~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「舒明天皇」時代です。

蘇我馬子は推古天皇時代に死んでしまっていますが、

息子の蘇我蝦夷(えみし)は蘇我氏同士の争いに勝利して絶頂期を迎えます。

第34代:舒明天皇期(628年~641年)

【舒明天皇】
敏達天皇(30代)の孫(推古天皇ではなく、その先妻の子孫)であり、蘇我蝦夷の妹の夫
山背大兄王(聖徳太子息子)と皇位を競うも、蘇我蝦夷の力で舒明天皇即位
 
舒明天皇時代に、蘇我氏の勢力は最大となったと言われる。

628 舒明天皇即位。

山背大兄王を推挙していた境部摩理勢(蘇我馬子の弟)は蘇我蝦夷に攻められ死亡。
630 第1回遣唐使が派遣される。犬上御田鍬。

遣唐使は最初は北路中心であったが、新羅との関係が悪化してからは南路が用いられた。
632旻(みん)帰国
640高向玄理帰国
641百済でクーデター

628年、舒明天皇即位に際して蘇我氏が分裂

「境部摩理勢(さかいべのまりせ)」をご存知でしょうか?

蘇我馬子の弟です。

境部氏というだけに、たしか国境策定などの仕事をしていたような…(うろ覚え)

推古天皇逝去後、次期天皇に蘇我蝦夷が田村皇子(舒明天皇)を推す一方、

境部摩理勢は山背大兄王を推しました。

両者は争いとなり、蝦夷が勝利となります。

630年、第1回遣唐使

第4回遣隋使にも選ばれた犬上御田鍬が第1回遣唐使となります。

632年、第1回遣唐使が旻と共に帰国。

第1回遣唐使の帰りに、旻も日本に帰ります。

【旻】…古代の学僧。608年、小野妹子に従って中国に渡る。留学生活 24年の間、仏教のほか易などを学び、632年遣唐使犬上御田鍬に従って帰国した。彼の易の講義は中大兄皇子や中臣鎌足ら大化改新の主導者や蘇我入鹿も聴講した。のち、改新政府発足にあたって国政諮問機関である国博士となる。653年没。

640年、高向玄理が帰国。

さらに8年後、高向玄理も帰国します。この頃、まだ舒明天皇時代です。

【高向玄理】…古代の学者。渡来人の子孫。608年、小野妹子に従って中国に渡り、隋、唐で学んだ。留学すること32年、640年に帰国。645年の大化改新では国博士に任じられ最高顧問となり、646年には新羅に派遣された。654年第3回の遣唐使に押使として入唐。654年客死。

「旻」と「高向玄理」は、のちの大化の改新で「国博士」として国家システム建築に活躍したとされ、よく出題されます。