~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

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780年、伊治呰麻呂の乱

藤原仲麻呂政権の頃より東北地方の版図は拡大し、光仁天皇の時代に、伊治城まで進んだ。

しかし、この地域こそ蝦夷の本拠地。

味方であった伊治呰麻呂は陸奥按察使を殺害。さらに蝦夷の一斉蜂起が起こり、国府多賀城が襲撃された。

光仁天皇はすぐに大軍を送って多賀城を奪い返すも、大使・藤原継縄は一向に赴任せず、藤原小黒麻呂に変更したが、戦果は上がらなかった。

781年、桓武天皇即位と小黒麻呂帰還

このような状況下で桓武天皇即位。

小黒麻呂は大した戦果を上げることができず、桓武天皇を怒らせることとなったが、聞くところによれば多賀城以外も襲われていて備蓄していた武具や兵糧も失われていたため、それどころではなかったという。

小黒麻呂は城柵を復旧させるだけで精一杯だった。

桓武天皇は小黒麻呂に対して怒りはすれど、功をねぎらい叙位を行った。

この寛大な処置はのちの平安遷都で生かされる。

785年、征東将軍大伴家持死亡と藤原種継暗殺事件

この年、前年に征東将軍に就任していた大伴家持が死亡。齢70歳。

大伴家持というと歌人のイメージが強かったが、れっきとした武人である。

そして、さらに歌人のイメージと異なるのが藤原種継暗殺事件の首謀者であったという説。

死ぬ間際の人間を征東将軍に任命するのはミスチョイスでは?と思うが、どうなんだろう。

いずれにしても、まだ蝦夷征伐どころではない。

789年、第1次征夷。紀古佐美vsアテルイ。

桓武朝での征夷は5回計画され、そのうち実行されたのは3回。最初と最後は実施されていない。

第1次征夷は征東大使に紀古佐美を任命。

小黒麻呂の件での失敗例から事前に多賀城に兵糧を蓄えていた。

なかなか軍を進めない紀古佐身に対して桓武が叱責し、進軍してから2ヵ月後に戦闘が開始されたが、アテルイの罠にかかり大敗。

兵糧が足りなかったことや、混成軍であったこと、各隊に適切な指示を出せる指揮官が不在であったことなどが問題とされた。

いずれにしても第1次征夷は失敗に終わった。

794年、第2次征夷。大伴弟麻呂vsアテルイ

第2次征夷は前回の反省を踏まえ、より大量の兵糧、大量の武具を調達。

征東大使には大伴弟麻呂(おとまろ)、副使には坂上田村麻呂を任命。

田村麻呂はまだ若かったが、藤原仲麻呂の乱で功を立てた坂上苅田麻呂の子であるとともに、その資質は若くして見出されていた。

今回は指揮系統も整え、坂上田村麻呂の大活躍もあり勝利。

なお、大伴弟麻呂は途中で官名が征東大使から征夷大将軍に変更されている。すなわち最初の征夷大将軍は坂上田村麻呂ではなく、大伴弟麻呂である。

征夷の勝利報告日と、平安遷都布告は同じ日。

桓武は両事業の成功を最大限にアピールした。

なお、遷都に当たっては藤原継縄、小黒麻呂、紀古佐美など征夷では失敗したものたちが活躍している。これには桓武が寛大な処置を施した影響もあるだろう。

797年、第3次征夷。坂上田村麻呂vsアテルイ

詳細は「日本後記」の欠失で不明であるが、801年には戦勝報告がなされている。

802年、胆沢城造営、アテルイ・モレ投降

田村麻呂は2人の助命嘆願を行うが、中央政府の憎悪は深く処刑された。

♨胆沢城と北上川を挟んだ南が平泉。奥州藤原氏の都である。

803年、志波城造営

さらに北方に拠点を作る。陸奥国最北であり、東北地方最大級の城柵。

桓武はさらなる版図拡大を目指して、第4次征夷を計画するのであるが、徳政争論で停止することとなる。

805年、徳政争論。藤原緒嗣の意見で軍事と造作が中止。

70歳になろうかとしている桓武が本気で軍事と造作を続けるつもりであれば、当時32歳の藤原緒嗣の意見など聞くはずがない

そもそも徳政争論などもさせない。

これは桓武の人気取り。

民の疲弊を考えて二大事業を止めるという徳のある君主の姿を見せようとしたまでだ。

その3ヵ月後、桓武は死亡。

二大事業は成功と見てよい。

(※国際情勢的には以前ほど体外圧力は減っていたと考えてよい時期であろう。)

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