こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「平安遷都と対蝦夷戦争」です。
ちくま新書「古代史講義」第9講、宮城県多賀城跡調査研究所主任研究員、吉野武先生を参考にさせて頂きました。
桓武天皇が軍事(対蝦夷戦争)と造作(平安遷都)を重視したのは、自らの出自の低さを補う権威付けのためでした。
以下、流れを見ます。
770年、称徳天皇、没。
子供がいない称徳天皇が没したことで、跡継ぎ問題が生じました。
藤原百川らは天智天皇の孫に当たる光仁天皇を擁立します。
光仁天皇は聖武天皇の娘である井上内親王を后としており、その息子・他戸親王(おさべしんのう)が皇太子に就きました。
ここまでは「順当」で、他戸親王が皇位についていれば、天武天皇の血筋も残りましたが、ここで事件が起きます。
772年、他戸親王、廃太子。
井上内親王、他戸親王は「呪詛」をしたという言い掛かりをつけられて失脚しました。
代わりに皇太子となったのが、のちの桓武天皇、山部親王です。
773年、山部親王、立太子。
山部親王は式家・藤原良継の娘を妻にしており、同じく式家・藤原百川の娘も妻にするなど、藤原家と縁が深いのでした。
しかし、山部親王は、母親(高野新笠)が百済系であったために出自は低いとされ、光仁天皇の長子であったにも関わらず皇太子にはなれませんでした。
その後(775年)、井上内親王、他戸親王は2人とも同じ日に死にました。
証拠はありませんが、謀殺の可能性は高いでしょう・・・
藤原良継・・・藤原宇合の次男。藤原広嗣の弟。
藤原百川・・・藤原宇合の八男。藤原広嗣の弟。
藤原広嗣の乱に連座する形で良継は苗字さえ取り上げられていたが、藤原仲麻呂の乱での活躍が認められて昇進。藤原永手(北家)とともに光仁天皇擁立に参画。
781年、桓武天皇、即位。
781年、桓武天皇として即位します。
この年は辛酉(しんゆう)年で、中国では「革命年」にあたります。
「ふさわしい年」に「ふさわしい人物が即位した」ことを演出したかったのですが、そうでもしなければ認められなかったという事情もあったようです。
ちなみに、当時、桓武45歳です。
782年、「氷上川継の変」。
つづいて、天武天皇の曾孫にあたる氷上川継が皇統を主張して乱を起こそうとしたことが発覚しました。
氷上川継の父は藤原仲麻呂の乱で殺害された塩焼王です。
この変は桓武側の謀略説もあります。
784年、長岡京遷都。
遷都の理由を1つに絞るのは難しいです。
物資供給の難、物価の高騰、貨幣経済の混乱、都市民の生活破綻、治安の悪化、難波津の機能不全、難波宮の存在意義消失、官人層と京外基盤の結びつき、などなどの問題がありました。
いずれにしても王権のアピール目的はありました。
長岡近辺が藤原種継(式家)、藤原小黒麻呂(北家)の勢力圏であり、物資の輸送などがスムーズであったことも迅速な遷都を可能にしました。
785年、藤原種継暗殺事件、早良親王廃太子、安殿親王立太子。
しかし、長岡京遷都には当然反対者も多くいたでしょう。
長岡京造営の責任者であった藤原種継が射殺されました。
首謀者は事件直前に死去した大伴家持とされていますが、寺院勢力、官人層など遷都に反対であったものは数多くいました。
そして、元々僧籍で平城京の寺院勢力と結びつきが強かった早良親王が犯人にさせられてしまいます。
早良親王は桓武天皇の12歳下の実弟で、光仁天皇の遺言により皇太弟となっていました。
早良親王は冤罪を主張しましたが、桓武天皇は早良親王を淡路へ配流します。
早良親王は断食を行い、(あるいは食事を与えられず?)道通で衰弱死しました。
そして、立太子したのが桓武天皇の息子、安殿親王、のちの平城天皇です。
これにて桓武天皇は不穏分子を排除し、自分の息子を後継者にすることができたとも見れます。
794年、工期が進まず、平安京遷都。
そして、再び遷都。
早良親王による怨霊が原因で遷都したと言う説が強くありますが、近年では怨霊を強く意識したのは平安遷都後と指摘されています。
長岡京は起伏が多く制約が多いこと、桂川、宇治川、木津川の合流地にあたるため洪水の被害を受けやすく、実際洪水被害を受けたこと、それらにより工期がまったく予定通りに進まなかったことなどが遷都の原因と考えられております。
実際に長岡京(長岡宮)跡があったとされるのは「長岡京市」ではなく「向日市」。
経済の中心である「市」があったのが長岡京市でした。
向日市温水プールから桓武天皇の邸宅跡が発掘されました。
(向日市温水プールは比較的すいていて小さい子連れに良いです。)
長岡京市公式ホームページより復元予想図。↓
【後編へ】