~只今、全面改訂中~

終章.万民平等の実現

慶喜が戦うべきだったという主戦論はいまだに根強い。しかし、本物の尊皇である慶喜にはそれができなかった。会津藩は和平の道を模索するも、西郷は拒絶。武力による制圧をめざし、戦利品は家臣らに分け与えられた。ちなみに日本陸軍の補給軽視戦は長州の伝統。

今なお残る主戦論…大坂城に籠城し、幕府海軍を大坂湾に集結させ、明石海峡と紀淡海峡を封鎖し、相手の補給路を断ち、相手の兵員、弾丸が尽きれば勝てる、という説。

長州は補給戦が苦手…豊かな環境で育ったせいか、毛利家は伝統的に補給軽視。この姿勢は日本陸軍でも続き、伸びきった補給線を分断され日本陸軍を崩壊に導いた。鳥羽伏見の戦いのように短期決戦での成功体験もあったと思われる。

補給戦の主役は海軍力…戦争の勝敗は「補給力」と補給戦の主役である「海軍力」が重要な決定要因である。圧倒的な海軍力を持つ幕府は、まだ戦えた。緒戦で負けてすぐにあきらめた幕府の敗北主義も困ったものだ。

会津藩神保修理…慶喜に尊皇論の立場から恭順の意を示すよう諫言。結果的に慶喜は江戸に向かう。大坂にいたら必ず身柄引き渡しとなっていたであろう。しかし、これは最前線で戦っていた会津藩士の怒りを買い、神保修理は官軍に通じていた疑いで切腹させられる。

関ヶ原の敗戦の雪辱…長州では毎年、家老が藩主に「関ヶ原の儀、いかが致しましょうか?」という秘密の儀式が二百数十年続いた。長州人は利用できるものは何でも利用しようという考えの元、天皇のことも「玉」と呼んだ。派生は水戸学であるが、本物とは明らかに異なる。水戸学の元は、水戸光圀の「大日本史」である。

幕末のポピュリズム…真木和泉は「承久の乱」の成就を夢見た。長州人は玉を掌中に奪って関ヶ原の雪辱を果たそうとした。薩摩藩島津久光は島津>徳川となり、島津幕府を夢見た。水戸藩では激派が、土佐藩では勤王党が暴れた。黒駒親分や、国定忠治の遺児・大谷千乗らは食禄を求めて尊攘を叫んで暴れまわった。坂本竜馬は薩長を合わせて幕府と戦わせるよう武器を売り、高利潤をむさぼろうとした。西郷隆盛が幕末のポピュリストたちの希望の星。

奥羽越戊辰戦争…江戸城から接収した大量の鉄砲、幕府軍艦を使用して、東北諸藩を徹底的に討滅した。その戦利品は食禄として家臣に与えられた。賊軍の汚名を着せられた会津藩は和平の道を探るも、西郷は使者として訪れた広沢富次郎を幽閉し、あくまでも武力による勝利を目指した。

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