こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「弘文天皇」時代です。
「大友皇子」と呼んだ方がわかりやすいでしょうか?
「壬申の乱」で大海人皇子に敗北したことで、「天皇になっていない」と思われがちですが、
1870年に天皇であったことが認められました。
第39代:弘文天皇期(672年)
【弘文天皇】・・・天智天皇第1皇子。大友皇子。
優秀であったが、母の位は低く、本人も大海人皇子が即位すると思っていた?
両者は皇位をめぐって壬申の乱で戦い、大海人皇子が勝利。
672 | 壬申の乱 ※天皇の位をめぐって大海人皇子と大友皇子が争う。 大友皇子が武器を集めている情報を聞いた大海人皇子が決起、というのが通説だが、大海人皇子にとっては予定の決起ではなかろうか。 そして、これを単なる皇位継承の戦と見ると本質を見誤る。 当時、唐と新羅が仲たがいを起こしており、白村江ショックから唐に隷属して新羅を倒すと言うのが天智天皇、大友皇子であり、新羅と手を組み、唐を半島から追い出す、という方針なのが天武天皇。この両派閥の争いであった。【コチラ:茂木先生の超日本史】 天武が勝った結果、以後3代に渡り30年間、遣唐使は送られていない。 |
弘文天皇は即位式を行っていないことから天皇に数えられない時代が長く続きましたが、1870年に追号されました。
当時の唐を牛耳っていた則天武后
【則天武后】…624(?)~705。中国史上唯一の女帝。
655年から3代皇帝高宗の后となる(31歳?割と上だ…)。
高宗の死後(683)、実子中宗、その弟の睿宗を帝位につけては廃位。
690 年国号を周と改め、みずから帝位に。長年の課題であった高句麗を滅ぼし唐の安定化に寄与。(ちなみに隋は4回失敗している)
彼女が権力を握っている間には農民反乱は一度も起きておらず、民衆の生活は安定していたとされる。
晩年は張易之兄弟ら寵臣が政を乱し、705年張柬之らの挙兵により中宗が復位し唐を再興するとまもなく病没。
唐王朝の成立を支えたのは、北魏以来の北朝の各王朝の軍事基盤であった関隴集団と言われる鮮卑系貴族であったが、則天武后の立后を機会に、彼らの勢力は後退し、科挙によって官僚となった実務派が台頭した(玄宗皇帝による開元の治が可能だったのも彼らがいたから)。
また、自ら漢字を創作し、則天文字と称した(国を圀とするなど)。他、仏教を崇敬し、官寺を大雲寺として保護したり、畜類の殺生や魚の捕獲を禁止したりしている。
日本における大仏造営と諸国に国分寺を造る仏教政策は、則天武后を真似たものであった。
出口治明先生の「世界史の10人」でも傑人の1人として取り上げられました。
従来考えられているほど悪女ではないという説であり、持統天皇即位も彼女の影響ではないか?と述べておられます。
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