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☞【幕末年表⑭:1865年・上半期】『死ぬほどの価値のある場面と思ったら、いつでも死ぬべし』

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「幕末年表⑭:1865年・上半期」です。

スタートはたった1人だった高杉晋作の功山寺決起ですが、

なんと、藩論をひっくり返してしまいました。

1865年(元治2年/慶応元年)上半期

1/4 幕府、慶勝を通じて長州藩主毛利敬親・広封父子の江戸召喚の方針伝える

※そうすれば反抗しないだろうと思ったが、そうはいかなかった。
※回答を延ばしている間に軍備を整える。
1/6絵堂の戦い

※山県有朋が率いる奇兵隊の奮戦により正義派が形勢逆転
2/4天狗党員の処刑開始(※追記)

※徳川慶喜は水戸藩出身であるにも関わらず温情ナシの姿勢
3/12神戸海軍操練所停止

※勝海舟罷免による。弟子が禁門の変に参加したりして、老中・阿部正外の不興を買う。
※勝海舟の斡旋で坂本龍馬は薩摩藩の庇護を受けることに。
3/17長州藩、幕府への武備恭順(戦争も辞さない)が藩論に正式決定(※1)

※高杉晋作功山寺決起から始まった「元治の内乱」は正義派の勝利。
※この内戦で活躍したのが山県有朋。
※高杉晋作、伊藤博文は下関を開港しようとしたため攘夷志士たちに命を狙われることになり逃亡。
3/22 薩摩藩士五代友厚ら、英国に留学。
4/7慶応に改元
4/15アメリカ南北戦争終結

※死者70万人以上とも。
4/26長州藩のリーダーに桂小五郎が迎えられる

※高杉を狙わないと攘夷派リーダーと話をつけることで、高杉、伊藤も帰藩。
5/1坂本龍馬、中岡慎太郎、薩長同盟に奔走(※2)

※西郷、桂と会い、2人を会わせることに。
5/16 家茂、長州藩再征のため江戸城を進発。

※後継には4歳の田安亀之助(家達)を指名。
※篤姫は慶喜を14代将軍にするために大奥に入ったが、家茂将軍就任後は家茂への印象が良くなる一方、慶喜への印象は悪化していた。
閏5/2英国第2代公使ハリー・パークス着任(※3)
閏5/11土佐藩、武市半平太切腹。土佐勤王党壊滅。
閏5/21桂と西郷の会談予定であったが、西郷が第2次長州征討を止めるべく急遽京都へ向かったため会談中止

※桂は激怒するが、坂本・中岡は諦めず。
閏5/22 家茂、京都に入る
閏5/28俗論派・椋梨藤太切腹

(※1)高杉晋作、藩論をひっくり返す!

(高杉は)1864年12月に下関で挙兵し、藩の主導権を握った。この勢力は領内の豪商・豪農や村役人層とも結んで恭順の藩論を転換させ、軍政改革を行って軍事力の強化をはかっていった。

「詳説日本史研究」p325
なんべんも言いますが、挙兵した時は1人ですよ。

「死ぬほどの価値のある場面と思ったら、いつでも死ぬべし」

これが高杉晋作という男よのう。

あ、私、この時期も逃亡中です。

すごいでごわすな…
しかし、この後、下関開港を進めたので、攘夷派から命を狙われます。

しょうがないので四国に逃げます。

大村益次郎
軍政改革は私にお任せあれ。

あ、私、元医者ですが、そっちの方は向いてないようで…。

山県有朋
私の活躍も見逃せませんな。
ただ、リーダーとして迎え入れられたのが私、桂小五郎です。

なぜか、って?

それは私は撫育局のトップをやっていたからですよ。

そして、この頃、木戸孝允と名前を変えました。

こうした長州藩の動きに対して、幕府は第2次長州征討を企画します。