~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、『攘夷の幕末史』(町田明広、2010年、講談社現代新書)です。

教科書でも「尊王攘夷」と「公武合体」は対立する概念のように書かれておりますが、

当時の日本人はみな攘夷思想をもっており、

「力をつけてから攘夷」という「大攘夷」vs「即刻戦おう」という「小攘夷」の争いであった

というのが、町田先生のご意見です。

やはり学者は一味違うな、と感嘆致しました。

以下、ダイジェストで。

1806年の「フヴォストフ事件」

そもそも江戸時代、「対外的な脅威」と言えばロシアのことを意味しました。

「攘夷」という思想は北方から湧いていたのです。

その大きな例が1806年の「フヴォストフ事件」でした。

詳説日本史研究によりますと、

レザノフは(中略)、日本に通商を認めさせるためには軍事的な圧力をかける必要があると軍人に示唆した結果、1806年から翌年にかけて、ロシア軍艦が樺太や択捉を攻撃する事件(フヴォストフ事件)がおこった。とくに、択捉守備兵が敗走したことから、国内は騒然とした雰囲気となった。

と書かれております。

そして、町田先生は、

この事件は幕府をはじめ世間に広く、実際よりも過大に被害が伝えられた。この段階で、幕府は朝廷にその経緯を報告するはめになったが、この点は簡単には見過ごせない
 

「攘夷の幕末史」p32

と書かれております。

しかし、当時の朝廷の人たちなどは、「世界情勢も政治も知らない、ただの外国人嫌い」です。

こんな人たちに意見を求めたところで、どうするつもりだったのでしょうかね。

結果、この時に朝廷に伺いを立てたばかりに、以後、幕府は対外的な問題に対して朝廷に報告することが慣例となるとともに、

異人嫌いの朝廷のために、対外的に強硬策を取らざるを得なくなったのです。

以後、慶喜の説得によって1865年に朝廷の姿勢が改まるまで、多くの血が流れました。

幕末の構造は、「攘夷を求めた朝廷」vs「無謀な攘夷を禁じた幕府」の構造でもあります。

 

これに各藩が板挟みとなるのです。

幕末の武士は大なり小なり後期水戸学の影響を受けており、幕閣も基本的には攘夷。

開国して軍備増強をしてから攘夷、という気持ちでいた。

結局、井伊直弼がやろうとしたことは明治維新でやったことと変わらないんだけど。

幕閣も基本的には攘夷。

「江戸城無血開城」など非戦論的なイメージが強い勝海舟も、

生麦事件の賠償金問題に際して意見を求められた際には、

「イギリスの暴挙をとがめ、通商条約を破棄し、戦争をするべきだ。戦争は負けるであろうが、国内の発奮を促し、攘夷だの開国だのという対立もなく挙国一致を実現できる」

と主張致しました。

勝もまたばりばりの攘夷であり、そのために「天下百年の計」として海軍を鍛えていたのです。

※さらには、「征韓論」を唱えており、対馬を直轄地としたあとは、朝鮮、清を従えて、欧州諸国に対抗するという発想をも持っておりました。

実際に、坂本龍馬を従えて朝鮮を探索する計画も立てておりました。

武士たちも攘夷。

また、第2次長州征討で長州藩に武器調達をした海援隊の近藤長次郎が残した書によれば、

日本は古来より神州と呼ばれ、神功皇后のように富国強兵し海外侵略すべきである。そうすれば他国の脅威にさらされることなどないだろう

とありました。

征韓論どころか世界征服まで考えているような勢いですが、

当時の武士たちはこのようなことを考えていたのです。

坂本龍馬も攘夷。

また、坂本龍馬としては東アジア戦略の一環として竹島(※現在でいう鬱陵島)進出を目指していました。

鬱陵島は朝鮮領ですが、長州藩にとっては防衛上、重要な位置を占めます。

以前、長州藩の桂小五郎、大村益次郎らが、鬱陵島開墾を幕府に願い出ましたが、拒否されていましたこともあったほどです。

さらに龍馬は過激浪士を「蝦夷」と「竹島」に送り込むという案を持っていました。

(国内の治安維持にも役立つと考えました。)

1863年5月、攘夷実行

攘夷運動が加熱する中、圧力に負けて将軍家茂は攘夷実行期限を1863年5月10日と奏聞する羽目になりました。

そして、長州藩は馬関海峡を通る外国船に砲撃を加えます。(下関事件)

さらに6月18日に三条実美らを中心とした朝廷により「無二念打払令」が出されます。

これらにより1863年の5月から「8月18日の政変」までは、小藩でも攘夷を実行する勢いで、日本がもっとも植民地化の危険が高かったと言えます。

※その前、2月28日に鳥取藩はイギリス船に向けて実弾5発発砲しました。(当たりませんでしたが。)朝廷からは褒章を得るも、幕府からは処分されました。ただ、幕府からの罪状は「砲撃時、手ぬるかったこと」にありましたが。

※また、外国船と間違えて幕府、長州、薩摩の船に各藩(徳島藩、明石藩、延岡藩)が発砲してしまう事件も発生しました。それくらい焦っていました。

長州藩vs小倉藩

さらに、長州藩は外国艦隊を砲撃した余った大砲で、「攘夷を実行しない」小倉藩にも砲撃しました

そのため両藩には軋轢が生じ、長州藩は小倉藩を占拠する事態がおきます。

朝廷はさらに小倉藩の処分を実行しようとしました。

こうした動きが「八月十八日の政変」にもつながるのです。

小倉藩は「やられた時だけ戦う」としていました。

 

まさに大攘夷と小攘夷の立場の違いがもたらした災いかとも思います。

1863年8月、「八月十八日の政変」後

長州藩のこうした考えは急進的すぎるとし、

薩摩藩、会津藩、朝廷内穏健派により、長州藩と結びついている三条実美ら朝廷内急進派は「八月十八日の政変」で京都から追いやられます。

ただ、これで収まるかと思いきや、

政変後も孝明天皇は即今攘夷を主張するなどして困らせ、

(松平春嶽、島津久光らの説得で「横浜鎖港」に落ち着くよう歩み寄る)

長州藩は反撃して天皇を奪う計画を立てました(禁門の変)。

また、家茂、慶喜、久光、春嶽、伊達宗城らが朝議に加わり国是を決定するはずが、慶喜が久光を奸物呼ばわりして鋭く対立し、空中分解

これらにより全く安定しませんでした。

そして、京都の政局は慶喜を中心とする一橋派に会津藩、会津藩を加えた「一会桑政権」がリードすることになります。

孝明天皇がついに攘夷を諦める

「横浜鎖港」問題は諸外国が納得するはずもなく、兵庫沖で示威行動を受けました。

老中阿部正外、松前崇広はやむなく「許勅なしの兵庫開港」を認めましたが、

これに怒った朝廷は2人の官位剥脱などを命じました。

それに対して家茂が辞職を願い出るなどの混乱もありましたが、

慶喜の説得もあり、孝明天皇はついに攘夷を諦めました。

孝明天皇の勅許が得られてから、テロは大きく減ることになりましたが、

「思想としての攘夷」は以後も日本人に引き継がれていくのです…

というわけですが、なかなか読み応えがありました!

ぜひ、ご一読を。

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