~只今、全面改訂中~

こんにちは。

幕末を年表で再整理しております。

今回ご紹介しますのは、「幕末年表①:1853年」です。

1853年の目玉は、なんと言っても、「ペリー来航」です。

幕府は、これまでの慣例に則ってペリーからの国書を受け取らない方針でしたが、

ペリーの強い圧力により、国書を受け取ります。

そして、ペリーは1年後に来ると言い残して去っていきました。

1853年(嘉永6年)

6/3 東インド艦隊司令官ペリー浦賀来航。大統領国書受け取りを求める。(※1)

【ペリー】
※太平洋を渡ってではなく、インドから来ました。役職も「東インド艦隊司令官」です。
※アメリカがカリフォルニアを手にした1846~48年の米墨戦争で武功をあげました。
※1852年にアメリカを出発し、途中、沖縄と小笠原にも寄りました。
※軍艦はやや旧式。当時、オランダの海軍力が世界5位、アメリカが8位です。
※時の大統領は13代フィルモア。

【幕府】
幕府はペリーが来航することを1年前から知っていた
当時最大の外交問題はロシアとイギリスであった。

♨このあたりの事情は「明治維新の正体」、「勝海舟と幕末外交」にも詳しい。
6/9 久里浜(横須賀)に上陸したペリーから国書を受け取る。

【徳川斉昭】(水戸藩藩主)
※攘夷一辺倒と思いきや、国書受け取りに理解を示す。
※イギリス船が水戸藩に漂着した1824年の「大津浜事件」がトラウマ。
7/1 老中阿部正弘、アメリカからの国書を諸大名に提示し、意見を求める。(※2)

※幕府の権威低下とも見れるが、議会民主制の端緒という見方もできる。
※勝海舟は「出貿易論」。良い意見も出された。
※毛利ら多くの意見は「主戦論」。のちの老中・堀田正睦は「積極的開国論」。
※阿部正弘:1855年10月9日に老中首座を譲り、1857年8月6日死亡。
7/18 プチャーチン、長崎来航。(※3)

【プチャーチン】(ロシア)
※佐賀藩鍋島家の長崎警備に驚いて、穏健策をとった(?)。
※幕府は彼とロシアに親近感を抱いた。
※徳川斉昭は「米露は通じているだろう」と親露に反対。

(※1)ペリー来航!

「ペリー来航」から幕末が書かれる書籍をどなたかが批判しておりましたが、

仰るように、ある日突然ペリーがやってきたわけではありません。

アヘン戦争で清が敗れて(1842年)、香港を割譲、開国を余儀なくされると、

オランダ国王は日本に開国を勧告した方がマシであることを告げました(1844年)。

でも黙殺したんですね。

実際、1844年にはフランス、1845年にはイギリス船が琉球に、1846年にはアメリカ船が浦賀に来航して、開国・通商を要求しております。

これらの交渉は全て各国の思い通りにはなりませんでしたが、

日本に対して穏便に交渉を行おうとすると、はぐらかされて失敗する経験から、

ペリーは強硬的に訴えることにしました。

(幕府は)ペリーの強い態度に押されて(従来の方針を)破り、国書を正式に受け取り、翌年に回答することを約束して、とりあえず日本を去らせた

詳説日本史研究
4隻で乗組員は988人。

ペリーの乗ったサスケハナ号は、当時の日本最大の「千石船」の16倍。

いかに脅威だったことか。

(※2)老中阿部正弘の改革

この前代未聞の事態に、老中阿部正弘は朝廷や大名と協議することにしました。

外様大名が国政に意見するなんてこと事態も前代未聞じゃ。
議会政治の端緒とも言えるぞ。

また、阿部正弘は、

江川太郎左衛門に命じて江戸湾に台場(砲台)を築いたり(1853/8)、

「大船建造の禁」を解いたり、(1853/9)

長崎に「海軍伝習所」を造ったり(1855/1)、

洋学の教育、翻訳のために洋学所(のち「蕃書調所(ばんしょしらべしょ)」)を設けたり(1855/1)、

幕臣の子弟に軍事教育を行うために「講武所(こうぶしょ)」を設けました(1856/4)。

これらは当時の元号にちなんで、「安政の改革」と呼ばれております。

(※実際には安政元年は1854年11月27日であり、改革の半分くらいは嘉永年間に行われました。)

一方、諸藩でも水戸・鹿児島・萩・佐賀藩などでは、反射炉の建造、大砲の建造、洋式の武器や軍艦の輸入などによる軍事力の強化をはかった。

詳説日本史研究p320
鍋島閑叟(佐賀)
実は私はペリー来航の3年前から自力で長崎防備を完成しているんですよ。

なんで?、って幕府に言っても反応が鈍いからですよ。

製鉄所に至っては1849年に完成しています。

阿部ちゃんも頑張ったけど、ちょっと遅い。

諸藩の改革を「安政の改革」と呼んでおられる歴史学者(田中彰先生)もいらっしゃいます。

(※3)北方からも使者

ペリーに遅れること1ヶ月、ロシアのプチャーチンも日本を訪れます。

ロシアはペリーとは異なり穏便な対応を行いました。

そのため、幕府の中にはロシアびいきになるものもいました。

しかし、あまりのタイミングに、アメリカとロシアはグルではないか、と疑う意見もありました。

実はロシアが穏便な対応を行った理由は、ロシアが「長崎」に来航したからです。

長崎は佐賀藩・鍋島閑叟の指導の元、いち早く防備が固められておりました。

そのため、プチャーチンは強硬な姿勢には出なかったのです。

対応にあたったのは川路聖謨(かわじ としあきら)殿。

プチャーチンとは友情も芽生えた。

川路もロシア人に愛され、プチャーチンもまた日本人に愛された。

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