~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

年代順に並べるのはつまらないと思っていたが、結局のところ、年代順に落ち着いた。注目すべきはやはりエースの空海。20年の修行期間を2年で終わらせるとか、いろいろ有り得ない。

また、吉備真備、阿倍仲麻呂、大伴古麻呂と並ぶクリーンナップは荘厳。中継ぎには小野篁、抑えには菅原道真と「実際には渡航していない組」で幕を閉じる。なお、最新研究によれば菅原道真は「白紙に戻そう」なんて言っていない

【遣唐使打線】

1右 犬上御田鍬 270.HR10(第1回遣唐使、630年)
2二 山上憶良 245.HR0(第8回遣唐使、702年)
3遊 吉備真備 388.HR38(第9回遣唐使、717年および第12回遣唐使、752年)
4中 阿倍仲麻呂 320. HR 29(第9回遣唐使、717年)
5捕 大伴古麻呂 375. HR 34(第10回遣唐使、733年および第12回遣唐使、752年)
6一 最澄 340. HR 27(第18回遣唐使、804年)

7投 空海 500. HR 50、25勝0敗、防0.16 (第18回遣唐使、804年)
8左 橘逸勢 280. HR 10(第18回遣唐使、804年)
9三 円仁 333. HR 20(第19回遣唐使、838年)
中継 小野篁 3勝3敗、防2.25(第19回遣唐使、838年)
抑え 菅原道真 10勝4敗、防2.00(第20回遣唐使、894年)

1右 犬上御田鍬(生没年不明)

栄えある第1回遣唐使としてその名を日本史史上に残す。

しかし、何をやったのかは定かではない。

コチラも

2二 山上憶良(660?~733?)

「貧窮問答歌」のイメージが強いが、れっきとした遣唐使である。日本文学史上、最も早く「貧乏」をテーマにすることを決めた人物として尊敬を受けるが、

本人は貧乏ではない。

コチラも

3遊 吉備真備(695~775)

2回目に行かされたのは藤原仲麻呂の陰謀。しかし、

兵学も学んでいた

真備は藤原仲麻呂の乱で参謀として仲麻呂を打ち破った。

コチラも

4中 阿倍仲麻呂(698~770)

もし、船が難破していなければ、橘諸兄政権を支える1人となっていたであろう。玄宗皇帝の信任も厚く、

なかなか帰国させてくれなかった

というのもスゴイ。

5捕 大伴古麻呂(?~757)

754年の鑑真来日は彼の胆力がなければ達成できなかった

であろう。のちに橘奈良麻呂の変で獄死するという数奇な運命をたどる。

6一 最澄(766~822)

空海の引き立て役、といったら比叡山の門徒に命を狙われるであろうか。最澄も理論派であり、頑張った。

ただ、空海が天才過ぎたのだ。

7投 空海(774~835)

「日本史史上最高の天才は空海だと思います。」

と香川県出身の人に言えば、まず嫌な顔をする人はいるまい。唐へ留学するや否や、その才能を買われていきなりトップに上り詰め、20年かかる修行も2年で終わらせる。書の達人でもある。治水工事もできる。

8左 橘逸勢(782~842)

中国語が不自由であったために習字の練習ばかりしていたら書の達人になっていた。

帰国後は承和の変に巻き込まれて散々な目に遭う。同族の嘉智子のことも恨んだであろうか?

9三 円仁(794~864)

「入唐求法巡礼記」の作者。この書はライシャワーに紹介され、

海外での方が有名かもしれない。

憧れの唐へ渡ることができたが、結果的に最後の遣唐使となった。のち、天台宗は分裂し、円仁は山門派を取り仕切る。

中継 小野篁(802~853)

結論から言うと、

「駄々をこねて唐へ行かなかった」。

その時の罰として島流しにあった時の歌(わたの原 八十島かけて~)が「参議篁」名義で百人一首に掲載される。

抑え 菅原道真(845~903)

遣唐使廃止は彼によるものと言われているが、近年の研究によれば

「白紙に戻そうなんて一言も言っていない」

ことが判明【コチラ】。道真の大宰府左遷と唐の滅亡が相次いだことで、自然消滅した、という見方が正しいか。