~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「663年、白村江の戦い」です。

「古代最大の戦争」と評されることもあるこの戦いですが、

どうやら、ヤマトは新羅はともかく、「唐」と戦争になるとは思っていなかったというのが最新の学術研究成果のようです。

以下、『古代史講義戦乱篇(2019)』第4講(文化庁文化財第二課文化財調査官、秋野啓介先生)を参考にさせて頂きました。

①百済滅亡、斉明天皇出陣!

日本史だけ勉強していると、日本があたかも世界の中心のような錯覚を受けますが、そうではありません。

この時代、大陸では唐が中国統一して勢力を拡大しており、高句麗へ何度も侵攻していました。

朝鮮半島においては高句麗と百済が、唐を味方につけた新羅と争っている状況でした。

そこでまず唐・新羅連合軍の前に百済が滅亡します(660年)。

…そして、百済復興を目指す遺臣たちは、ヤマトに援軍を求めます。

そして、斉明天皇自ら出陣に向かいますが…

660年7月百済滅亡

新羅王となった金春秋(武烈王)の援軍要請を受け、唐軍も参戦。
義慈王は降伏し、王族たちは唐へ連行された。
660年9月鬼室福信(きしつふくしん)ら、旧百済軍の決起

百済西部にいた鬼室福信は、百済中部の熊津城を拠点として、武器がないながらも棒を持って決起。
新羅の軍を破って、20余りの城を保持するも、10月には新羅軍が奪還。
660年10月鬼室福信、倭に遣い

倭に派遣している 豊璋王子を迎えて王としたいと斉明天皇に依頼。

※過去にも同じパターンがあった(479年、雄略天皇期)
百済の遣いが「唐は介入してこない」ことを告げる
660年11月高句麗が新羅侵攻
660年12月唐、蘇定方将軍を高句麗へ派遣

※蘇定方(そていほう)将軍は百済を滅ぼした将軍。

★斉明天皇は飛鳥から難波に行き、軍の道具の準備を開始
661年1月斉明天皇、御船で海路につき筑紫をめざす

※8日、大伯海(おおくのうみ:現岡山県瀬戸内市邑久町の海)で大田皇女(大海人の后)が女子を産む。名前は地名をとって大伯皇女(おおくのひめみこ)
※中大兄皇子が兵を集めるために現:倉敷市に寄った
※14日に熟田津(にきたつ:現愛媛県松山市)の石湯行宮(現道後温泉)に到着。
(ここで額田王が「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」の句を読む。)
661年2月旧百済軍が再び決起

※唐は劉仁軌(りゅうじんき)を援軍として送り、これを撃退
※新羅兵は食料が尽きて引き返す
661年3月★斉明天皇の一行は、25日、現在の博多港に到着。
661年4月蘇定方、高句麗侵攻
661年5月高句麗、 靺鞨 と組んで新羅侵攻

★斉明天皇は現在の福岡県朝倉市に移る
661年6月新羅王、金春秋が亡くなる
661年7月新羅、王族の金庾信(きんゆしん)を大将軍に任命して高句麗侵攻

斉明天皇、24日に死去。中大兄は遺骸と一緒に飛鳥に戻る。大海人は妻(のちの持統天皇)が長津宮(現:博多)で草壁皇子を出産しているから九州に残ったと考えられている。
【ここまでのまとめ】

百済滅亡後、旧:百済軍が決起。
百済は「唐は攻めて来ないから」と言って倭を味方につける。

一方、唐は劉仁軌将軍を援軍として送っていた。

出陣準備をしたものの、斉明天皇は大陸へ渡る前に死去。