こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「光仁天皇」です。
称徳天皇は皇太子を決めないまま崩御されました。
(52歳。暗殺説も?)
右大臣・吉備真備は天武天皇孫の文室浄三を推挙しました。
しかし、左大臣・藤原永手をはじめとする藤原家は天智天皇孫の白壁王を推挙します。
会議は紛糾しましたが、文室浄三が辞退する形で白壁王の即位が決定しました。
(藤原百川が称徳天皇の遺言があると偽書を作成した?)
第49代:光仁天皇期(770年~781年)
【光仁天皇】…709-782。即位時62歳。藤原家と関係が強く、就任に当たって藤原百川が協力。天智天皇の孫であり、6代ぶりに天智系天皇となる。持統天皇にとっては甥。息子が桓武天皇。道鏡を下野に左遷し、和気清麻呂を召還するなど、前代の仏教偏重の政治を改めた。また、不要の令外官を廃止して財政を緊縮し、虚弱な兵士にかえて富裕な農民を採用するなど、農民の労役負担を軽減する措置をとった。
770 | 光仁天皇即位。 井上内親王(聖武天皇娘、称徳天皇異母姉)との息子である他戸親王が皇太子となる。 |
772 | 大逆を理由に皇太子を廃絶。聖武系の皇族と絶縁した。 ※光仁天皇を呪詛したことが原因とされる。 ※藤原百川の陰謀と考えられている。 【まだこの時代は式家優位。北家優位に代わるのは810年頃】 新規開墾を解禁(加懇禁止令停止。) |
774 | 蝦夷との三十八年戦争開始 |
775 | 元・皇太子(他戸親王)、その母(井上皇后:光仁天皇の正妻)死亡。(おそらく暗殺) |
780 | 蝦夷にて伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)の反乱 ※痣麻呂は俘囚として官位も得ていたが反乱。以後、東北地方は20年以上にわたり戦争地域となる。 【以後の東北関連年表はコチラ】 |
781 | 山部王に譲位、桓武天皇誕生 |
※光仁天皇は紀橡姫を母に持ち、紀諸人を祖父に持つ。光仁天皇の夫人の1人が高野新笠で百済系渡来人の子孫。桓武天皇の母親。
772年、他戸(おさべ)親王、皇太子廃絶
井上(いがみ)内親王のマンガというのがネット上にありました。
ぜひ御覧ください。
マンガで見る井上内親王
位を考えますと、井上内親王の子、他戸親王が天皇になるはずでした。
なんせ井上内親王は聖武天皇の娘ですしね。
しかし藤原百川が、「井上内親王と他戸親王が天皇を呪詛している」など吹き込んで、廃太子させたのです。
(そもそも白壁王=光仁天皇も本来は天皇になれるような位ではありませんでした。)
さらに、藤原百川らは今後の憂いを断つために井上内親王、他戸親王を暗殺しようと…
どこまでも奈良時代というのはきな臭い時代です。
いずれにしても、これで山部王(のちの桓武天皇)が皇太子となります。
774年、蝦夷との三十八年戦争開始
藤原氏の勢力が強くなると蝦夷との争いが起こる、という関連性もあるようです。