~只今、全面改訂中~

④白村江その後

664年2月★倭、冠位19階であったのが、26階に変更、それぞれの氏の代表者を決定した。

※戦いのあった663年の記述は日本書紀にない
※水城(福岡県太宰府市)を築く
664年5月★唐の将軍、劉仁願の遣いが来日。
664年7月唐の高宗、666年正月に泰山で封禅の儀を行うことを宣言
664年10月劉仁軌、百済民を安心させることを高宗に進言

義慈王の息子、扶余隆が熊津都督(百済)となり、劉仁軌は帰国。
665年8月★倭、百済人を派遣して長門、筑紫などに城を築く

新羅王と熊津都督・扶余隆が劉仁軌の作成した文書に基づき同盟を結ぶ。
665年9月第1次派兵で百済に出征した守大石らが遣唐使として派遣。
666年1月唐の泰山で高宗が封禅の儀を行う

※諸州の都督・刺史や、突厥、倭、新羅、高麗らの諸蕃を集めた。
(この儀式に参加した倭人は白村江で捕虜となったものや、遣唐使たちであったであろう。)
666年12月唐は再び高句麗を攻める
667年3月★中大兄は都を飛鳥から近江(滋賀県大津市)に移す
667年11月遣唐使が丁重に帰国

★倭国では高安城(大阪府八尾市)、屋嶋城(香川県高松市)、金田城(長崎県対馬市)を築く
668年1月★中大兄が天智天皇として即位
668年9月★倭国と新羅が交流

※天智天皇は新羅王に船を贈る

★高句麗が亡びる
669年8月★天智天皇は城を修築しようとしたが、民の疲れを考え、工事を辞める
670年唐に高句麗平定を祝う遣いを送る

★わが国最初の戸籍、庚午年籍が作られる
【百済平定後の劉仁軌】

劉仁軌は、

高句麗を滅ぼそうと思ったら、百済を捨てるべきではない、余豊は北にあり、余勇は南にあり(※)、百済と高句麗はお互いに助け合い、倭人は遠いけれども影響を与えている。もしも兵馬がなかったら、また1つの国になってしまう。」
(※)南とは倭国のことで、倭国にいる百済王の子、善光王のことを指すと考えられる。

と、百済の安定を高宗に求めます。
これを受けた高宗は、義慈王の息子である扶余隆を熊津都督とすることで百済民を安心させました。

その後、劉仁軌は、李勣 の配下で高句麗平定(668年)、唐・新羅戦争で唐を勝利に導く(674年)を経て、675年から朝政に参加、684年、在職中に死亡します。(この時、84歳!)

【ここまでのまとめ】

倭国は唐の本土侵攻を恐れたが、唐にそのつもりはなかった。
668年、唐は高句麗を滅ぼす。

664年、古代山城

白村江において水軍は完敗でしたが、陸戦は唐・新羅軍と接戦でした。

そこで、倭国の国防方針も、「海で戦わず、山城での戦いに持ち込む」というものになりました。

そのため、古代山城は海のそばではなく、内陸の山の上に作られるのです。

664年には大宰府に「水城」(みずき)と呼ばれる城が完成します。

全長1.2kmで、高さ7-10mにわたる土塁と、その前に幅60mの水濠が見つかりましたが、これを期間1年という突貫工事で造ったのです。

水城の背後、大野城などに囲まれた位置に大宰府があるが、近年の発掘調査からは大宰府を護るために水城や大野城が作られたわけではないことが明らかになっております。

670年、庚午年籍

倭国敗退の原因の1つとして、「軍の体制」が考えられます。

熟田津に2ヶ月いたり、九州に着いてから5ヶ月派兵しなかったのは兵を召集する制度がなかったからと考えられます。

また、唐軍が秩序だった軍編成、戸籍制度に基づいた徴兵制をとっていたのに対して、倭軍は「前・中・後」など出発の前後を表す程度でした。

そうした反省もあり、庚午年籍が作られます。

666年、封禅の儀

唐にとって、倭を攻めるメリットはなかったし、攻めるつもりもなかったでしょう。

しかし、中大兄皇子らは唐が攻めてくることに備えてヒヤヒヤしておりました。

泰山で行われた封禅の儀での高宗が倭国へ攻めてくることがないと確信を得た中大兄は安堵してようやく即位したのではないかと言われております。

古代山城には築城途中のものが多くありますが、これは唐が攻めてこないことがわかったためではないか、と言われております。

白村江の戦を経て、倭国は中央集権国家を目指す。
人民を把握していなければ兵も集めることが出来ない。
庚午年籍はその一環である。
築城途中の山城が存在するのは唐が攻めて来ないことがわかったから。

576年ごろの朝鮮半島。wikipediaより。

天智天皇が中央集権を狙った?:コチラ

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