~只今、全面改訂中~

§4.吹き荒れる攘夷の嵐

孝明天皇により水戸藩に「戊午の密勅」が下された(1858)。
水戸藩・激派は「桜田門外の変」(1860)を起こして井伊直弼を虐殺。
孝明天皇の意向は「尊皇攘夷、公武合体」で、和宮降嫁の際の条件として「10年以内の攘夷」を幕府に約束させた。これにより「許勅なしの日米修好通商条約問題」は落ち着きを見せた(1860)。

孝明天皇自体が「公武合体&尊皇攘夷」。つまり、「公武合体」vs「尊皇攘夷」という図式は成立しない。

小栗上野介らを乗せた遣米使節団はアメリカ各地で歓迎を受けた(1860)。
井伊直弼はアメリカ主軸外交を考えていたが、翌年アメリカ南北戦争勃発
日本も外交方針を大幅に変更せざるを得なくなり、対馬事件(1861)を経てイギリスを頼ることに
翌年には遣欧使節団を派遣。

♨通商条約はアメリカを皮切りに、イギリス、ロシアとも結ばれた。当時、最初に条約を結んだ国が一番恩恵を受けられるようなルールがあった。英露を避けて最初にアメリカと結んだ選択は悪くなかったと評価される。

坂下門外の変(1862)後、安藤信正は辞任。この頃より京都はテロリストの巣窟となる。
公武合体推進派は狙われ、岩倉具視は隠居。土佐では吉田東洋、萩では長井雅楽が殺害および切腹。勢いづいた攘夷派の三条実美は幕府に対して「攘夷督促の勅命」を伝え、将軍家茂は2か月後と答えざるを得ない状況に追い込まれる。

さらに萩藩は米仏蘭に砲撃、即、仕返しを受ける(1863)。孝明天皇は「攘夷は時期尚早、長州排除」の方針へ。三条実美らは国賊とされ長州に落ち(七卿落ち)、京都は束の間の平穏に

しかし、攘夷派の水面下での動きは続き、水戸では天狗党の乱(1864)、京都ではクーデターの密談中を新撰組が斬り込んだ「池田屋事件(1864)」があった。

この10日後に長州本隊が出撃し、孝明天皇を連れ去ろうとした蛤御門の変がおきる。「攘夷と言うアクセルを踏んだらブレーキが効かなくなった」というのが明治維新を表した言葉。

【年表】(※注:世界史との関連から新暦記載)

1858年9月 孝明天皇から水戸藩に「戊午の密勅」が下される   
1859年7月 横浜、長崎、函館が開港。ロシア、イギリス、フランス、オランダ、アメリカと貿易開始するも、以後、攘夷派、水戸浪士などによる異人斬りが横行。
1859年10月 井伊直弼、水戸藩家老安島帯刀に切腹指令、鵜飼吉左エ門斬首、鵜飼幸吉獄門、徳川斉昭水戸での永久蟄居、慶篤、慶喜にも罪を加重。安政の大獄の始まり。


イギリスで第2次パーマストン内閣成立(~1865)、翌年、アロー戦争。
1860年2月 遣米使節団。小栗上野介ら77人。井伊直弼はアメリカ主軸外交を考えていたであろう。アメリカで歓迎を受ける。咸臨丸にて太平洋横断。木村喜毅を提督とし、アメリカ海軍ブルーク大尉、勝海舟、福沢諭吉、中浜万次郎らが乗る。
1860年3月 密勅返納を決定した水戸藩に対して激派が実力阻止を試みる。会沢正志斎は激派を逆賊として討伐へ。
1860年4月 これを知った高橋多一郎は脱藩して江戸へ逃れ、「桜田門外の変」を起こす。密勅返納問題はうやむやに。
1860年8月 和宮降嫁の交換条件として幕府は10年以内の攘夷の誓約を誓わせられる。
これにて幕府と朝廷の対立は幕府が膝を屈する形で妥協成立。
1860年9月 徳川斉昭、心臓発作で死去。
1861年3月 リンカーンの大統領当選を不服としたアメリカ南部でアメリカ連合国建国。翌月には南北戦争勃発。
日本の方針も変更を余儀なくされる。
1861年4月 遣米使節団の成果を見て、萩藩は長井雅楽「航海遠略策」を藩是として採用。これは公武合体と開国方針を結合させたもので「朝廷が幕府に開国を命令すべし」とした点が画期的であった。これは幕府にとっても好都合。孝明天皇も感化される。長井雅楽の功績は大きい。
1861年5月 対馬事件。軍艦で押し寄せ、勝手に兵舎を建てたロシア水兵に住民が射殺。戦争勃発寸前となるも、8月にイギリス軍艦が支援に来て9月にはロシア軍艦退去。
1862年2月 坂下門外の変」で水戸浪士に老中安藤信正が襲撃される。
遣欧使節団(外国奉行竹内保徳、福沢諭吉、福地源一郎ら36名。)
1862年3月 将軍家茂と和宮の婚儀。
1862年5月 安藤信正辞任。この頃から京都は攘夷派の坩堝となり騒然。真木和泉、薩摩藩士有馬新七、筑前藩士平野国臣、萩藩士久坂玄瑞ら。
 土佐では土佐勤王党により土佐藩主から信頼の篤かった公武合体派の吉田東洋が暗殺。
1862年6月 遣欧使節団、イギリス外相ラッセルとの間でロンドン覚書調印。兵庫開港、江戸・大坂開市を5年間延期。ただ、遣米使節団の時のような熱気と心的交流は生じなかった。
1862年7月 攘夷派からの排斥運動を受けて関白九条尚忠辞職。その後、出家。九条家家臣ら、和宮降嫁を推進した岩倉具視らも標的に。萩藩では久坂玄瑞の非難を受け、長井雅楽が失脚、のち切腹。

萩藩の藩是は「公武合体・開国容認」から「条約破棄・攘夷断行」へと変わり、保守派と急進派が対立。
1862年9月 京都はテロリストたちの温床に。幕府の要請を受けて、名君の誉れが高い会津藩主松平容保が「京都守護職」に

 ※生麦事件
1862年12月 三条実美、幕府に「攘夷督促の勅命」を伝える。これに対して、具体策を説明すると将軍家茂、一橋慶喜、松平春嶽、山内容堂、島津久光らが入京。しかし、攘夷の不可能を知りながら攘夷の命は受けられないとして、公武合体派の有力藩主は京都から去る。
1863年4月 朝廷が将軍家茂は攘夷開始の期日を強く迫られ2か月後と答える。
ただし、「外国より襲来した時のみ、これを打払え」とする。
1863年6月 「日本側からは攻撃しない」と通告していたにも関わらず、久坂ら萩藩攘夷派は外国船(アメリカ船、フランス船、オランダ船)を砲撃。オランダ船は国旗を高く掲げて、250年以上の友好をアピールしていたにも関わらずだ。
1863年7月 アメリカとフランスはただちに萩藩に報復。オランダは日本との親交に見切りをつける。

(昭和16年、日本と米英どちらを選ぶか迫られたオランダは対日石油輸出禁止を決定。この時の恨み??)
1863年8月 真木和泉、再び入京。攘夷論が再び加熱。将軍家茂は閉口し、江戸へ帰る。
京都は再びテロの嵐が吹き荒れ、公武合体派が狙われる。
1863年9月 いよいよ孝明天皇も、公武合体の立場から軍備が充実していないうちの攘夷は時期尚早と見方を発表し、長州排除へ。会津藩と薩摩藩が主体となる。三条実朝ら攘夷派の公卿7人は長州へ下る(七卿落ち:八月十八日の政変)。孝明天皇は三条実美らが自らの野望を遂げるために天皇の権威を利用していることに激怒され、三条実美を「国賊」と断罪。こののち、しばらく京都は平穏に。
1864年4月 水戸藩において尊攘運動が活発化。筑波山挙兵に端を発し、「天狗党」と名を変え、入京を目指すも、一橋慶喜(鎮派)には認められず、翌1月、武田耕雲斎、藤田小四郎ら352名斬首。
1864年7月 池田屋事件。孝明天皇を長州に連れて行こうと画策していた攘夷派の密談中の場に新撰組が入り、攘夷クーデター一派の京都支部は壊滅。この10日後、長州藩本隊と真木和泉ら他藩の志士ら計3000人以上で京都へ。翌月、京都へ進撃。伏見口で会津藩、大垣藩、彦根藩兵と戦闘、蛤御門において、来島又兵衛、国司信濃らと会津藩、桑名藩、薩摩藩(西郷隆盛ら)が戦闘。来島又兵衛、久坂玄瑞、入江九一戦死、真木和泉自刃。

「戊午の密勅」…孝明天皇より水戸藩、尾張藩、薩摩藩、加賀藩、長州藩などへ伝わる。内容は、
①井伊直弼を糾弾せよ、
②尊皇攘夷、公武合体に努めよ、
③密勅の趣旨を全国の諸大名に伝達せよ、
とのもので水戸藩に幕府転覆しろと言っているようなもの。これが幕末の抗争の最大原因でもある。水戸藩も「激派」と「鎮派」に別れた。井伊直弼は戊午の密勅返納を水戸藩に要求するも、「激派」は阻止すべく気勢を上げる。これにより井伊直弼は「安政の大獄」を開始。

激派…「桜田門外の変」「坂下門外の変」「天狗党の乱」などを引き起こす。高橋多一郎、武田耕雲斎らが指導。

鎮派…尊皇攘夷を最初に唱えた会沢正志斎ら。

和宮…有栖川宮という婚約者がいたが、家茂と結婚することを受け入れる。幕府に対して攘夷の交換条件を画策したのが岩倉具視。1868年、江戸城開城に際して徳川慶喜の助命嘆願を働きかけたのは和宮であり、江戸城無血開城が行われたのは彼女のおかげでもある。ちなみに西郷隆盛は和宮のことを「賊の一味」と呼んでいる。西郷や大久保に「尊皇」の心があったのかは疑問。

軍艦奉行木村喜毅…咸臨丸提督。三男駿吉はハーバードで電気工学を学び、無線機を発明。これが日露戦争時における「敵艦見ゆ」(バルチック艦隊発見)に役立つ。

南北戦争…ハリスは井伊に「列強が来たらアメリカは日本のために阻止する」と言っていたが、そのアメリカが南北戦争により日本どころでなくなってしまった。1858年にはペリーも死去。日本のアメリカ主軸の外交基本原則は破綻し、安藤信正は対馬事件を機にイギリスを頼ることになった。イギリス総領事オールコックは通商条約の緩和を行い幕府に恩を売り、主導権を握る。南北戦争においてイギリスは南を支援、ロシアは北を支援。

真木和泉…久留米水天宮第22代神主。急進的攘夷派の思想的リーダー。先祖が安徳天皇を祭る。「手始めに関白九条尚忠(幕府に協力的であった)と京都所司代酒井忠義を血祭りに上げる。」と宣言。九条尚忠は失脚、酒井忠義は二条城に逃げ込む。「天誅」の名のもとに貿易商や富家にも危害が。中山忠能(明治天皇の祖父)によれば、「彼ら尊攘派は薩長藩士ではなく、浮浪烏合の者で、勤王問屋といわれている。勤王を名として今日を暮している」と嘆く。

三条実美…京都の情勢に乗じて、幕府に攘夷を行わせようと天皇に上申し、出世。

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