~只今、全面改訂中~

§7.徳川慶喜の登場

第2次長州征伐は長州軍の勝利。将軍家茂は病死。慶喜は将軍就任をいったんは拒否するも、翌年、正式に将軍就任。しかし、その直後、孝明天皇が35歳で崩御された。慶喜は最大の理解者を失うも、ロッシュらの支援のもとで陸軍をフランス式に改革し、外国公使を招いて兵庫開港を宣言。勅許も得て、国内的合意と国際的公約を果たす。徳川慶喜の辣腕は長州藩士、岩倉具視らを恐れさせる。

【年表】(注:新暦)

1866年8月 浜田城落城の2日後、将軍家茂病死。慶喜は将軍就任拒否。徳川家の私闘として第2次長州征伐を戦う決意をする。
1866年9月 小倉城落城。幕府軍撤兵へ。

 フランスの支援で陸軍の軍制改革を行う。旗本軍団は全員銃隊へ組み替える。
1867年1月 慶喜、将軍に正式就任。その20日後、孝明天皇35歳で崩御(暗殺説あり)。慶喜は最大の理解者を失う。
1867年3月 横浜の伝習所でフランス陸軍士官ら18名による教育開始
1867年4月 大坂城へ外国公使を招き、兵庫開港を公言。勅許を得ると約束。
1867年6月 徹夜での朝議の結果、ついに兵庫開港勅許を獲得。「長州藩への処分は寛大にする」とも。これは幕府陸軍の存在感による。これにて1858年以来の2つの課題、「国内的合意を得るとともに、国際的公約を果たす」という課題をようやく解決。

ロッシュ…1864年公使に就任。この時57歳。それまでのイギリス追随とは一線を画す。「アヘン戦争が示すように、イギリスは工業製品の市場拡大のために他国を侵略して顧みない。これに引き換えフランスは芸術、科学もそうであるように軍事上でも偉大な正義を愛する国である。」条約の締結相手であり、日本の正統政府である徳川幕府を支援。フランスとしては東日本で産出される生糸の独占的確保を希望。

生糸…幕末維新における我が国唯一にして最大の産品であり、生糸を制するものが我が国を制する。これらは幕府のお膝元である信濃、上野、陸奥(特に福島)が生産地であり、内乱さえなければ幕府が近代化の担い手になっていたはずだ

フランス式陸軍…明治陸軍も当初はフランス式を採用していたが、普仏戦争などの結果を踏まえて1885年にドイツ式に変換。三浦梧楼らが反対するも山縣有朋が押し切る。しかし、もしフランス式のままであれば、昭和の時代に「統帥権独立」など叫んで道を間違えることはなかったであろう。フランスには「統帥権独立」の思想などない。