~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

何度読んでも「新しい」と感じる。

一言一句が重要。「読書メモ」を作るなら、全文「写経」が必要。

是非アニメ化して国民に広く流布して欲しい。中級者以上向け。

購入して読まれるのが一番であるが、時間がかかるであろうことから、「引用文」で打線を組んで贈りたい。

オーダー

「中世で活躍した代表的な武士に農民の子孫など一人もいない。」 390.24HR
「地面すれすれの小皿を馬上の高さから射るなど困難の極みだが、盛純はこれもすべて的中させた。」 1.00045HR
「西国の平家は東国の源氏に勝てません。」 333.25HR
「称徳の実力と強靭な意志を甘く見るのは得策でなかったのだろう。」 400.33HR
「桓武の皇子・皇女は何と三十二人を数える。」 300.18HR
「“意識高い系”の皇帝を演じた。」 321.18HR
「将門の方が穏便なくらいだ。」 388.28HR
「いわば警察手帳をもったゴロツキ」 278.20HR
「その身は浮雲の如し」 300.10HR
先発 「すべての始まりは墾田永年私財法だった。」 12勝4敗2.96
中継 「社会が荒れない方がおかしい。」 15勝5敗2.00
抑え 「武士は、京を父とし、地方を母とし、地方で受精し、地方を母胎として地方で育った混血種の子たちだ。彼らにとって京と地方はどちらも故郷。」 6勝40S1.50
代打 「宇多には摂関家を潰す気はないし、摂関家は敵ではない。」 385.20HR

1右 「中世で活躍した代表的な武士に農民の子孫など一人もいない。」

戦後の学者たちも「マルクス史観」をあらゆる年代にあてはめようと考え、

「圧政に苦しむ農民の中から自分たちの土地を守るべくして武士が誕生した」

という考えに辿り着いていたが、著名な中世史家である網野善彦先生は、マルクス主義に熱中していた初期の研究を後悔し、それらの取り組みを

「戦後の戦争犯罪」

とまで言い切った。

武士を「草深い地方から生まれた新時代のヒーロー」と見ると、中央(京)と武士の強固なパイプの意味も、前代からの強い連続性も、暴力と殺戮に満ちた血塗られた所行の数々も見えなくなる

2遊 「地面すれすれの小皿を馬上の高さから射るなど困難の極みだが、盛純はこれもすべて的中させた。」

「吾妻鏡」による武士の「騎射能力の高さ」を示すエピソードである。

源平合戦の頃、諏訪盛純という信濃の武士が頼朝のもとに遅れて合流したため、頼朝は盛純を日和見主義として捕縛した。ある時、盛純は流鏑馬を披露する場を与えられ、悪馬に乗って15cm長の串に刺した小皿3枚を射るように命じられた。盛純はこれを全て的中させた。しかし、話はまだ終わらない。頼朝は今度は地面に残った三本の串を射るよう命じたのだ。盛純はこれも全て的中させたために、ようやく赦されて御家人に加えられた。

こういう話は多少「盛っている」と思われるが、現在のトップアスリートたちを観ていると強ち誇張でもないのではないと感じる。ちなみに、諏訪盛純は伝説の武人、藤原秀郷流の伝承者である。

3左 「西国の平家は東国の源氏に勝てません。」

源平合戦の頃、東国事情に詳しい藤原範季という廷臣が、

「西国と違って、東国の武士は末端の雑用係の従者まで弓術に携わるので、西国の平家は東国の源氏には勝てない」

と述べた(「愚管抄」)。

東国は軍馬の産地でもあり、彼らにとって馬を扱うことは生活の一部であった

西国では聖武朝の頃から郡司や富裕層など一部の有閑階級にしか騎射能力が期待できなかったが、坂東では訓練すれば農民階級にも期待できたと言う。

弓馬の強さを示すエピソードは世界各国枚挙に暇がないが、本国においても俘囚(帰順した蝦夷)30~40人程度が国司軍1000人に勝ったと言う記録がある。

江戸時代初期の武家諸法度を見ても「武士」が鍛錬すべきは「刀剣」ではなく、「弓馬」の道である。

4一 「称徳の実力と強靭な意志を甘く見るのは得策でなかったのだろう。」

743年に聖武天皇が制定した墾田永年私財法であるが、娘の称徳天皇は765年に新たな開墾を一切凍結させる法令を出した。

それまでさんざんやってきてた王臣家であったが、この禁令には従い、開墾ラッシュはピタッと沈静化した

彼らにとっても前年に藤原仲麻呂という強大な権門を軍事的に破って天皇に返り咲いた称徳女帝の実力と強靭な意志を甘く見るのは得策でなかったのだろう。

♨「奈良時代の女帝かいっ」というツッコミは、称徳天皇のことを知らない人でもそこそこ通じる。

称徳天皇はのちに道鏡を天皇にしようと考えたことでも知られるが、称徳はあくまでも道鏡を中継ぎ天皇として考えていたようである。 【コチラも

5中 「桓武の皇子・皇女は何と三十二人を数える。」

奈良時代には親王不足が問題となっていたが、

平安時代が荒れた元凶は桓武天皇の子だくさんであった。

そんなに役職も食い扶持もないうえに、役職を与えたとしても、行政に深刻な影響を与えたため、淳和天皇時の826年に、親王を八省の長から外す代わりに「上総、常陸、上野の三カ国の長官」という名目を用意した。これが「親王任国制度」の始まりである

のちに臣籍降下した平氏はこれらの地域で力をつけていくが、文人であった貴種・高望王に、国司や郡司、東国の気風・文化などが結合して、瞬く間に坂東武者たちが跋扈する社会が形成されていく。

ちなみに、平将門は桓武天皇の五世孫、桓武天皇皇子の嵯峨天皇は子女が47人。

6指 「“意識高い系”の皇帝を演じた。」

これは嵯峨天皇息子、「仁明天皇」を指す。

914年に三善清行が醍醐天皇に提出した「意見十二箇条」では歴代天皇の放漫財政に苦言が呈されているが、

「飛鳥~奈良時代に無闇に仏教が流行し、全国の国分寺・国分尼寺の造営などで天下の富の10分の5が消えた。次に、桓武天皇が巨大な宮都を二度も造って、残る富の5分の3が消えた。

そして仁明天皇が奢侈を好み、美麗に飾り付けた宮殿で、前代未聞の豪華さで行う宴会を繰り返し、残る富の2分の1が消えた。」

と書かれている。

仁明は「文章経国」という思想を持ち、「素晴らしい漢詩文を作ることで礼の秩序を維持、向上させることができ、国家が繁栄する」と本気で考えていた。

儒学の良いところはあるにせよ、儒学一辺倒は問題である。このタイプ、割と現代社会にも存在するので、仁明天皇の例を引き合いにするとよいであろう。

7三 「将門の方が穏便なくらいだ。」

実は将門の乱以前から国司の殺害や国衙の襲撃はありふれた事件になっていた。

将門は「国司を殺していない」ので、「むしろ穏便」と言うわけだ。

ただ、将門が他の件と決定的に違ったのはその規模と「新皇」を名乗ってしまったことである。889年の「物部氏永の乱」が12年も続いたように、大抵のことには目をつぶっていた朝廷であったが、将門の「新皇宣言」は朝廷が引いていた「一線」を超えた。

のちに頼朝が天皇を名乗らなかったのは、将門の失敗例を学習しているからである

著者によれば将門は、常に「単純」。

王臣子孫の自分は地方社会の「まとめ役」であると信じ、紛争に出向いては事情を調べずに「仲直りせよ」と言い、相手に頼まれたら頼まれた相手に肩入れして敵対相手を「脅し」、相手が従わないと、深く考えずに「襲撃」

徐々に規模が拡大し、「国衙を1個倒すのも8個倒すのも同じ」となって、「自分は天皇の子孫だからこれくらいはしても良いはずだ」となったが、良いはずがない。

しかし、この将門の行動こそが王臣子孫の「たち」の悪さを端的に表している。

8捕 「いわば警察手帳をもったゴロツキ」

「衛府」の役人のことである。

前述の三善清行は「悪僧」と「衛府の役人」が社会の害悪と非難しているが、

彼らのやっていたことは、酒宴に勝手に入って、喰い散らかすなどであり、やっていることは群盗と同じ。

今、これを警察がやったら大変なことであろう。

「衛府」が武士の起源という説を唱える学者もいるが、「衛府」はあくまでも警察組織であり、軍人ではない。

軍人は警察になれるかも知れないが、警察は軍人にはなれない。

技能の種類ごとに区分したリストである大江匡房の「続本朝往生伝」にも「衛府」と「武者」は別のグループとして書かれている。よって、著者は「衛府」=「武士起源説」を否定。

群盗対策として期待されたはずの衛府がそんなだったから宇多天皇が「滝口の武士」を必要としたわけだ。こっちは正式な「武士」。平将門も滝口出身である。

9二 「その身は浮雲の如し」

平将門の乱の最中、将門が敵の平貞盛(甥)の所在を藤原一族に尋ねるが、その時の返答がこれ。しかし、これこそ、王臣子孫の居住形態を最も端的に語った言葉だ。

王臣子孫たちは船や馬を駆使して、定住せず流浪していた。

彼らにとって故郷とは京でもあり、地方でもある。

彼ら貴種を必要とする輩はたくさんいた。たとえば、古代豪族。「古代の武人は中世の武士とつながらずに消えた」と多くの専門家は言うが、それは大きな誤り

彼らは王臣子孫(源平)を看板に掲げ、その下の家人の層に潜んでいた。わかりにくいだけで、彼らは後の日本史にも計り知れない爪痕を残している。

ちなみに、平貞盛は、将門との戦いを貫徹する意思がないと繰り返し表明していたが、それでも再対決せねばならなかったのは源護の婿代表としての責任からだった。この構図が、将門の乱の難しいところである。

女系図で見る・・・はコチラ

先発: 「すべての始まりは墾田永年私財法だった。」

743年、聖武天皇は「墾田永年私財法」を発令した。

この法は、公地公民を前提としていた奈良時代において、「土地の私有化」が認められるという画期的な法律であった。

これにより「百姓に開墾意欲を持たせた」的なことを小学校で習うが、実際は「権力者が猛然と墾田を開発、集積」となった。

つまり、「墾田永年私財法」は、百姓にとっては「開墾した田地を私物にできる」法令だったが、

権力者にとっては、「百姓に開墾させた田地を私物にできる」法令だった

その一番の「権力者」は「院宮王臣家」と呼ばれる「皇族」+「貴族(三位以上の上級廷臣)」+「準貴族(五位以上の中級廷臣)」。

当時の法体系において、彼らは何をやっても処罰されることがなかったため、やりたい放題であった。王臣家の従者含め、百姓たちを囲い込んで墾田させるその姿は「狂気」を孕んでいた

中継: 「社会が荒れない方がおかしい。」

わかりやすくいうと平安時代とは、「北斗の拳」の世界である。「平安=雅」とかなんのこっちゃ。

芥川龍之介の『羅生門』も平安時代の話であり、そもそも「平安」というネーミングは平和を願ってつけられた(つまり、平和でなかった)。

774年からの「東北三十八年戦争」が、嵯峨天皇の代で一段落すると、辺境に従事していた有閑騎射(郡司富豪層の子孫)たちが社会に戻ってきた。社会が荒れない方がおかしい。

王臣家と主従関係を結んだ有閑弓騎たちと王臣家の関係は「武士団」の原型であり、

王臣家を主人に仰ぐ手間を省いて独自に集団行動したものたちが「群盗」の始まりであった

さらに、俘囚(帰属した蝦夷)や、禄を失った王臣子孫たちも「群盗」となり、手がつけられない状態となっていく。

摂関政治は天皇の権威を弱めたため、地方社会における群盗問題はしばらく解決することがなかった。

ちなみに瀬戸内海の海賊は間違いなく王臣子孫、王臣家人である

抑え: 「武士は、京を父とし、地方を母とし、地方で受精し、地方を母胎として地方で育った混血種の子たちだ。彼らにとって京と地方はどちらも故郷。」

徳川慶喜の母は天皇家であったことを考えると、戊辰戦争のときの彼の行動がよくわかる。これまでの歴史は父系ばかり強調されてきたようにも思えるが、母系ももっと考えねばいけないと思う。

源氏にしても坂上田村麻呂の娘、坂上春子の血をもらっているからこそ我々の知る源氏なのだ

「混血種」と言う言葉には本来の言葉の意味から考えるとやや違和感を感じるかも知れないが、武士は京都だけでは生まれず、地方社会に貴姓の血が振り掛けられてこそ発生したものということを改めて強調したい。

武士は京も地方も均等に重点を置いたという点が、彼らの新しい点である。

もっとも、鎌倉幕府が東国に誕生し、大多数の武士が鎌倉・東国に貼りついて動かない生活を始めると、皮肉にも彼らの強みである混血的なあり方が弱まっていく。

代打: 「宇多には摂関家を潰す気はないし、摂関家は敵ではない。」

「阿衡の紛議」など、教科書や学参などでは宇多天皇と藤原摂関家は対立したように描かれることが多いが、本当に天皇家が藤原氏を倒そうと思ったら、天皇家の方が強いのでは?と常々疑問に思っていた。

しかし、この一文を読んで心の痞えがとれた。宇多天皇にとって、藤原氏は敵ではないし、潰す気はなかったのだ。

平将門の乱、藤原純友の乱を共に勝ち切ることで天皇家と藤原氏の関係はより強固なものになっていく

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