~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

前編はコチラ

§5.慶喜が条約勅許を得る

1863年には薩英戦争、1864年には新たにイギリス公使となったパークス主導で四国艦隊による下関砲撃がおきる。この講和条約に高杉晋作が臨むが、賠償金は幕府に転嫁する。一方、第1次長州征伐が行われようとするが、西郷隆盛が勝手に講和条約を結び、徳川慶勝はそれに追従するだけで何もせず、「何も始まらないまま終わる」。高杉晋作功山寺決起で攘夷派が再び権力を握ったため、第2次長州征伐が計画されるが、パークスは4か国の公使とともに、幕府に勅許を得ることなどを厳しく要求。老中阿部正外と慶喜の激論を経て、慶喜が勅許を得ることでようやく解決。

【年表】(注:新暦)

1862年6月 ロンドン覚書
1862年7月 西周、榎本武揚ら欧州へ留学。
1862年9月 生麦事件
1863年3月 イギリス、幕府に「謝罪と賠償金10万ポンド」、薩摩藩に「犯人逮捕および死刑と2万5000ポンドの賠償金」を要求。この時、幕府は三条実美からの攘夷の勅命に対し具体的方策を述べるために上洛するところというタイミングの悪さ。老中格小笠原長行、生麦事件は事故として賠償金を払うとの決断で戦争回避。
1863年6月 萩藩、外国船砲撃。翌月、報復を受ける。 (ここでは書かれていないが、外国船砲撃の2日後に長州ファイブがイギリスに密航している。)
1863年8月 薩摩藩は下手人処刑に応じず、ついに薩英戦争勃発。緒戦は薩摩が優勢であったが、アームストロング砲投入で形勢逆転。鹿児島市街が焼かれた。薩摩側は戦死者1名、流れ弾で4名死亡。英側は死者13名、負傷者50名。賠償金を幕府から借りて払うことに。ちなみにこの戦争に際して、イギリス商人は薩摩へ武器を売ろうとしており、イギリス海軍から苦情を受ける。
1863年9月 七卿落ち。長州排除。
1864年2月 オールコックが2年ぶりに日本へ。長州藩の変貌に驚く
1864年4月 天狗党の乱 フランス公使にロッシュが就任。イギリス追随から一線を画す。
1864年7月 池田屋事件。蛤御門の変(禁門の変)。
1864年8月 オールコック主導のもと四国艦隊が下関へ出発。この時、長州藩は蛤御門の変で破れ、御所に発砲したことから朝敵となっていた。さらに長州藩追討令が出されており、存亡の危機に立たされていた。
1864年9月 四国連合艦隊砲撃開始。萩藩は降伏するも、芸州、因州では素朴なナショナリズムが生じる。賠償金3万ドルという苛酷な金額が要求される(強力軍艦7隻分)。高杉晋作はこれを幕府に転嫁
1864年11月 萩藩では保守門閥派の椋梨藤太が実権を握る。奇兵隊は解散。高杉晋作は身の危険を感じて博多へ潜伏。西郷隆盛「長州藩が二派に分かれていることは天の賜物と申すべきである。対立しているものを、ともに1つの死地へ追いやることは、誠に無策というべく、実に拙い次第である。」
1864年12月 第1次長州征伐。しかし、ここで総攻撃の前に西郷隆盛は勝手に長州藩一門吉川経幹との間で講和条件をまとめ上げる。①蛤御門の変の責任者である三家老切腹、②三条実美らの他藩移転、③山口城破却である。
1865年1月 広島に到着した総督徳川慶勝は西郷の処置を追認し、解散。第1次長州征伐は「始まることなく終わった」苛酷な賠償金を肩代わりさせられたうえに、何もしないで帰る徳川慶勝に批判が集中。(※ここが歴史の分岐点では?
1865年2月 功山寺で決起した高杉晋作は徐々に大集団を形成し、保守門閥派との戦に勝利。椋梨藤太斬首。大村益次郎のもと兵制改革が行われる。
 フランス公使ロッシュの支援で横須賀製鉄所が建設。
1865年6月 第2次長州征伐が決定。将軍家茂も大坂へ。
この月、駐日イギリス公使がオールコックからパークスへ交代。対日戦略も恫喝に。パークスは天津条約の元となった人物である。
1865年10月 パークスはじめ4か国の公使は兵庫沖へ移動し、「勅許なしでは下関戦争での賠償支払い延期を認めない」方針などを第2次長州征伐準備中の幕府に突きつける。(このため、第2次長州征伐は遅れ、その間に長州は軍備を整えた)長州は賠償金を幕府に転嫁したうえに、再軍備を整え、イギリスと組んでいるようにしか見えない。会議では勅許なしでの兵庫開港やむなしとする老中阿部正外と勅許を得るべしとする一橋慶喜の間で激論。ちなみにこの月、第2次パーマストン内閣退陣。
1865年11月 なんとか回答延期をとりつけ、朝議の場を設けた慶喜は自分の身を賭してでも、との覚悟を示し、孝明天皇もようやく納得。勅許を出す。これにより異人斬り、外国公使館襲撃、外国船砲撃などはピタリとやむ。兵庫開港は許可されなかったが、パークスらは一応満足。井伊直弼や堀田正睦が得られなかった勅許はようやく実現した。この通商条約は明治の改正を経て1939年にアメリカが破棄するまで続けられる。

京の着倒れ…通商交易開始によって軍艦等を輸入、生糸は輸出に回される。その結果、国内では品薄になり物価上昇。これにより絹をまとう公家であったり、花街の人々がダメージを受けた。花街の人が、攘夷論者を匿うと、見つけ出すのはなかなか困難。

生麦事件(1862.9)…島津久光は「一橋慶喜と松平春嶽を要職につけるよう」幕府に意見。しかし、その帰り道、生麦村においてイギリス人が大名行列にさしかかり、斬られる事件が起きる。この地域は外国人が通行可能であるが、大名行列には斬り捨てごめんの特権があるため、ダブルスタンダードの地域となっていたのである。また、鉄砲の存在があるため、駕籠に近づかれると護衛のものとしては防御せざるを得ない

イギリス公使オールコックと代理公使ニール…生麦事件当時、オールコックはロンドン覚書のために帰国中。ニールが事件処理に対応した。オールコックは懐柔外交の宥和政策で臨んでいるため、イギリス居留民の不評に屈することなく訓令を仰ぐ。

小笠原長行…かつて阿部正弘に抜擢され、今は隠居中の水野忠徳に意見を求める。ここで、「朝廷の命令に従って攘夷は行う。しかし、生麦事件は次元の異なる偶発事故であるため、事故として賠償金を払うべき」と熱弁。小笠原長行の独断専行という形で実行し、戦争を回避した。

薩摩藩…薩英戦争で開国に転じた、と誤って教えられている教科書もあるが、薩摩藩は一貫して開国派である

パークス…13歳で清国へ渡り、20年以上清国に滞在。広東領事としてアロー号事件に火をつけて戦争を起こし、天津条約を結んだ人物。上海領事などを歴任し、駐日公使となる。下関戦争での賠償金を1866年までに支払、ロンドン覚書で決定した兵庫開港、大坂開市の繰り上げおよび勅許を得ること、関税引き下げなどを要求。

§6.イギリスが薩長を支援

アメリカ南北戦争終結(1865)で大量の新型武器が余ったため、イギリス商人はこれを薩長へ売る。その仲介役となったのが坂本竜馬である。仏米蘭は「四国共同覚書」(1865)でイギリスの動きを牽制するも、グラバーらイギリス商人の動きをイギリス公使パークスは黙認。それどころか、アーネスト・サトウは「英国策論」を発表し、イギリスは親薩長・反幕府を明確にする。武器を蓄えた長州は第2次長州征伐で幕府軍を圧倒。

【年表】(※新暦)

1865年5月 アメリカ南北戦争終結。→大量の武器が上海へ。 幕府はグラバーを通じて大砲などを注文したが、グラバーはその手付金を薩摩藩へ供与。さらに2年後の1867年に大砲が完成したが、これを難癖付けて長崎の倉庫に入れて、なかなか幕府に引き渡さなかった。坂本竜馬、大坂薩摩藩亭を経て西郷隆盛らと薩摩へ。
1865年6月 「四国共同覚書」(イギリス、フランス、アメリカ、オランダ) 坂本竜馬、亀山社中設立。薩摩藩の契約業者となり、長州と薩摩を結び、武器や米、情報等を運ぶ。要は内戦で使用する武器を密貿易する会社である。
1865年10月 パークスはじめ4か国の公使は兵庫沖へ移動し、「勅許なしでは下関戦争での賠償支払い延期を認めない」方針などを第2次長州征伐準備中の幕府に突きつける。(このため、第2次長州征伐は遅れ、その間に長州は軍備を整えた)長州は賠償金を幕府に転嫁したうえに、再軍備を整え、イギリスと組んでいるようにしか見えない。会議では勅許なしでの兵庫開港やむなしとする老中阿部正外と勅許を得るべしとする一橋慶喜の間で激論。ちなみにこの月、第2次パーマストン内閣退陣。第2次ラッセル内閣へ(~1866年6月)。
1865年11月 慶喜の熱弁により許勅が得られる。
1866年2月 薩長同盟成立
1866年4月 外相クラレンドン「日本においては政治的影響力の行使を求めるのではなく、単に通商の発展だけを求め、内乱の際は厳正な中立政策を採るよう」パークスに宛てる。届いたのは2か月後であり、すでに中立になっておらず、遅かった。 西周、幕府開成所教授に。
1866年5月 アーネスト・サトウ『英国策論』をジャパンタイムズに匿名で寄稿。内容は「タイクンの地位を引き下げ、ミカドを元首とする」という内容であり、薩長の藩論と合致している。この後、イギリスの国策はこの「英国策論」どおりの進展を見せる。
1866年6月 幕府、長州に宣戦布告。パークス、ひそかに高杉、伊藤と会談。
1866年7月 幕府の攻撃が始まると、薩摩へ入り、雄藩による倒幕を勧めるとともに支援を約束。以後、西郷はパークスの言いなりに。幕府と長州の戦いは「戦争と言うより狩猟」。長州藩の小銃が威力を発揮する。
1866年8月 小倉口、石州(鳥取)で幕府軍は全て敗れる。士気の違いも大きい。幕府軍副総督老中本荘宗秀は長州の裏にイギリスがいて、第2次長州征伐が国際戦争の様相を呈していることを見抜き、悲痛な報告。家茂、病死。

イギリス武器商人グラバー…下関は武器密貿易の拠点に。上海経由、長崎経由などで大量の武器が売買される。グラバーは18歳で上海に渡り、21歳で長崎のマセソン商会で働き、その後、独立。南北戦争で用済みになった最新鋭の小銃を長州に売った。下関戦争での賠償金を幕府からせしめ、それを長州に信用供与していた可能性もある。これでは軍事バランスが逆転するのも当然だ。明確に親薩長・反幕府。パークスとは生い立ちも似ており、グラバーは「パークスの片腕」とも言われる。「徳川政府への叛逆人の中で、自分が最も叛逆人だと思う。(『史談会速記録』より)

※『四国共同覚書』…幕府と長州の戦争において、①厳正中立、②絶対不干渉、③密貿易禁止、を取り決め、内政不干渉を約束する。背景にはイギリスが長州を応援していることを他国が知っていて、牽制する狙いがあったのだが、強力な大英帝国の前に、この約束は守られることはなかった。当時開港していたのは長崎、函館、横浜であり、当然、長州薩摩で行われているものは密貿易である。「それなら上海で貿易すれば良い」とグラバーは出貿易を入れ知恵するが、これは1858年の日英通商条約14条である「武器輸入は幕府に限る」に反する。つまり、グラバーは国際条約を無視して反政府勢力に武器を売り続けた

密貿易vs幕府探索方…幕府も節穴だったわけではない。大村益次郎が上海でアメリカ商人を通じて武器を買ったことは把握しており、抗議して処分してもらった。長州藩はそんなにお金がなかったので、米での支払いを希望したが、米をイギリス人は食べないのと、これを大阪で換金するとなると足がつくので、薩摩藩を経由するという形をとった

第2次パーマストン内閣(1859~1865)就任翌年にアロー号戦争を起こす。日本に対しては当初、オールコックの進言によりロンドン覚書に調印するも、徐々に武断的性格をあらわにし、1863年生麦事件後の薩英戦争、1864年には四国艦隊砲撃事件を起こす。1861年の南北戦争にも南軍として参加しようとしていたが、これは周囲に止められ(※なぜ?)、その代わりに、矛先が日本に向かった。

イギリス公使館通訳官アーネスト・サトウ…日本文化に憧れて19歳で来日。日本語に堪能であり、パークスの助言者となる。

※(別資料より)第2次長州征伐で長州は朝敵となったにも関わらず、薩摩は従わず。孝明天皇は幕府を信頼していた。孝明天皇は毒殺された。犯人として岩倉具視、伊藤博文が疑われている。伊藤博文は忍者である。??

♨幕府軍の士気が低いのは長年続いた参勤交代も原因では?とも思ったり。

§7.徳川慶喜の登場

第2次長州征伐は長州軍の勝利。将軍家茂は病死。慶喜は将軍就任をいったんは拒否するも、翌年、正式に将軍就任。しかし、その直後、孝明天皇が35歳で崩御された。慶喜は最大の理解者を失うも、ロッシュらの支援のもとで陸軍をフランス式に改革し、外国公使を招いて兵庫開港を宣言。勅許も得て、国内的合意と国際的公約を果たす。徳川慶喜の辣腕は長州藩士、岩倉具視らを恐れさせる。

【年表】(注:新暦)

1866年8月 浜田城落城の2日後、将軍家茂病死。慶喜は将軍になることは拒否。徳川家の私闘として第2次長州征伐を戦う決意をする。
1866年9月 小倉城落城。幕府軍撤兵へ。
 フランスの支援で陸軍の軍制改革を行う。旗本軍団は全員銃隊へ組み替える。
1867年1月 慶喜、将軍に正式就任。その20日後、孝明天皇35歳で崩御(暗殺説あり)。慶喜は最大の理解者を失う。
1867年3月 横浜の伝習所でフランス陸軍士官ら18名による教育開始
1867年4月 大坂城へ外国公使を招き、兵庫開港を公言。勅許を得ると約束。
1867年6月 徹夜での朝議の結果、ついに兵庫開港勅許を獲得。「長州藩への処分は寛大にする」とも。これは幕府陸軍の存在感による。これにて1858年以来の2つの課題、「国内的合意を得るとともに、国際的公約を果たす」という課題をようやく解決。

ロッシュ…1864年公使に就任。この時57歳。それまでのイギリス追随とは一線を画す。「アヘン戦争が示すように、イギリスは工業製品の市場拡大のために他国を侵略して顧みない。これに引き換えフランスは芸術、科学もそうであるように軍事上でも偉大な正義を愛する国である。」条約の締結相手であり、日本の正統政府である徳川幕府を支援。フランスとしては東日本で産出される生糸の独占的確保を希望。

生糸…幕末維新における我が国唯一にして最大の産品であり、生糸を制するものが我が国を制する。これらは幕府のお膝元である信濃、上野、陸奥(特に福島)が生産地であり、内乱さえなければ幕府が近代化の担い手になっていたはずだ

フランス式陸軍…明治陸軍も当初はフランス式を採用していたが、普仏戦争などの結果を踏まえて1885年にドイツ式に変換。三浦梧楼らが反対するも山縣有朋が押し切る。しかし、もしフランス式のままであれば、昭和の時代に「統帥権独立」など叫んで道を間違えることはなかったであろう。フランスには「統帥権独立」の思想などない。

§8.大政奉還の思想

慶喜は大政奉還を行い、今後は有力大名の一人として政治を運営していこうと考えていたが、偽の「倒幕の密勅」が薩長に下り、西郷隆盛ら薩長軍が京都へ。この頃、江戸では西郷の命を受けた相楽総三らがテロ行為を行う。朝廷は、「王政復古の大号令」をかけ、その後の「小御所会議」で慶喜の「辞官納地」を決定するが、慶喜は大坂へ行き、諸外国に幕府の正当性を認めさせ優位に。しかし、江戸では薩摩の相次ぐに挑発に対して「薩摩藩邸焼打ち事件」がおき、これに呼応して慶喜は鳥羽伏見の戦いへ。偽の「錦の御旗」の出現などもあり、慶喜はこれからというところで江戸へ撤退。この判断についてはいまだに論考が別れる。朝廷は慶喜追討令を出し、新政府軍は江戸へ向かう。ここまで散々力になった赤報隊は偽官軍として処刑

【年表】(注:新暦)

1867年11月 慶喜、大政奉還。同日、三条実愛邸において、薩摩藩大久保利通、長州藩広沢真臣に朝廷から「倒幕の密勅」が下る。実はニセモノ。黒幕は岩倉具視。
相楽総三ら、江戸でテロ活動。
1867年12月 大久保利通から倒幕の密勅を受けた西郷隆盛、狂気をもって薩摩から出兵。長州も奇兵隊、遊撃隊らが出兵。
1868年1月 大政奉還に対抗して、『王政復古の大号令』その夕刻、小御所会議。慶喜不在で行われ、「辞官納地」が伝えられる。慶喜、大坂に下り、陸海軍を集め、英仏米伊露蘭6か国の公使を引見して、徳川政権の正当性を諸外国に認めさせる。また、「辞官納地」は骨抜きに。
 江戸では薩摩藩の相次ぐ挑発に対して、ついに「薩摩藩邸焼打ち事件」を起こす。
1868年2月 慶喜、首謀者引き渡しがなければ薩摩を攻撃すると表明。幕府軍は大坂から進軍し、待ちうける薩長軍と鳥羽伏見の戦いが開始。しかし、ここで薩長陣営に錦の御旗が(これもニセモノ)。その後、津藩藤堂軍の寝返りなどがあったが、数字の上では幕府軍23000、薩長軍5000とまだ幕府軍優位であり、大坂城で態勢を立て直して反攻と思いきや、まさかの江戸撤退。主戦論者の小栗上野介、榎本武揚、大鳥圭介らの意見を退け恭順に踏み切る。朝廷は慶喜追討令を出す。
1868年3月 赤報隊は偽官軍として捕縛命令。相楽総三、処刑。
1868年4月 明治天皇「五箇条の御誓文」

西周…慶喜のブレーン。1862年7月に出発し、オランダのライデン大学で政治経済学を学び、帰国後の1866年4月より、幕府開成所教授となった。イギリス議会主義を手本とする政治体制を明記した憲法草案を作成。

大政奉還…大政奉還は突然降ってわいたような議論ではない。最初は対米交渉にあたっていた岩瀬忠震が為政の覚悟として語ったもので、この頃の幕府はまだ盤石であった。次に唱えたのが大久保一翁で、1862年、三条実美が攘夷勅命を伝えるにあたっての会議で、「外交交渉権のないものは征夷大将軍でないので返上すれば徳川家は無謀な攘夷を行わずに済むので安泰」と意見。ただ、慶喜はこの時点では大政奉還を行えば毛利幕府となって攘夷を起こして日本が外国に攻め込まれるだろうと推測したために反対。しかし、開国への道筋がつき、新しい政治体制が確立できれば大政奉還も可能と考えており、西周が帰国して家茂死亡時にはすでに考えていたであろう。

島津久光…中央政界への進出を熱望した島津久光であるが、彼が薩摩兵団をもって幕府に協力していれば、イギリス型議会政治の成立とともにイギリス貴族のように上院議員となることが出来た。しかし、パークスやグラバーと組んだ大久保利通の口車に乗って島津幕府を夢見てしまったことで、島津久光の私兵だった薩摩兵団は西郷隆盛にとられ、気が付けば廃藩置県で地方領主の座すら奪われた。

アーネスト・サトウ…桂小五郎に「日本のような後進国には暴力革命がふさわしい」とけしかける。これが大政奉還時の偽の密勅につながる。

西郷隆盛…大政奉還時に、「話し合いや和平路線を模索する有力大名がいればこれを刺殺し、江戸において放火・略奪・強盗・殺人などの非合法活動を行って幕府を挑発し、幕府と戦端を開いて、戦意の乏しい幕府を武力討伐して、『刀槍の時代』に代わる『大砲の時代』を確立しよう。」と話す。薩摩藩邸焼打ち事件により「これで開戦の口実ができた」と笑う。

小御所会議…(出席者)明治天皇並びに公卿衆、大名として徳川慶勝(尾張)、松平春嶽(越前)、山内容堂(土佐)、島津忠義(薩摩)、浅野茂勲(安芸)、藩士として中根雪江(越前)、後藤象二郎(土佐)、大久保利通(薩摩)、辻将曹(安芸)ら。徳川慶喜の「辞官納地」を求める公家に対して山内容堂は、「なんであえて天下の乱開を開こうとするのか!」と「慶喜の出席」を求め、岩倉と激論。しかし、休憩の際、西郷が「短刀一本で片付くことではないか」と暗殺も示唆したことから反対派は沈黙。

相楽総三の赤報隊…鳥羽伏見開戦後、西郷の指示で赤報隊を結成。一番隊は江戸で乱暴狼藉を働いた相楽一派、二番隊は新撰組から分かれた御陵衛士、三番隊は近江水口藩士など近江出身者が中核。赤報隊には清水次郎長と対立した黒駒親分などもいた。新政府になれば「年貢半減」を領民に喧伝し、民衆の支持を得て、新政府軍の江戸進撃を助けた。しかし、翌月には「赤報隊は偽官軍」と言われ、捕縛命令。西郷隆盛の武力討伐に道筋がついた段階で殺された。

終章.万民平等の実現

慶喜が戦うべきだったという主戦論はいまだに根強い。しかし、本物の尊皇である慶喜にはそれができなかった、と言える。会津藩は和平の道を模索するも、西郷は拒絶。武力による制圧をめざし、戦利品は家臣らに分け与えられた。ちなみに日本陸軍の補給軽視戦は長州の伝統。

今なお残る主戦論…大坂城に籠城し、幕府海軍を大坂湾に集結させ、明石海峡と紀淡海峡を封鎖し、相手の補給路を断ち、相手の兵員、弾丸が尽きれば勝てる、という説。

長州は補給戦が苦手…豊かな環境で育ったせいか、毛利家は伝統的に補給軽視。この姿勢は日本陸軍でも続き、伸びきった補給線を分断され日本陸軍を崩壊に導いた。鳥羽伏見の戦いのように短期決戦での成功体験もあったと思われる。

補給戦の主役は海軍力…戦争の勝敗は「補給力」と補給戦の主役である「海軍力」が重要な決定要因である。圧倒的な海軍力を持つ幕府は、まだ戦えた。緒戦で負けてすぐにあきらめた幕府の敗北主義も困ったものだ。

会津藩神保修理…慶喜に尊皇論の立場から恭順の意を示すよう諫言。結果的に慶喜は江戸に向かう。大坂にいたら必ず身柄引き渡しとなっていたであろう。しかし、これは最前線で戦っていた会津藩士の怒りを買い、神保修理は官軍に通じていた疑いで切腹させられる。

関ヶ原の敗戦の雪辱…長州では毎年、家老が藩主に「関ヶ原の儀、いかが致しましょうか?」という秘密の儀式が二百数十年続いた。長州人は利用できるものは何でも利用しようという考えの元、天皇のことも「玉」と呼んだ。派生は水戸学であるが、本物とは明らかに異なる。水戸学の元は、水戸光圀の「大日本史」である。

幕末のポピュリズム…真木和泉は「承久の乱」の成就を夢見た。長州人は玉を掌中に奪って関ヶ原の雪辱を果たそうとした。薩摩藩島津久光は島津>徳川となり、島津幕府を夢見た。水戸藩では激派が、土佐藩では勤王党が暴れた。黒駒親分や、国定忠治の遺児・大谷千乗らは食禄を求めて尊攘を叫んで暴れまわった。坂本竜馬は薩長を合わせて幕府と戦わせるよう武器を売り、高利潤をむさぼろうとした。西郷隆盛が幕末のポピュリストたちの希望の星。

奥羽越戊辰戦争…江戸城から接収した大量の鉄砲、幕府軍艦を使用して、東北諸藩を徹底的に討滅した。その戦利品は食禄として家臣に与えられた。賊軍の汚名を着せられた会津藩は和平の道を探るも、西郷は使者として訪れた広沢富次郎を幽閉し、あくまでも武力による勝利を目指した。

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