本では、私の生涯でもこれほどの霊的な満足感を受けたことは決してなかったノデス。

日本人ほど優れた異教徒はイマセン。

じゃあ何で帰ったんだよ~?

ってことになりますが、仏僧や訪問客から何度も論戦を挑まれたり、精魂尽き果てたんだよな~。

おまけに寒いし、食事は少ない。

ザビエルと一緒に日本へ来たトルレスが布教長を継ぎます。

しかし、ここで陶晴賢の乱を経験(1551年)。

さらに、毛利元就により再び戦乱を経験。(1555年、厳島の戦。)

トルレスは山口を諦めて、豊後に行きます。

豊後では、アルメイダが加入することでこれまでの活動から発展しました。

【ルイス・デ・アルメイダ】

1525年ポルトガル生まれの改宗ユダヤ人。医師免許取得後、貿易にも乗り出し、富を築く。

1555年、豊後にて私財を投じて乳児院を建て、1557年には病院を建てる。(日本最初の西洋式病院。)

イエズス会の方針としては布教と商売を切り分けることですが、そんなこと言っていたら宣教師の生活が成り立ちません。

商人でもあるアルメイダが加わることで、その人脈から宣教師の活動費が賄えるようになりました。

さらに、アルメイダはポルトガル船が入港する土地にも影響を与え、貿易の利を得ようとした大名と交渉しました。

その結果、村民全員をキリシタンに改宗する代わりに、大村純忠領の横瀬浦を寄港地と決定します。(※しかし、寺社仏閣破壊したものたちと、旧勢力の間でトラブルが発生したため1年で移動。)

このように、九州では貿易を目的にキリシタンに転じる、というような「見かけ」のキリシタンが主でした。

ヴィレラ、都で苦闘す

一方、京都。

寺社仏閣破壊により領主らとトラブルになり平戸を追われたヴィレラが入京しました。

【ガスパル・ヴィレラ】

1525年ポルトガル生まれ。1557年、平戸に赴任したが寺社仏閣を焼いたりしたため僧侶と対立、領主松浦隆信から追放処分を受ける。(この件で平戸港が閉鎖となり、横瀬浦が選ばれる。)

これにより京都に赴任するが、京都では戦乱が相次いでいたため避難生活を余儀なくされる。

しかし、避難先などで、信者獲得。この中には高山右近などもる。これらの布教には、盲目の日本人「ロレンソ」によるところが大きい。

言葉が通じないポルトガル人にとって、布教は日本人なくして語れない。

「ロレンソこそ日本キリシタン史史上最高の説教使」とフロイスは言っている。

畿内では国人層の入信が相次いだ。
彼らは貿易などの利害ではなく、純粋な気持ちで入信したものが多かった。これが九州との違いである。

これだけ見ると、九州の人々は信仰心が薄かったの?と思うけど、これがのちに異なる結果になるんだ。

あくまでも当初の話。