~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

『古代史講義戦乱篇』より。北海道大学大学院文学研究科准教授、小倉真紀子先生。橘諸兄の息子である奈良麻呂は、光明皇太后の信任を得て権力を握っていた藤原仲麻呂を倒し、大炊王(のちの淳仁天皇)廃太子とする計画を立てたが、未然に発覚して処刑された。ただ、これは単なる権力争いではなく皇位継承の問題という側面も孕んでいる可能性が指摘されている。改めて奈良時代は、「どろどろ」の「血みどろ」。

①年表整理
②橘奈良麻呂
③藤原仲麻呂

①年表整理

737橘諸兄、藤原四兄弟の死亡後、政界の中心となる。
744聖武天皇の皇子として1人だけ存命していた安積親王が死去。
749聖武天皇が孝謙天皇に禅譲。孝謙天皇は藤原武智麻呂の子で、光明皇太后の甥である藤原仲麻呂を重用。
756橘諸兄、左大臣を辞す。
聖武天皇死去。
聖武天皇の遺言に従い、道祖王が立太子。
757橘諸兄、死去。
道祖王廃太子、仲麻呂が推す大炊王(のちの淳仁天皇)が立太子。
橘奈良麻呂の変が起こる。(当時、奈良麻呂36歳、仲麻呂41歳、豊成43歳。)
809奈良麻呂の孫、嘉智子が嵯峨天皇夫人となる。
843嘉智子を母とする仁明天皇時代に奈良麻呂は名誉回復。(847年には太政大臣正一位。)

権力の移り変わりはコチラも

②橘奈良麻呂

皇位継承について、未婚の孝謙天皇に皇太子がいないため、皇位継承をめぐる争いが起こることは誰もが予測していた。そのために奈良麻呂は黄文王を皇太子にしようと考えていた。

※孝謙天皇の即位に批判的であったと書かれるものもあるが、時期的に孝謙天皇の次の天皇を誰にするかを憂いていたと考えられる。(もちろん、大炊王には反対)

【奈良麻呂の乱、他の首謀メンバー】
黄文王(きぶみおう:長屋王の子)
道祖王(ふなどおう:天武天皇の孫、新田部親王の子)
大伴古麻呂(のちの藤原種継暗殺事件の遠因となる)
多治比こうしかい
小野東人
賀茂角足
(→上記、拷問により死去)

その他
右大臣藤原豊成(仲麻呂の実兄。息子の乙縄が奈良麻呂と親しかったために左遷)

計443人が処罰。密告したのは山背王(兄・黄文王と同じく藤原不比等娘を母とする長屋王の息子)と考えられている。

黄文王

729年の長屋王の変の際、母が藤原不比等の娘であったために死を免れた。奈良麻呂の母も不比等の娘であったため、奈良麻呂とは母方の従兄弟に当たる。

道祖王

聖武天皇の遺言で一度は皇太子となるが、皇極天皇、藤原仲麻呂により廃される。

③藤原仲麻呂

『日本記略』などから、実兄の右大臣藤原豊成を排斥する事件という側面も考えられる

仲麻呂にとって豊成は同母兄で、奈良麻呂は光明皇太后の異父兄。

2人を同時に葬るには、奈良麻呂の変を利用して、通常では想定し得ない過剰な処罰を実行するしかなかったのだ。

この時は権力の中心にいたが、のちに藤原仲麻呂の乱で死去。

実兄:藤原豊成

写真はwikipediaより。孝謙天皇即位までは橘諸兄とともに政務を行った。仲麻呂は何度も兄を追い落とそうと讒言を繰り返すが、資質に優れた豊成が追い落とされることはなかった。しかし、橘奈良麻呂の変で右大臣の職にありながら変をコントロールできなかったことを咎められて左遷。藤原仲麻呂の乱後は仲麻呂の数々の讒言が認められて政界復帰。改めて言うが、藤原家は一枚岩でない。

孝謙天皇時代はコチラも

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