~只今、全面改訂中~

☞【幕末年表⑬:1864年・下半期】『可能なら非公式に、必要ならば公式に支配を拡大』

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「幕末年表⑬:1864年・下半期』です。

いよいよ長州藩は皇居に乗り込み、戦闘開始となります。(禁門の変

しかし、激戦の末、長州藩は敗北。

来島又兵衛久坂玄瑞といった攘夷派の中心人物の多くを失いました。

また、この戦闘の最中、長州藩は御所へ向かっても発砲しました。

その罪を咎めるべく、朝議で「長州征伐」が決定しました。

さらに、この時期、英仏蘭米が、長州藩へ砲撃を仕掛け、長州藩は大打撃を受けました。(四国艦隊下関砲撃事件)

これには幕府の横浜鎖港問題への牽制も含みます。(後述。)

さて、征長軍の総督に選ばれた徳川慶勝はどうするでしょうか?

また、長州藩はどうなっていくのでしょうか?

1864年・下半期

7/2 慶喜、長州藩兵に伏見退去求める。

※6/27日の御所での会議では「すぐさま討伐する」と宣言しておきながら、直後にこれ。
※説得工作に当たったのは腹心の永井尚志。
※会津藩にとってはこの慶喜の「ふらふらした」態度は不満。
※もっとも諸藩も「日和見」であった。親長州の鳥取、岡山藩主は慶喜の兄弟でもあった。
水戸藩は思想的には長州と同じであるのも影響したか?
7/18 朝廷の会議で長州藩討伐決定

※諸藩も二択を迫られる。
7/19 禁門の変(※1)
長州藩兵、京都に入り、薩摩・会津藩兵らと交戦するも敗北

※それまで慶喜は不信感が持たれていたが、これでようやく慶喜(一橋)、容保(会津藩)、定敬(桑名藩)は連携する。
※しかし、会津は朝廷のためにいくら頑張っても幕閣からも疑念を持たれる。老中稲葉正邦により支給されていた1万両が年末にストップする。
※百万石を抑えていた加賀藩は長州びいきのせいもあって戦わずして国元へ帰り、存在感を全く発揮できず。
7/23 長州藩追討の勅命が出される

※御所に砲撃したことで朝敵となる
※15万の大軍が集結。
長州藩は幕府に謝罪する派(=俗論派)と、戦闘も辞さない派(=正義派)で対立
8/5 四か国連合艦隊、下関砲撃(※2)
8/7征長軍の総督が尾張藩主・徳川慶勝に決定
8/8四国艦隊下関砲撃事件の講和会議(※3)

高杉晋作が講和使節の使者に選ばれる。(ただし、偽名を用いる)
※彦島租借要求に対して高杉晋作は古事記を暗唱。英国側通訳アーネスト・サトウに「ルシファー(悪魔)が舞い降りた」と言わせるほどの凄み
※賠償金は「攘夷を指令した」との理由で幕府に払わせると決定。
9/11勝海舟と西郷隆盛が初めて会う@大坂
10/24西郷隆盛、徳川慶勝に腹案を示す

※内戦している場合ではないと、2人の意見は一致。
※西郷は全権を委任される。内戦回避に奔走。
※長州藩は俗論派が優勢に
11/11 長州藩、禁門の変の責任者を断罪に処す※4

親相、益田親施、福原元僴の三家老+四参謀。
※長州藩の処遇が幕末史の1つのポイント。
12/15高杉晋作、功山寺挙兵※5

「死ぬほどの価値のある場面と思ったら、いつでも死ぬべし」
12/27 征長総督徳川慶勝、広島から撤兵する。※6

※参謀・西郷隆盛が講和条約をまとめた。
※総督を慶勝にしたのが幕府方の最大の失敗ではないか。
※当初、薩摩藩士・小松帯刀も西郷隆盛も長州厳罰のつもりでいたが、勝海舟に説得され変更。

★ここがターニングポイント。

(※1)禁門の変

(長州藩は)池田屋事件に憤激し、藩兵を京都の攻めのぼらせた。しかし彼らは、迎え撃った幕府側の薩摩・会津・桑名の藩兵と京都御所付近で戦い、敗走した。(禁門の変)

「詳説日本史研究」p324
もはやここまでか…
だから言ったじゃないですか…

高杉、後は頼む…

またこれで長州藩の恨みを買ってしまった…

長州藩の気持ちもわからなくもないでごわすが、
しょうがないでごわす…
っていうか、御所に発砲するとか、何考えてんだ!!