~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

☞【奈良時代×略年表4:藤原氏の推挙で光仁天皇即位。光仁・桓武親子で奈良時代終焉。】

数々の政変を経て奈良時代も終焉。仏教の力が強すぎることを忌避した桓武天皇は遷都を決行。【その背景には皇統の主張もあった:古代史講義

第49代:光仁天皇期(770年~781年)

【光仁天皇】…709-782。即位時62歳。藤原家と関係が強く、就任に当たって藤原百川が協力。天智天皇の孫であり、6代ぶりに天智系天皇となる。持統天皇にとっては甥。息子が桓武天皇。道鏡を下野に左遷し、和気清麻呂を召還するなど、前代の仏教偏重の政治を改めた。また、不要の令外官を廃止して財政を緊縮し、虚弱な兵士にかえて富裕な農民を採用するなど、農民の労役負担を軽減する措置をとった。

770 光仁天皇即位。
772 大逆を理由に皇太子を廃絶。聖武系の皇族と絶縁した。(♨絶縁と言うより抹殺という方が正しいか?)

※光仁天皇を呪詛したことが原因とあるが、これを仕組んだのは藤原百川と考えられている。【まだこの時代は式家優位。北家優位に代わるのは810年頃

新規開墾を解禁
774蝦夷との三十八年戦争開始
775 元・皇太子(他戸親王)、その母(井上皇后:光仁天皇の正妻)死亡。
780 蝦夷にて伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)の反乱

※痣麻呂は俘囚として官位も得ていたが反乱。以後、東北地方は20年以上にわたり戦争地域となる。【以後の東北関連年表はコチラ

※光仁天皇の母方の祖父は紀諸人。

第50代:桓武天皇期(781年~806年)

桓武天皇。wikipediaより。

【桓武天皇】…737-806。光仁天皇第1皇子。早良天皇の怨霊に悩まされて平安京に遷都したといわれているが、近年の研究では遷都は別の理由が強いよう【コチラ:古代史講義】。遷都、蝦夷討伐とやる気を見せたが、財政悪化に伴い正規軍の編成さえ困難に。子供の数は32人。これは皇室家計圧迫の原因になる。 親王たちは特権階級を良いことに地方での簒奪に走るが、彼らは「武士」のおこりにもつながるのである【コチラ】。 左大臣を置かないなど、貴族を押さえながら積極的な政治改革を行った。

ちなみに 正規軍をもたない国が他国からの侵略を逃れることが出来たのは、標高4000mのチベットと、武家政権が登場するまでの日本くらい。

784 長岡京に都を移す

※即位して3年後。生まれ故郷でもあったが、仏教勢力を切り離すのが狙いでもあった。大寺院が長岡京へ移転することを禁止した。現場責任者に藤原種継を指名。

※紀船守は上賀茂神社、下鴨神社に遣いとして遷都を賀茂大神に報告。
785 藤原種継暗殺事件⇒疑いをかけられた早良親王が捕らえられる。

【藤原種継】…藤原宇合(式家)の孫。叔父が藤原百川。従兄弟の夫が桓武天皇。桓武天皇から政務の全てを任されていたが、長岡宮の夜間工事中に射殺される。49歳。真の首謀者は歌人として有名な中納言・大伴家持であったが、この時は既に死んでいた。(藤原氏の最大のライバルは大伴氏とも言われる)その娘が藤原薬子である。

【早良親王】…桓武天皇の12歳年下の異母弟。11歳で出家するも光仁天皇の希望で還俗、桓武天皇即位時に皇太子となる。仏教勢力と親しいことから、桓武天皇の遷都事業中止の依頼を受けていたのではないかとも。淡路島への移送の途中で死去。冤罪説も。

【大伴家持】…万葉集の編者としても知られる。
788 桓武天皇夫人・藤原旅子(藤原百川の娘)が30歳で死亡

征東大使・紀古佐美、阿弖流為に大敗
789 桓武天皇母・高野新笠が死亡。(崇りではないかと疑いはじめる)
790 皇后・藤原乙牟漏(平城天皇実母)が31歳で死亡。その1週間後に落雷で式部省の南門が倒壊。そのうえ洪水にも。
792 健児の制

皇太子が風病に(のちの平城天皇。早良親王の崇りと言われる。)
794 皇太子妃が急病で倒れ、そのまま帰らぬ人に。この時期、疫病、地震が頻発

平安京遷都へ

♨娘の通う京都の小学校では3年生の授業で早良親王が出てきたのでビックリした。

「桓武の世代までの親王は二人の女性しかいなかった。ところが(中略)桓武の皇子・皇女は何と三十二人を数える。(797年に)百姓の搾取を咎められた「親王」の大部分は実は彼ら桓武の皇子なのであった。」

桃崎有一郎「武士の起源を解きあかす

奈良時代は親王不足が変則的な皇位継承の元凶となったが、親王が多すぎるのも問題となった。朝廷の繁栄を約束するはずの桓武の子孫たちが、朝廷を蝕む原因となっていくことは皮肉である。

ちなみに日本書紀が神代から持統天皇までを書いているのに対して、続日本書紀は桓武天皇までが書かれる。

次章は平安時代における桓武天皇時代