『古代史講義戦乱篇(2019)』より、 文化庁文化財第二課文化財調査官、秋野啓介先生。
ヤマトは唐と戦争になるとは思っていなかった。
激動の660年代東アジア①:白村江の戦いまで
百済滅亡で始まり、高句麗滅亡で終わる。
東アジアという目で見ると、日本は中心ではない。
660年7月 | 百済滅亡 新羅王となった金春秋(武烈王)の援軍要請を受け、唐軍も参戦。 義慈王は降伏し、王族たちは唐へ連行された。 |
660年9月 | 鬼室福信(きしつふくしん)ら、旧百済軍の決起 百済西部にいた鬼室福信は、百済中部の熊津城を拠点として、武器がないながらも棒を持って決起。 新羅の軍を破って、20余りの城を保持するも、10月には新羅軍が奪還。 |
660年10月 | 鬼室福信、倭に遣い 倭に派遣している 豊璋 王子を迎えて王としたいと斉明天皇に依頼。 ※過去にも同じパターンがあった(479年、雄略天皇期) ※百済の遣いが「唐は介入してこない」ことを告げる |
660年11月 | 高句麗が新羅侵攻 |
660年12月 | 唐、蘇定方将軍を高句麗へ派遣 ※蘇定方(そていほう)将軍は百済を滅ぼした将軍。 ★斉明天皇は飛鳥から難波に行き、軍の道具の準備を開始 |
661年1月 | ★斉明天皇、御船で海路につき筑紫をめざす ※8日、大伯海(おおくのうみ:現岡山県瀬戸内市邑久町の海)で大田皇女(大海人の后)が女子を産む。名前は地名をとって大伯皇女(おおくのひめみこ) ※現:倉敷市にも中大兄が兵を集めるために寄ったと考えられる ※14日に熟田津(にきたつ:現愛媛県松山市)の石湯行宮(現道後温泉)に到着。 ここで額田王が有名な 「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」 の句を読む。 |
661年2月 | 旧百済軍が再び決起 ※唐は劉仁軌(りゅうじんき)を援軍として送り、これを撃退 ※新羅兵は食料が尽きて引き返す |
661年3月 | ★斉明天皇の一行は、25日、現在の博多港に到着。 |
661年4月 | 蘇定方、高句麗侵攻 |
661年5月 | 高句麗、 靺鞨 と組んで新羅侵攻 ★斉明天皇は現在の福岡県朝倉市に移る |
661年6月 | 新羅王、金春秋が亡くなる |
661年7月 | 新羅、王族の金庾信(きんゆしん)を大将軍に任命して高句麗侵攻 ★斉明天皇、24日に死去。中大兄は遺骸と一緒に飛鳥に戻る。大海人は妻(のちの持統天皇)が長津宮(現:博多)で草壁皇子を出産しているから九州に残ったと考えられている。 |
661年8月 | 唐の蘇定方、高句麗の首都・平壌城を包囲 ※寒波により翌年3月退却 ※新新羅王となった金法敏は自ら旧百済軍と戦闘 ※百済との戦いに唐はほとんど入ってこない ★倭、第一陣を派兵 |
661年9月 | ★中大兄、長津宮に戻る ※以後、続々と百済へ派兵 ※この頃、百済では鬼室福信が共に戦っていた僧道探を殺害するという事件が起きる(百済で内紛?) ※豊璋帰国で盛り上がる(?) |
662年1月 | ★倭は鬼室福信に10万の矢を贈る。 |
662年3月 | 蘇定方、高句麗より退却 |
662年7月 | 唐の将軍、劉仁軌が新羅兵を率いて百済の城を落とし、新羅に通じる食料運搬の道を確保。なお、唐は劉将軍の要請に従い援軍派兵。 一進一退の攻防から唐・新羅軍が明確に優勢になったのはこの時期である。 |
662年12月 | 百済王豊璋、山高い州柔から農業ができる場所へ居城を移す ※会議に参加した倭軍の将軍は反対したが、聞き入れられなかった。旧百済軍は山城にこもっていられなくなるほど規模が大きくなっていたのであろう。 ※しかし、新羅の侵攻に伴い、663年2月には再び州柔へ戻る |
663年2月 | 旧百済軍、新羅軍の侵攻により再び州柔へ居城を変更 |
663年3月 | ★倭、2万7000の軍で新羅を討つ 上毛野稚子、阿倍引田比羅夫など。 |
663年6月 | 百済王豊璋が鬼室福信を殺害(内紛の末路) |
百済は「唐は攻めて来ないから」と倭を味方につける。
しかし、唐は劉仁軌将軍を送っていた。
百済は劉仁軌の予測どおり、内紛となる。
激動の660年代東アジア②:白村江の戦い
663年7月 | 17日、唐軍と新羅軍が熊津で合流 ここでの会議で劉仁軌が州柔を攻めることを提案。陸軍と水軍に分かれて進み、合流して州柔城へ行く計画。 |
663年8月 | 倭の援軍と唐の水軍が期せずして「遭遇」。 倭・百済軍は「われらが先を争えば、相手は自ずから退却するだろう」と固い唐の陣につっこんだが、左右から挟まれ大敗。 ※倭船は400隻が焼かれたとも。 ※岸辺では新羅軍が旧百済軍と戦い勝利。多くの武将は投降し、豊璋は数人と船に乗って高句麗へ亡命。 |
663年9月 | 王のいない州柔城が陥落 劉仁軌は武功により6階級昇進、帯方州(百済地方)刺史に任命された。 |
激動の660年代東アジア③:白村江の戦いその後
664年2月 | ★倭、冠位19階であったのが、26階に変更、それぞれの氏の代表者を決定した。 ※663年の記述は日本書紀にない ※水城(福岡県太宰府市)を築く |
664年5月 | ★唐の将軍、劉仁願の遣いが来日。 |
664年7月 | 唐の高宗、666年正月に泰山で封禅の儀を行うことを宣言 |
664年10月 | 劉仁軌、百済民を安心させることを高宗に進言。 義慈王の息子、扶余隆が熊津都督となり、劉仁軌は帰国。 |
665年8月 | ★百済人を派遣して長門、筑紫などに城を築く 熊津城(百済)で新羅王と熊津都督となった扶余隆(義慈王の息子)が劉仁軌の作成した文書に基づき同盟。 |
665年9月 | 唐が245人を派遣 ※この年には、第1次派兵で百済に出征した守大石らが遣唐使として派遣。 |
666年1月 | 唐の泰山で高宗が封禅の儀を行う ※諸州の都督・刺史や、突厥、倭、新羅、高麗らの諸蕃を集めた。(この儀式に参加した倭人は白村江で捕虜となったものや、遣唐使たちであったであろう。) |
666年12月 | 唐は再び高句麗を攻める |
667年3月 | ★中大兄は都を飛鳥から近江(滋賀県大津市)に移す |
667年11月 | 遣唐使が丁重に帰国 ★倭国では高安城(大阪府八尾市)、屋嶋城(香川県高松市)、金田城(長崎県対馬市)を築く |
668年1月 | ★中大兄が天智天皇として即位 |
668年9月 | ★倭国と新羅が交流 ※天智天皇は新羅王に船を贈る ★高句麗が亡びる |
669年8月 | ★天智天皇は城を修築しようとしたが、民の疲れを考え、工事を辞める |
670年 | ★唐に高句麗平定を祝う遣いを送る ★わが国最初の戸籍、庚午年籍が作られる |
668年、唐は高句麗を滅ぼす。
劉仁軌
唐の将軍(602-685)。
彼一人で何人分の仕事をしたことか。彼がいなければ白村江の戦いもなかったであろう。
★660年、遼東遠征で水軍を統括していたが、遅刻したことより一兵卒まで落とされた。(この時、59歳!)
★661年、旧百済軍の決起に際して、志願して援軍に赴き、旧百済軍を撃破。
★662年、高宗からは新羅も帰るのなら帰っても良いというようなことを言われるが、
「高句麗を滅ぼそうと思うのならば先に百済を滅ぼすべきです。だからさらに兵を乞います。平壌の軍が帰り熊津を退却すれば百済の余燼はすぐに復活し高句麗も勢いが高まりいつ滅ぼせるかわからなくなります。賊の中心は一城であり、そこを失えば亡虜となるでしょう。まして福信は凶暴残虐で、余豊は疑い深く外では合っているように見えて内側では離れています。勢いがあるように見えてその勢いは必ずお互いを傷つけるでしょう。」
と進言。これにより高宗は派兵決定。(♨実際に劉仁軌の言うとおり、福信と豊璋は仲違いとなった・・・)
★663年、白村江の戦いに際して州柔城攻撃を進言
(唐軍と新羅軍が合流した軍議で誰かが水陸の要衝である加林城を討ちたいと言うと)
「加林は堅固で攻めにくい、まず州柔を先に攻めればそこは賊の巣穴だからこれを攻めれば賊は下るだろう」
として、実際にその通りにしたところ、これもまた成功。途中で倭の水軍に「遭遇」し、400隻を焼く。
★664年、高宗に百済民の安定を進言
「高句麗を滅ぼそうと思ったら、百済を捨てるべきではない、余豊は北にあり、余勇は南にあり(※)、百済と高句麗はお互いに助け合い、倭人は遠いけれども影響を与えている。もしも兵馬がなかったら、また1つの国になってしまう。」
(※)南とは倭国のことで、倭国にいる百済王の子、善光王のことを指すと考えられる。
これを受け、高宗は劉仁軌を百済に派遣し、長期滞在する兵と交代させ、さらに義慈王の息子である扶余隆を熊津都督とすることで百済民を安心させた。またしても的確な進言。
★668年、 李勣 の配下で高句麗平定
★674年、唐・新羅戦争で勝利
★675年、朝政に参画
★685年、在職中に没す。(84歳)
古代山城
倭軍敗退の原因
★もちろん唐との戦いは想定外であったわけだが、水軍の差は歴然であった。
★また、唐軍は秩序だった軍編成、戸籍制度に基づいた徴兵制をとっていたが、倭国は前・中・後など出発の前後を表す程度であり、軍体制にも差があった。
★熟田津に2ヶ月いたり、九州に着いてから5ヶ月派兵しなかったのは兵を召集する制度がなかったからであろう。そのためか、670年、庚午年籍完成となった。
倭国の防衛
★白村江における水軍の戦いは倭国の完敗であったが、陸地の戦いで旧百済軍と唐・新羅軍は接戦であった。
★倭国の方針としても、海で戦わず、山城での戦いに持ち込む、というものとなった。
★倭国に来た百済人はこの時の経験から古代山城は海のそばではなく、内陸の山の上に作った。
★水城は全長1.2kmで、高さ7-10mにわたる土塁と、その前に幅60mの水濠があった。これを1年で作るのは突貫工事であったであろう。
大宰府
★水城の背後、大野城などに囲まれた位置に大宰府があるが、近年の発掘調査からは大宰府を護るために水城や大野城が作られたわけではないことが明らかになっている。
唐と倭の関係
★唐にとって、倭を攻めるメリットはなかったし、攻めるつもりもなかったであろう。
★泰山の封禅の儀での高宗の様子を聞いた中大兄は安堵してようやく即位したのではないか。
★671年には唐の船が日本に着たが、突然、多くの人を乗せた船が現れると、防人を刺激して戦になりかねないので、戦うつもりがないことを示すために先に遣いを渡すなどした。
★古代山城には築城途中のものがあるが、これは唐が攻めてこないことがわかったためであろう。
人民を把握していなければ兵も集めることが出来ない。
庚午年籍はその一環である。
築城途中の山城が存在するのは唐が攻めて来ないことがわかったから。

576年ごろの朝鮮半島。wikipediaより。
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