~只今、全面改訂中~

§6.イギリスが薩長を支援

アメリカ南北戦争終結(1865)で余った大量の新型武器は、イギリス商人により薩長へ売られる。この仲介役となったのが坂本竜馬。

仏米蘭は「四国共同覚書」(1865)でイギリスの動きを牽制するも、グラバーらイギリス商人の動きをイギリス公使パークスは黙認

それどころか、アーネスト・サトウは「英国策論」を発表し、イギリスは親薩長・反幕府を明確にする。武器を蓄えた長州は第2次長州征伐で幕府軍を圧倒。

【年表】(※新暦)

1865年5月 アメリカ南北戦争終結。→大量の武器が上海へ。

幕府はグラバーを通じて大砲などを注文したが、グラバーはその手付金を薩摩藩へ供与。さらに2年後の1867年に大砲が完成したが、これを難癖付けて長崎の倉庫に入れて、なかなか幕府に引き渡さなかった。

坂本竜馬、大坂薩摩藩亭を経て西郷隆盛らと薩摩へ。
1865年6月 「四国共同覚書」(イギリス、フランス、アメリカ、オランダ)
坂本竜馬、亀山社中設立。薩摩藩の契約業者となり、長州と薩摩を結び、武器や米、情報等を運ぶ。要は内戦で使用する武器を密貿易する会社である。
1865年10月 パークスはじめ4か国の公使は兵庫沖へ移動し、「勅許なしでは下関戦争での賠償支払い延期を認めない」方針などを第2次長州征伐準備中の幕府に突きつける。(このため、第2次長州征伐は遅れ、その間に長州は軍備を整えた)長州は賠償金を幕府に転嫁したうえに、再軍備を整え、イギリスと組んでいるようにしか見えない。

会議では勅許なしでの兵庫開港やむなしとする老中阿部正外と勅許を得るべしとする一橋慶喜の間で激論。ちなみにこの月、第2次パーマストン内閣退陣。第2次ラッセル内閣へ(~1866年6月)。
1865年11月 慶喜の熱弁により許勅が得られる。
1866年2月 薩長同盟成立
1866年4月 外相クラレンドン「日本においては政治的影響力の行使を求めるのではなく、単に通商の発展だけを求め、内乱の際は厳正な中立政策を採るよう」パークスに宛てる。届いたのは2か月後であり、すでに中立になっておらず、遅かった。

西周、幕府開成所教授に。
1866年5月 アーネスト・サトウ『英国策論』をジャパンタイムズに匿名で寄稿。内容は「タイクンの地位を引き下げ、ミカドを元首とする」という内容であり、薩長の藩論と合致している。この後、イギリスの国策はこの「英国策論」どおりの進展を見せる。
1866年6月 幕府、長州に宣戦布告。パークス、ひそかに高杉、伊藤と会談。
1866年7月 幕府の攻撃が始まると、薩摩へ入り、雄藩による倒幕を勧めるとともに支援を約束。以後、西郷はパークスの言いなりに。幕府と長州の戦いは「戦争と言うより狩猟」。長州藩の小銃が威力を発揮する。
1866年8月 小倉口、石州(鳥取)で幕府軍は全て敗れる。士気の違いも大きい。幕府軍副総督老中本荘宗秀は長州の裏にイギリスがいて、第2次長州征伐が国際戦争の様相を呈していることを見抜き、悲痛な報告。家茂、病死。

イギリス武器商人グラバー…下関は武器密貿易の拠点に。上海経由、長崎経由などで大量の武器が売買される。グラバーは18歳で上海に渡り、21歳で長崎のマセソン商会で働き、その後、独立。南北戦争で用済みになった最新鋭の小銃を長州に売った。下関戦争での賠償金を幕府からせしめ、それを長州に信用供与していた可能性もある。これでは軍事バランスが逆転するのも当然だ。明確に親薩長・反幕府。パークスとは生い立ちも似ており、グラバーは「パークスの片腕」とも言われる。「徳川政府への叛逆人の中で、自分が最も叛逆人だと思う。(『史談会速記録』より)

※『四国共同覚書』…幕府と長州の戦争において、①厳正中立、②絶対不干渉、③密貿易禁止、を取り決め、内政不干渉を約束する。背景にはイギリスが長州を応援していることを他国が知っていて、牽制する狙いがあったのだが、強力な大英帝国の前に、この約束は守られることはなかった。当時開港していたのは長崎、函館、横浜であり、当然、長州薩摩で行われているものは密貿易である。「それなら上海で貿易すれば良い」とグラバーは出貿易を入れ知恵するが、これは1858年の日英通商条約14条である「武器輸入は幕府に限る」に反する。つまり、グラバーは国際条約を無視して反政府勢力に武器を売り続けた

密貿易vs幕府探索方…幕府も節穴だったわけではない。大村益次郎が上海でアメリカ商人を通じて武器を買ったことは把握しており、抗議して処分してもらった。長州藩はそんなにお金がなかったので、米での支払いを希望したが、米をイギリス人は食べないのと、これを大阪で換金するとなると足がつくので、薩摩藩を経由するという形をとった

第2次パーマストン内閣(1859~1865)就任翌年にアロー号戦争を起こす。日本に対しては当初、オールコックの進言によりロンドン覚書に調印するも、徐々に武断的性格をあらわにし、1863年生麦事件後の薩英戦争、1864年には四国艦隊砲撃事件を起こす。1861年の南北戦争にも南軍として参加しようとしていたが、これは周囲に止められ(※なぜ?)、その代わりに、矛先が日本に向かった。

イギリス公使館通訳官アーネスト・サトウ…日本文化に憧れて19歳で来日。日本語に堪能であり、パークスの助言者となる。

♨幕府軍の士気が低いのは長年続いた参勤交代も原因では?とも思ったり。