目次
第36代:孝徳天皇期(645年~654年)
【孝徳天皇】…皇極天皇の弟。近年、乙巳の変(大化の改新)の首謀者としてクローズアップされている。大化の改新の歴史的意義としては、迫りくる唐帝国の外圧に対して中央集権が進んだという事である。(※同じく中央集権できるだけの力を持っていた蘇我氏は滅ぼされて。)
646 | 改新の詔 ★ 改新の詔は「公地公民制」「中央集権」「班田収授法」「税制」の4条からなるが、実際はこの時点では税制改革だけ実現できたと考えられている。 品部廃止 |
647 | 新羅でクーデター(※善徳女王廃位。) 冠位十二階が改められて、大臣、地方豪族も官僚制に組み込まれる ※ 渟足柵 (ぬたりのさく:新潟県) |
648 | ※磐舟柵(いわふねさく:新潟県) |
649 | 李世民死亡 |
650 | 難波遷都 |
654 | 次第に皇極上皇、中大兄皇子の力が強くなり、孝徳天皇は退位を迫られる。その後、死亡(自然死か病死?)し、皇極天皇が再び天皇に。 |
one more:650年の難波遷都
大化の改新では中央豪族の代表として阿部内麻呂が左大臣、蘇我倉山田石川麻呂が右大臣に就任。中臣鎌足は内臣という地位につき、旻と高向玄理が国博士に就任していた。難波への遷都は東アジア情勢に積極的に関与するためと思われる。
また、この時代に東北経営基地が置かれている事にも着目。
第37代:斉明天皇期(655年~661年)
654 | 孝徳天皇が死去し、皇極天皇が斉明天皇として再び即位。 |
655 | 高句麗、百済連合で新羅侵攻。 |
658 | 阿部比羅夫の蝦夷遠征(~661) |
660 | 唐と新羅が高句麗討伐に向けて手を組む。手始めに連合軍はあっという間に百済を滅ぼし、百済がヤマトに助けを求める。 |
661 | 斉明天皇、大坂(難波津)から博多(那津)へ出発。さらに筑紫に渡ったが、出発前に死亡。(68歳!) (※額田王「熟田津に船乗りせんと月待てば潮もかないぬ今はこぎいでな」) ♨この時代はまだ天皇が軍事の長も兼ねていたことがよくわかる。しかし、68歳で最前線に向かうって、なんかすごい。 以後、空位に。 |
one more:阿部比羅夫
斉明天皇の命を受けて、蝦夷征伐に。北海道まで侵入したと言われている。その後、白村江の戦にも駆り出される。諸説あるが、東北地方において「阿部(安部)」という名前は特別な意味合いを持つようだ。
空位時代(661年~667年)
663 | 白村江の戦 日本・百済連合軍が唐に大敗。朝鮮半島南西部。 ★ちなみに間違えやすいところであるが、この時、新羅は戦っていない。古代最大の戦いと言われるが、「そうでもなかった」説も浮上中。どっちなんだ??【危機を煽って中央集権を狙った?コチラも】 |
664 | 唐では則天武后が実権を握る。 |
667 | 近江大津宮へ移る。翌年に正式に天智天皇が即位。 |
白村江の戦は、天智天皇がより強い中央集権国家を目指すために、危機を煽ったという説もあり。空位時代が長かったことに対する疑問なども叫ばれているが、天智天皇に当時そこまでのカリスマ性がなかったとすれば、この説はなかなか信憑性が高いと感じる。【コチラ!超面白い!】

天智天皇。wikipediaより。 『古今偉傑全身肖像』(1899年ごろ) ちなみに、天智天皇の読み方は「てんち」ではなく「てんじ」である。